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ビー・デビルに見る我慢という負債の限界

映画「ビー・デビル」では人生に我慢を重ねた女性が、娘を殺されてとうとう我慢の限界に達する。
それが引き金となって、小さな島の住民を皆殺しにするに至る。



彼女は周囲の執拗な暴力を我慢した。
その結果、どのような負荷が彼女を襲ったのだろうか?

この問いを考える前に、まず感情の認知的評価理論を踏まえたい。
有斐閣現代心理学辞典においては、次のように説明されている。

さまざまな“感情”がいかに喚起するか、また感情の種類はどのようなものかという探求から、感情が引き起こされる状況要因に着目する研究は起こった。さらに、環境に応じて一律に感情が生じるわけではなく、環境と主体との関係性、主体側の主観的判断や評価によって、生じる感情が決まると考える、主体側の認知を重視する一群の研究が起こり、これらを感情の認知的評価理論とよぶ。(中略)環境との関係性が予測不能な新奇な事態には驚きを、他者の責任に基づく他者の統制下にあるネガティブな事態には“怒り”を、外的状況(環境)や他者によって生じ、統制しにくいネガティブな事態には”恐怖”を、自己の責任で自己に向けられた、自己が統制可能なネガティブな事態には恥が生じるなど、その感情喚起の予測に資する条件が特定される。

子安増生・丹野義彦・箱田裕司 監修「有斐閣現代心理学辞典」有斐閣、2021年


感情が認知されるとき、環境と主体との関係性がまず影響を与える。
主体側の主観に基づく判断や評価の影響も受ける。
これらによって、まず感情が生じる。
これを一段階目、一次評価とする。
ここで好ましいと感じているか、好ましくないと感じているかで感情は影響を受ける。

実際に環境に関わるとき、予測においても行動においても感情は生じる。
これを二段階目、二次評価とする。

二次評価における行動の結果は一次評価に影響を及ぼす。

泳げるならば海を前に怯むこともなく、泳げない者は怯む。溺れた者はより強く恐れるだろう。深い水に溺れる恐ろしさを知らなければ海を恐れる発想もないかもしれない。
津波による被害が甚大であることを知っている者は、その被害を想起した感情を抱くが、そもそも津波がどういうものか知らなければ、抱く感情もまた大きく異なるだろう。

感情と状況は独立して存在するのではない。相互に作用しあいながら生じている。どちらも自身の知識や価値観、これまでの経験にも影響を受ける。

そのうえで改めて問う。

彼女は周囲の執拗な暴力を我慢した。
その結果、どのような負荷が彼女を襲ったのだろうか?

せっかくだから問いを増やしてみよう。

いったい、我慢とはどのようなメカニズムなのだろうか?
島の者たちはなにを我慢して、その結果、どのような感情を、どうすることで処理してきたのだろうか?
そうした我慢は実際のところ、負荷に対して有効だったのだろうか?


