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モノにも仏性はあるか

「モノ」を見たとき、見ている私(主体)があると感じる。

「ありのままに見る」というとき、多くの人は私(主体)の方を消そうとする。

私の性質は以下の通り。

継続した自我はない(私は私を認識した瞬間にだけある

私を認識した瞬間とは、過去の記憶と今の経験(感覚)を紐付けて認識したとき

人間の一瞬は1/18秒(諸説ある)、瞬間の長さには動物の種類によっても異なる(時間軸が異なる)。

※フィルム映画は各こまの暗転が1/18秒以内におこるから暗転部は感じられない(超えると画面にちらつきを感じる)。

私の時間は、瞬間、つまり、その間に何の変化も示さないような最短の時間の断片が連なって生じている。

あらゆる経験は、瞬間毎に生じては滅し、また生じている。

睡眠と同じ様に、常に時間(私)が中断される(睡眠は時間が長いから分かり易いだけ)。

ちょっと乱暴な言い方をすると、最初の1/18秒で見て(直接の経験)、次の1/18秒に意味づけする(私が生じる)。

①最初の1/18秒は見ているだけ、②次の1/18秒は思っている(最初の1/18秒を見ている)だけ

私が生じたとき(②のとき)、①が記憶になって、②の思考で紐づけている。

見るという経験(眼)と”純粋な思考”(意)は別物で、異なる働きだから、そもそも思考は見るという働きを経験できない(疑似体験は出来る)。

①のとき、視覚(眼)以外の知覚(聴覚など)も生じているが、意識には昇っていない。

複数の知覚の中から、②によって紐付けられたある特定の知覚(①の例では見ると言う知覚)が私の経験(①+②)となり、その経験、瞬間、記憶の積み重ねが、私というユニークな存在を作り上げる。

※思考はあらゆる知覚と結びつく

①→②→①・・と続く断片の連なりが、実体のない私という存在を感じさせる(フィルム映画やパラパラ漫画のように)。

もう少く細かく観察すると、①の特定の知覚とは「知覚の対象+感覚」の組み合わせで、これが②の思考と紐付けされている。

「知覚の対象」と「感覚」の何れかが欠けても知覚は起こり得ず、思考が紐づく対象もなく、私も生じない。

「モノ」は知覚の対象であり、私を構成している、私の一部とも言える。

翻って「モノ」を見るとき、私を見ている。

「モノ」は私であるとも言える。

その様に見るとき、主体としての私はない。

私に仏性があるのならば、私の一部である「モノ」にも仏性がある。

あらゆる存在が私という在り方をするのであれば、存在する全てのものには仏性がある


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