高校生日記②覚悟、責任。

 1年生の頃書いてたことはあまりにもつまらなかったので、2回目から2年生の時に書いたやつになります。かといってこれがおもしろいかどうかと言われると自信はないけど、まだマシかと思います。

覚悟

 僕は将来、どこかで働くことになるのだろうか。例えば、会社とかで。
 それがすごく怖い。
 会社で働き、「自分」という商品を評価され、金を稼ぐ道具になる。毎日同じ場所に向かい、同じように働き、ただ帰って寝る。それを機械的に繰り返さなくてはいけない日々が10年もしないうちに来ると考えると恐ろしくてしょうがない。僕は自分のやりたいこと、好きなことを一生懸命やりたい。それが音楽である。もちろん、ライターもやってみたいし、プレイヤーにもなってみたい。しかし、音楽関係であるならばどんな仕事だろうか食らいついていける気がする。それだけ好きである。映画も好きだ。映画関係の仕事でもいいな。演者でもいいし、裏方でもいいな。あと、ライブの仕事もやってみたいなー。でも、やっぱり、表舞台に立ちたいという憧れはいつになっても消えないだろうな。

 違う話だけど、言いたかったことがある。好きなものを仕事にすると嫌いになるという人が結構いるが、別にそれよくない?って思う。好きすぎて嫌いになるみたいなもんでしょ?好きが何周も回っていつの間にか好きを見失う的な。それなら、もう一度回ればいいんじゃないの?となる。

 話が変わる。私の元担任は一年の最後の?締めの?挨拶的なところでこんなことを言った。「日本という国は始まる時間には厳しいが、終わる時間には優しい。」残業をさせられるようになったら、自分のやりたいことはどこに行ってしまうのだろうか。日本の映画撮影は早朝から深夜にまでかかることもあるという。確かに日本人は働くことを神聖視している節があると思う。対し、ハリウッドでは労働組合があるため、終了時間に厳しいらしい。アメリカは個人の権利がこれ以上なく確立されているからだ。これを「文化の違い」としてよく片付けられる。しかし、そんな雑な片付け方だと、私が一番危惧している「伝統の垂れ流し」になる。
 「伝統の受け渡し」を美学としている人の多くは私から見ていると「伝統を垂れ流し」ているだけである。例えば制服。特に学ラン。学ランは戦争文化に違いない。また、ちゃんと着こなせという人。第一ボタンを閉めろという人。なぜそうしないといけない? その理由を説明できるか? 多分「統率が取れる」、つまり「支配しやすい」からだろう。そう言うことまで口を出せる自分の強さに酔っているのかもしれない。今の社会、多様性多様性と叫ばれている。これは文部科学省でも言われている。なのに、なぜ制服の着方の多様性は認めない? なぜ制服という統一の象徴は廃止にならない? なぜ多様性の時代に統制支配が認められる?  みんな違ってみんないいとなぜ堂々と叫べない? 社会に囚われたくないのだが、こう社会に縛られることで叫ぶことができるのは皮肉である。

 あと、関係ないが、「お前たちは学校の顔だ」というバカ先生ども、よく聞け。俺らはお前ら学校の商品ではない。バカか。だらしなくて何が悪い! というかそんなやつを「先生」と呼びたくない。そもそも、「先生」という言葉自体嫌いだ。「先を生きる」で先生。そんな事言うやつが俺の「先」を生きられてるなんてクソだ。長く生きて何が偉い! 長く生きてなに「先を生きる」だタコ。ただ散々時間の浪費を今までしてきただけだろうが。俺より長く生きてそんな事言うって相当な馬鹿だろうが。せいぜい、先に死んで「先死」とでも呼びたいわ。

 話を戻そう。とりあえず、社会に怯えながら暮らしている。社会がとても怖い。その一部に触れられるのは学校で間違いないが、その学校でもカスがたくさんおるのにこっからどう生きればいいのか・・・。社会はここより広くて強力だってことだけは知っている。めんどくさくてしょうがない。
 僕は働くのが怖いが、社会を怖がっているのかもしれない。
 社会への偏見は、いいように振る舞えば仲良くできる。逆に悪いように振る舞ってしまえばそっぽを向かれる。で、私は嫌われる未来しか見えないのだ。だって、「繰り返し」が嫌いなんだもん。そら、怯えるさ。

