韓国映画の劇中で罪を犯す心たち

最近みている映画をふり返る。


どちらも犯罪を描いたものだ。

「悪魔を見た」は中年の強姦殺人鬼を。
「ビー・デビル」は閉鎖的な島で復讐をする人を。

前者の「悪魔を見た」では犯行に手慣れており、何件の事件を起こしたのかわからないほど、息をするように罪を犯す。
そんな犯人だが時折、彼の歪んだ価値観の一部を見て取ることができる。
実家に置き去りの息子。犯人を嫌悪する父親、心配しすぎる母親。
少女への性的暴行に及ぼうとする場面で吐きだされる、女性蔑視と嫌悪。にも関わらず支配欲と性欲からくる女性に強く依存した言動。
だれを相手にしても自分を上位に置いておかねばならないという強迫。
その端々に激しい恨みや憎悪を感じとる。


後者の「ビー・デビル」においては、たび重なる性的暴行、村八分の扱いと傍観にずっと耐えていた。我慢に我慢を重ねていた。
犯人の頼みの綱は島を離れた幼なじみとソウルであり、娘の未来だった。
父親がだれかわからない。それほどの暴行を島の男たちに何度も受けながら、島に男たちを引き留めるための生け贄として、島の女たちは傍観していた。彼女を嫁にした男の母親は「もらってやったんだから」「恩に着て、言うとおりにしろ」と姑として過剰にいじめる。男も男で島に唯一の若い女である彼女を嫁にしておきながら、だれの子を孕んだと罵倒して、不満をぶつけて殴るし蹴るし、性的に暴行を重ねている。
そのすべてに彼女は耐えていた。
ただただ我慢することを続けていた。
何度か島を逃げようと試みて失敗してきたし、作中で今度こそはと挑戦して失敗。今度は旦那に娘を殺されてしまった。
その罪さえ、自分に押しつけられた。ソウルから来てくれた幼なじみは見て見ぬ振り。島の住民たちのように、傍観したり見捨てたりして自分を傷つける。娘の死を嘆く者はひとりもいない。
だから、とうとう抱えきれなくなった。
もう我慢できなくなったのだ。
爆発した衝動は、負荷は、凶行への意欲に繋がった。
ダムの決壊なんて目じゃない。
「悪魔を見た」の犯人の恨みや憎悪になるまで、彼女には時間がない。
きっとまだ、ことばにできる段階にない。
自分がなにを抱えているのかをことばにする時間をかける前に、彼女は幼なじみのそばで息を引き取った。


恨みにせよ憎悪にせよ、我慢にせよ、いずれも自分を歪める劇物だ。
過去をふり返ったとき、じんわりと胸を安らげてくれたり、笑顔になれる記憶の存在さえ見えなくなるほど自分を刺激してくる。

他にも「母なる証明」「悪のクロニクル」「ある会社員」「アシュラ」を見て、過去に見てきた作品群をふり返り、いくつかの要素を抽出できる気がするのだが、今回はさわりということで、みっつの要素を並べてみた。

私たちは恨みも、憎悪も、我慢することさえも、実のところ満足にはできず、そのいずれもが強い負荷をかけるものではないか。
そもそも満たされているときでさえ、自分ひとりを受けとめる器など持ちえるのだろうか。

むしろ解放感のなかで、安心できるなかで、安全な場において、全力で自分を受けとめる必要などなくてよいときにこそ、満たされている感覚があるのではないか。

解放にこそ緊張の緩和があるのだとしたら、恨みも憎悪も、我慢も、そのすべてが緊張に向かっていくものではないか?
ならば負荷が生じるのは自然なことではないか。
このとき生じる負荷を自分ひとりで抱えられるものではないという当たり前の現実を、いかに前提にするのか、という視点が気に掛かる。

「悪魔を見た」では他者を“もの”として負荷の精算の道具に利用していた。
「ビー・デビル」では犯行に及んだ女性を島の人間たちの“もの”として、負荷の精算の道具に利用していた。
富める者は貧しき者を。男は女を。力ある者は力なき者を。
“もの”として扱い、自らの負荷の精算の道具として、利用する。
その可視化が二作品のみならず、先に並べた三作品にも共通して見て取れる要素なのではないか。

私たちは恨みを、憎悪を、我慢を、どのように精算する?
なくならない負債を、どのように処理する?
そうした問いはパラサイトにも描かれていたモチーフなのではないだろうか。

犯罪を通じて描かれる心とは。
それは縁遠いものなのか。それとも身近なものなのか。

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