まず結果的にいえば、犯行に及んだ彼女をはじめ、彼女に犯罪を重ねた島の人々たちも、傍観する振る舞いにおいても、そのすべてが負荷に対して、なんら有効ではなかった。

映画を観た人であれば無駄だと結論づける意見を持つのではないだろうか。

そう感じるだけの根拠はある。


犯行に及ぶ女性ボンナム。
彼女に加害行為をする男から入ろう。

島に住む数少ない男のひとり、マンジョンは弟のチョルジョン、トゥクスらとともに少年時代にボンナムを強姦した。それからしばしばボンナムは男たちに強姦されるようになっていたことを示唆する場面が流れる。
ボンナムには娘のヨニがいる。ヨニの父親がだれかはわからない。たび重なる強姦のなかで妊娠して出産に至ったこどもだ。
マンジョンはボンナムを嫁にして、ヨニを引き取る。ボンナムとヨニに愛情があるからではない。ボンナムは島に残るたったひとりの若い女であり、ヨニもまた、やがてそうなる立場だからだ。
実際、マンジョンは十になるかならないかくらいのヨニを相手に性交に及んでいた。一度や二度では済まないほどに。
それだけでも十分すぎるほどの鬼畜ぶりだが、マンジョンがボンナムに口走る内容が彼の我慢を浮き彫りにしている。
「一度も心を開かなかったな」
「俺の身体を虫扱いして! お前の身体は石ころだ!」
「だからアソコも勃たねえんだ!」
ボンナムが言い返す。
「だから娘に手を出してたの!?」
たまらず「黙ってろ」と張り倒す。
「すべてを明らかにして警察に突きだす」と言われて「お前を殺して正当防衛にしてやる」とナイフを突きつけた。
モラハラDVレイプ野郎丸出しだ。殺意までちらつかせるほどだ。
そんなマンジョンの向けたナイフを、ボンナムは謝意をちらつかせて、舐めてみせた。舌遣いに興奮したマンジョンはナイフを取りこぼして情事に耽ろうとするが、言うまでもなくボンナムがマンジョンを油断させるための演技である。
指を深く噛まれた彼はマンジョンが口に咥えたナイフで腹部を刺し貫かれる。マンジョンへの恨みから、ボンナムは彼を何度もナイフで刺した。そして、彼を味噌まみれにするのだ。自分を殴るたびに「味噌でもぬっとけ」と言って済ませていたマンジョンへの仕返しに。これでいいだろと怒鳴るボンナムの怒りのすさまじさはマンジョンが彼女を執拗にいじめ抜いていたことへの遅すぎた反撃だった。

マンジョンが育った島の風習も凄まじい。

十五歳になって島に嫁いできたマンジョンの叔母トンホは、辺境の寂れた島を守るためには、島に人が残るためにはなにが必要かを語る。
若い女だ。
男たちが残り、留まる必要がある。
あらゆる仕事において男が必要だ。
そんな男たちを繋ぎ止めるものとはなにか。
若い女なのだ。
トンホは島を守るために男が外に行くことを嫌う。島に残ることを求める。
そのために最も利用するべきものとはなにか。
若い女なのだ。
学習? 知識? 教養? 文化?
いらない。あってはならない。むしろそれらは島を脅かすものだ。
女は男のものになる。そうすることで男たちを島に繋ぎ止める楔になる。
独身でいる? あり得ない。嫁ぎ、子を生み、自分の娘であろうと島を守るために犯されなければならない。
そんな異様な信仰を抱いてトンホは頑なに実行している。
あるいはトンホ自身が嫁いできて島で体験してきた積み重ねが、その信仰を堅固で頑強なものにしているのかもしれない。

自分が耐えた、我慢したことだから、他の者も同じようにするべきだ。
そんな思いがあったとしても、不思議ではない。

そうした心情のもと、トンホを筆頭とする島の女たちはもとより、若い女を求める島の男たちの被害に晒されたのがボンナムだ。
彼女だけではない。
彼女の娘、幼いヨニさえも、マンジョンの被害に遭っている。
だれも止めない。
傍観する。黙認する。
我慢を強要する。当たり前のものにする。
そして、みんなでひとりのせいにする。
みんな我慢しているとして、負荷を直視せず、解決しようとしない。
我慢を維持できるようにするために、より弱い人間をものにして、みんなの生け贄として利用する。

ボンナムさえ、その状況下に我慢してきた。
他に術がない。
島から逃げようとしたこともあったが、たびたび失敗している。
マンジョンやトンホからどのような扱いを受けたのか、想像に難くない。
それでもヨニさえマンジョンに犯されていたと知ったため、島から逃れようとしたのに、ヨニは殺されてしまった。
島の者たちが口裏を合わせて、よりにもよってボンナムに罪を着せた。
翌日になって、だれもヨニの死を悲しむことなく「また日常が戻ってきた」として、ボンナムだけに働かせている。歌って踊って、暇を潰す奴らまで出てきた。

我慢。
我慢。
我慢。

耐えて、なにかいいことがあるのか?

なにもしなかったら娘が犯されつづけて、マンジョンの子を身ごもるかもしれない。それに対してさえ、だれもなにも言わず、生ませようとするだろう。無事に出産できたとして、その子が娘だったら? またしても男たちが犯すのだ。年齢などお構いなしに。

なにもしなかったらマンジョンに暴力を振るわれて、これまでのようにチョルジョンに犯されて、トンホにはひどいことばをやまほど浴びせられて、死ぬまでこき使われて働くばかりだ。自分は元より娘も救うことができない。

こんな日々を耐えて、なにが得られる?

