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過去の私と今の私を何故同じ私だと思うのか

「昨日と同じ」という思い込みが継続する自我という観念を強める

昨日と同じ寝室で目覚めて、昨日と同じ鏡を見ながら、昨日と同じ歯ブラシで歯を磨く。

いつもと同じ道を通って、通勤(通学)して、仕事(勉強)して、帰宅して、夕食を食べる。

昨夜と同じお風呂に入って、いつもと同じシャンプーで頭を洗う。

全て昨日と同じ、同じモノ、いつもと同じことの繰り返しに思える。

ところで、シャンプーは切らしていたので、いつもと同じものを、帰宅途中に買い替えてきたのだった。

これはいつもと同じ(モノ)?

認識は記憶を認識する(紐付ける)働き

例えば、幼い頃の私と、今の私は、同じ私だと感じる。

もちろん人間的な視座で言えば同じ個体だけど、これはそういう話ではないので。

直観的に、経験的にそう感じるし、直観とは認識の働き、経験とはただの記憶に過ぎない。

、過去の記憶を参照し、思考が「同じ私」と認識している(紐付けて)いる

記憶は私を構成する要素に過ぎない。

夢の中の私が、いくら現実と異なっていても、同じ私だと思えるのは、この記憶の内容が別の内容に入れ替わっているから。

それでも同じ、これ(記憶)が私という認識は働いているから、「私がいる」という感覚は生じている。

夢ではなくても、記憶が曖昧になって(薄れて)くれば、あるいは成長し記憶の構成が大幅に異なってくれば、他人からは全くの別人に見える(何十年ぶりにあった同級生など)。

多重人格などでもそう(一人の個体の中で記憶の参照先(区画)が異なる)。

認識とは、~が在ると認める働きとも言える。

それでもいつも変わらないモノがあって、それが五感や意識の働き。

過去に見た景色と、今に見ている景色とは異なるけど、「見る」という働きはいつも変わらない(上述の記憶を景色に置き換えただけで言っていることは同じ)。

見るでも、聞くでも、何でも良いけど、全て認識という働き。

内容(参照される情報)は異なっていても、これだけはずっと変わらない。

ずっと、同じ、働きしかしていないし、その働きがいつも在るだけ。

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