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宇宙の外側には何があるか

いまここに「私」が存在するのだから、私の存在を支えている「いまの宇宙」があって、「いまの宇宙」を支えている「何か」もある気がする。

ユニバース、マルチバース、概念的にいろいろな考え方がある。

仮にマルチバースだとしても、その「外」には、それを支える「何か(別の環境)」がありそうだ。

「いまの宇宙」を全て観測することは不可能だろうし、況やマルチバース、オムニバースをや。

「外」を考える時、私が存在している、いまと同じような環境が延々と続いている様な気がする。

もっと大きくて、似たような環境が、今の宇宙を包み込んでいる様な。

思考の入れ子構造とも似ている。

けれども、それはそうとも言い切れない(知り得ない)。

例えば、この宇宙が大きな演算装置(ハードディスクとか)だったとして、コンピュータの中の人物(AI)は、創造主(人間)の世界を知り得ることは出来ない(創造主が許可しない限り)。

ただ少なくとも、創造主(人間)と被造物(AI)の在り方は、同じ物理法則に依っている(人間の世界にコンピュータが在る様に)。

同じ様に、いまのこの世界が仮想現実(シミュレーテッドリアリティ)だったとしても、それを創造した創造主(神)の世界と、私たちの世界は、同じような在り方でしか在り得ない。

縁に触れてはじめてモノが在る様に、存在が結果でしかないのであれば、縁(法)はただの演算結果に過ぎないかも知れない。

モノ(物質)なんてないかも知れない。

私がいなくても、世界は存在する(し続ける)と思う人もいる。

けれど、私が存在しない状態を、私は決して知り得ない(それを知る私はいないから)。

そもそも「知る」という概念自体、私の存在を前提している。

私が在る、モノが在る、も結局は概念に過ぎない。

時間が概念上の存在でしかないように、私が「在る」思っているモノ、私も、物質も、時間も空間も概念に過ぎない。

物理(科学)的な存在が在ると思うことは、(上記の)外の宇宙が、いまの宇宙と、同じように在ると想像してまうのと似ている。

「外の宇宙」を私は知り得ないし、同様に、「私が存在しなくても在る世界」を私は知り得ない。

もっと言うと、私がいたとしても、数センチ目の前にあるモノが「何であるか」を、私は本当は知り得ない。

知っていると思っているけど、それは、縁に触れて、「こういうモノがある」と(私が)「解釈」して、「理解」しているだけに過ぎない。

時間と同じ様に、「音」は物理的に存在しない(空気の振動は音ではない)。

「色」はただの光の波長の違いに過ぎない。

空気や光の「違い」を捉えて、クオリアとして創造(分別)しているだけ。

数式を図形化している様に、概念をクオリアで創っている。

クオリアの世界は、主体と客体があって、はじめて存在する。

「音」も「色」も「時間」も「空間」も「思考」も、全部ひっくるめて一つのクオリアに過ぎない。

クオリアは、それ自体では存在しないし、在る様に感じるけど、物理的には「ない」。

私が知ることの出来る世界は、それしかないし、それを通じてしか存在を知り得ない。

私が存在しない、観測できない(対象だけの)世界は、この宇宙の外側が(何かしらの形で)存在しているだろうけど、存在していないものと同じ様に、「あって」しかも「ない」。

同じ様に、私(主体)も「あって」しかも「ない」。


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