こんなに我慢して、なにがどうなるというのだ。
だれかの我慢のツケを担わされることで、なにがどうなるというのだ。
なんの得もない。それどころか傷つけられて、奪われてばかりじゃないか。

「我慢をすると病気になる」

村の婆さんトリオ、最後のひとりを殺すとき、ボンナムはそう言った。


傍観が鍵のひとつだと初見時に書いたが、本作は我慢も大きなキーワード。

トンホはトンホで、マンジョンはマンジョンで我慢をしている。

人生において我慢はつきものだ。
好き放題には振る舞えず、真摯に生きたところで結果を保証するものではない。思いどおりにはならない。思わぬ瞬間に立ち会うこともある。
すべてが思いどおりに進み、自分が煩わされることなどない? そうはいかない。なにかを失う瞬間もまた、避けることはできない。
我慢はつきものだ。

しかし我慢するから、我慢してきたなら、だれになにをしてもいいという話でもない。言うまでもないが。

そのとき生じた感情にふたをしたところで、なにがどうなるか。

感情が認知されるとき、環境と主体との関係性がまず影響を与える。
主体側の主観に基づく判断や評価の影響も受ける。
これらによって、まず感情が生じる。
これを一段階目、一次評価とする。
ここで好ましいと感じているか、好ましくないと感じているかで感情は影響を受ける。
実際に環境に関わるとき、予測においても行動においても感情は生じる。
これを二段階目、二次評価とする。
二次評価における行動の結果は一次評価に影響を及ぼす。

我慢をしたところで環境も、主体も、両者の関係性も変化しない。
主観も、主観に基づく判断も評価もだ。

生じた感情も変化しない。
好ましくないものゆえに我慢したとき、我慢する対象への予測と行動によって生じる感情も変化しない。

つらい体験を我慢したとき、そのつらさは我慢によって変化しない。
つらさの要因となる環境も主体も、なにも変化しないのだ。

しかも、つらいと感じた感情は、それに接するときに影響を及ぼす。
よくない形で。

負の要素が強化される。
ただひたすらに。


傷つき体験とショックが幾重にも積み重なっていく。
それらもまた我慢するしかないときが人生にはある。
その先でなにをどうするか。
なにができるのか。

手札になにもない。
なにかをする体力も気力もない。
お金が必要なのにない。
縁があればと願っても孤立している。

だからもう、我慢するほかに術がない。
そういう立場にボンナムは追いやられている。

トンホは自らの我慢の蓄積をボンナムに背負わせることで。
マンジョンは自らの不満をボンナムに暴力を振るい、幼いヨニを犯すことで。
それぞれ我慢を維持しながら、他者をもの扱いして我慢の刺激を和らげようとしているが、我慢の源と対面しているのではなく、まるで筋違いのことをしているために、我慢は解消されることがない。

我慢のそばにある過去も傷も、その痛みも癒やされることはない。
そればかりかトンホはボンナムに、そして島に残らせる男たちに、島の仕組みに受け身な者たちに現状を強いる。
マンジョンはボンナムに際限なく暴力を振るいつづけるし、ヨニがいくつになっても手を出し続けるだろう。仮にボンナムやヨニが新たに女の子を出産しようものなら、その子たちさえ狙うだろう。

彼らの我慢に対する選択は犯罪を再生産する。
そうして新たな我慢を生みだしていく。
循環していってしまう。

そんな我慢だらけの島、傍観を取り入れた閉鎖環境にボンナムは言うのだ。

「我慢をすると病気になる」


ひたすらボンナムに加害を重ねる島の人たちも、それぞれに我慢をしている。病気になった者たちの悪魔の如き振る舞いを我慢していたボンナムがとうとう我慢をやめて、自分に我慢を強いるすべての人を殺して回る。

なにもすることができない代わりに、ボンナムになにもしなかった島の物言わぬおじいさんだけが見逃される。

加害と被害が循環していく。
我慢を軸にして。

繰り返しになるが、

我慢をしたところで環境も、主体も、両者の関係性も変化しない。
主観も、主観に基づく判断も評価もだ。
生じた感情も変化しない。
好ましくないものゆえに我慢したとき、我慢する対象への予測と行動によって生じる感情も変化しない。
つらい体験を我慢したとき、そのつらさは我慢によって変化しない。
つらさの要因となる環境も主体も、なにも変化しないのだ。

