「自分を俯瞰する」とは「一切の価値判断をしない」こと
「一歩引いた目線」って大事だと分かっていても、実際にやってみるのは難しいですよね。
今日は「自分を俯瞰する」ことについて考えてみます。
自分の認識を肉体(脳)から分離させる
例えば仕事で失敗して落ち込んだ時。
「こんなに自分がダメな人間だったなんて」
「この仕事がそもそも自分に向いているか分からなくなった」
こんなネガティブな気持ちが頭の中にどんどん浮かんでくることがあるでしょう。
でも上に挙げたものはあくまでも頭の中で考えた「お気持ち」であって、事実を述べているわけではないことが分かりますか?
そもそも現実で起きたことは「仕事で失敗した」ことのみであり、「落ち込んだ」のは自分の脳が「失敗はダメなことだ」と価値判断した結果自分の中に生じた感情なのです。
喜怒哀楽や快/不快、良い悪いといった価値判断をした途端、思考はループ状態に入ります。特にネガティブな価値判断をするとその傾向は顕著です。
ループ状態に入った思考では主観100%で物事を見ている状態となり、抜け出すのは困難を極めます。感情的に落ちるとこまで落ちていって底を打ってようやく上がってこれるかどうかというレベルで難しいです。
自分を俯瞰するということは、客観100%で物事を見るということです。
先ほどの例でいえば「仕事で失敗した」という事実を事実として受け入れるだけです。落ち込んだ瞬間、主観が入ってくるので俯瞰しているとは言えません。
また、「事実として受け入れるだけ」というと、「これじゃあ反省していないじゃないか」という人もいますが、ハッキリ言ってナンセンスです。
反省とは落ち込むことではなく、失敗を踏まえてそれをどのように今後に活かしていくかを考えることです。失敗から学ぶことは何か、同じ失敗を繰り返さないために何ができるのかを考えることが反省だと私は考えています。
話がそれましたが、
「起きた出来事をありのまま事実として認識し受け入れる」ことが即ち「自分を俯瞰する」ことではないかと思います。
そこには脳という肉体から生じた価値判断(感情)の一切を介入させてはいけません。
たとえ俯瞰している時に何か感情が芽生えたとしても、それすらも事実として捉えるだけで、反応してはいけないということです。
ネガティブな思考ループを断つことはできるのか?
ネガティブな感情は意外と長く自分の中に居座ります。
嫌だった出来事を忘れるのって割と時間がかかりますよね。
それは、ネガティブな感覚が、人間が種として生き延びるために必要な感覚だったからです。
遠い昔、まだ人間がジャングルで文明の利器もなく生活していたころ、
生き延びるためには危険を早く察知する能力、そして嫌な記憶を長く保持することで二度と同じ危険に遭遇しないように身を守る能力が不可欠でした。
今は文明も発達し、私たちが自分の命を脅かすような脅威と背中合わせの状態で過ごすことは殆どなくなりましたが、脳のはたらきは文明の発達に合わせて変化してきたわけではなく、先史時代と同じままです。
だから不快な感情のほうが脳へのインパクトが強いのはどうしようもない。
そしてどんなにネガティブな感情が生じないように頑張っても、脳はありとあらゆるネガティブな考えや感情で私たちに危険を知らせてきます。これも本能だから仕方がない。
ネガティブは滅せないが、ループを滅することはできる
ネガティブな感情は脳が生み出すものです。
ネガティブな感情そのものを完全にゼロにすることは、どんなに修行を積んだお坊さんにもできません。
「感情をコントロールする」ことは本質的に無理
と思ったほうが良いでしょう。
でも、ネガティブループの罠にはまらない方法はあります。
それが「自分を俯瞰して見る」こと。
自分の中に芽生えた感情に反応しないこと。
水はスピリチュアルな世界では感情を象徴することがあります。
川の水が一か所に留まらず、常に高いところから低いところへ流れていくように、感情もまた同じ場所に留まることはありません。
感情が色々誘惑してきたとしても、それに反応することなく、ただその感情が川のようにどこかへ流れ去るのを待っていれば良いのです。
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