思考する前って何かあるの
主体(六境)と客体(六根)が合わさって「認識」(六識)が起こる。
私たちは生まれてこの方、この「認識」の世界に、水の中の魚の様に、ず~~と入り浸っている。
一瞬たりとも離れたことがない。
魚が水の存在を意識しないように、私は「認識」を意識しない。
しかも、在るのは「認識」しかない(魚はいない)。
認識している「私」はいない。
認識されている「対象」もない。
私(主体)は既に対象(客体)と合わさって「認識」になって、消えているから。
既に、合わさって、消えて、というと「認識」の前(元)があるようだけど、「前(元)」はない。
「認識」は結果で、それが(在るものの)全てであって、事実だから(前後裁断)。
事実が思考の前だとすると、思考の中身、「思い(意識)」は事実(意識⊆認識)。※含まれるか等しい
思考は「認識」を取り上げるけど、思考が取り上げたモノはもう事実ではない。
それは「時間」や「空間」が入り混じって、既に別のモノになっているから。
今風に言うと、認識=事実=クオリアかしらん。
「ポン」も「パーン」もクオリアやんなぁ(打掌音)。
クオリアのみ。
モノだけで居れるのかねぇ。
心だけでもねぇ。
なんか怪しい記事だなぁ・・(怪しいか)。
まぁいいや。
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