その代わり、我慢をした際に生じる負荷は残る。
しかも増えていく。
さらに負荷には尋常でなく高い利子がつく。
我慢したという利子がつく。

我慢をするとき、自分の感情の受容をしていない。
感情が湧く自分を拒絶することを繰り返して慣れてしまうと、自分の感情を受容する体験を得られず、どうすればいいかを学ぶ機会を得られない。
そのために感情をことばにすることもできず、ことばにすることによって好ましい体験ができるかもしれないという期待さえ抱けなくなる。

なぜか。
まず一次評価時点で、これまで感情を受容することによる利がなかったから。損ばかりしてきたから。
わき出た感情を肯定できない。それを表にしようという期待を抱けない。拒絶感が増してしまったり、無力感に苛まれたりしてしまう。
常に自分を拒絶、否定するのに忙しくなってしまう。

そこまで追い込まれてしまったとき、体力、気力に及ぼす影響は決して無視できないものになるだろう。
我慢に留まる膨大な痛みや憎悪や恨みの熱量を「我慢すると病気になる」として、我慢することをやめたボンナムがどのように発散したのか。

我慢に我慢を重ねる。
それを維持するべく、だれかをもの扱いする。
その限界と加害性を描いた作品であると改めてふり返るビー・デビル。

U-NEXTに登録している方は現在、ポイント支払いなしで視聴可能だ。
Amazonプライムの場合は一作の視聴料を追加で支払うことで視聴できる。

我慢をすることで負債を増やす。
その負債は支払って減らすことができない。
我慢をすることへの根本的な対処のみをもって、我慢をする機会を減らすことでのみ今後は負債が増えることがないという形で対応できる。
なにか別の形で我慢をする状況に出くわすが、基本的には根本的な対応のみをもって解決していくほかにない。

ただただ我慢の一手を選ぶと、どうなるか。
やがて心身がもたなくなるほど負債が膨らみ、とうとう耐えきれなくなったとき、壊れてしまう。病気になる。
加害に転じる者もいるだろう。自分を殺すことを選ぶ者もいるだろう。

過去の傷は癒えることがない。
なくなることもない。
我慢も同じだ。
過去の我慢は癒やせるものではない。
なくせるものでもない。

ただ、これから先、まさにいまどうするかにおいて対処ができる。
それでも我慢することを選ぶのか。
他に手がない状況に追い込まれてしまうのか。
そんなとき、太陽を見上げて我慢をやめたボンナムの顔がよぎる。

旅をしたり、遊んだり。
好きな人と会ったり、笑いあったり。
趣味を満喫したり、夜に見える星を眺めてみたり。
そうすることで癒やせるうちに、立ち止まれないか。
なにかやだれかを虐げ、もの扱いすることではなく。
となればもちろん、自分自身を虐げ、もの扱いすることもなく。
癒やしへと、ケアへと繋げられないか。

そんな手はずがなにもなかったボンナムは、血に塗れていく。
ソウルにいる幼なじみに出した手紙に込めた思いは、ついに癒やされることなく彼女は死んでいく。
膨らんだ利子を満たす手段などない。
島の仲間たちを殺して自分を助けなかった幼なじみを襲ったところで彼女は満たされない。島を逃げようとしてマンジョンに殺されてしまったヨニが生き返ることもない。
そんな利子を返すことなど、できるはずがない。

我慢でいったいなにが得られようか。
せざるを得なかった我慢に、さらに我慢を重ねてなにが得られようか。
失うばかりだ。
だれかに我慢を強要していったいなんになる?
失う者が増えるだけだ。

そんな我慢のためにだれかを利用してなんになる?
ただの加害にしかならない。
傍観か加害に繋がるだけだ。
我慢なんかに付き合わせるものではない。
我慢しなければならなかった状況、環境を変えていく他にない。
共同体として相互の程よい距離感で助けあっていく他にない。
怠ったとき、我慢は増える。量産されていき、循環して、さらなる我慢を再生産していく。失う者が次々と増えていく。
となれば必然、惨劇や悲劇が増えていく。
人の生が破壊される状況が増えていく。

そんな当たり前を描いた一作。
引きずることになりそうだ。

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