 というと、私は家族も持てる気がしない。結婚できる気がしない。好きな相手とずっと過ごすなんてことが怖くて怖くてできない。もちろん、同際しない家族の形もあるが、私はやっぱり好きな人と一緒に過ごしたい。しかし、それが怖い。相手が私の心に踏み込んでしまったら、私の心も社会にさらされてしまう。それを見られるのも嫌だから、拒否して嫌われるのも嫌だし、素直に見せて嫌われるのも嫌である。私はこの気持ちをちゃんと自分だけのものにしていたい。逆に相手が踏み込まれたら嫌なところに迂闊に入ってしまったらどうしようという心配もある。もちろん、自分がそういうのに敏感なだけあって最大の注意を払おうと思うが、相手は自分ではないし、完全に理解するのは無理だと思っている節があるからね。難しいなあ。
 あと、カミングアウトする。私は女性が恋愛対象だ。なぜこんなことを言うかと言うと、最近、違和感を感じたからだ。男女の恋以外も周知されるようになってきた今日この頃だが、ニュースで「〇〇、トランスジェンダーであることをカミングアウト!」みたいな記事がよく上がっているのを見る。なぜ「カミングアウト」なの?と思う。逆に言うと、カミングアウトしないと性的マイノリティー以外であるということが確定されているように感じる。それはおかしいんじゃない?「普通」が男女の恋であることが未だに根付いている証拠になっている。それを一つ一つ剥がしていく必要があると思う。つまり、べつにカミングアウトって言葉、いらねえだろと思っているわけだ。
 私は何が何でも規制をかけてすべての商品や価値観を揃えろとは言っていない。そもそもそれはおかしなことだし、批判すべきことだ。しかし、性別や性的趣向は平等であるべきと考えるのだ。なぜなら、基本不可抗力だから(もちろん人種なども不可抗力だから平等の必要性がある)。親がセックスをするなりなんなりで受精をし、我々の存在が有となった瞬間、あなたはなにかの権利を持っていますか? どう生まれるか決められますか? そんな生まれる前にゲームのようなステータスといった設定ができるなんていう上手い話は無論、あるわけない。
 よく話がそれてるなー。よし、戻そう。マツコさんが「表現とはちんこを晒すことである」というようなことを言っていたが、その言葉がほんとうに身にしみてよく分かる。それは表現にも限らない。自分の内部を誰かに、つまり社会に見せるというのは恥ずかしい。そんなの当たり前である。その恥ずかしさは(もしかしたらできるかもしれない)彼女・妻に対しても等しく存在する。しかし、「ちんこ」を他人に見せてしまえば、その関係性は崩れる。友達というのはそこに踏み込まない・踏み込ませないのが普通だが、そうとも行かないのが恋愛。だけど、見せれない。だから男女の友情と恋愛の区別ってよくわからないのかも。 
 子供も怖い。他人の子供を見るのは可愛いくて好きだが、自分の子供はちゃんと愛せるのか不安である。(この「ちゃんと愛せるか」という疑問に関してはよく「コウノトリ」という漫画で話題になっていた。)この心の中身をもって子供と如何にして対すればいいものなのか。見せるべきか、隠すべきか。「愛する」と「心の中身」との関係性はどうすれば正解なのだろうか。
 家族というのは小さな社会であることに最近気がついた。というか、そもそもなにかの授業で「社会の最小単位は家族」とかいうのをやった気もする。その言葉の意味がよくわかった。だから、怖い。とても小さい社会の中でどう生きているのが正解なのかわからないし、もっと大きい社会の中で他人の人生を自分が左右する・自分の人生が他人に左右されると思うと怖い。こんなことを高1から考えさせないでほしい。辛くなる。
 あと、そもそも家族ができたら自分のやりたいことができなくなるんじゃないかっていう危機感もある。家では家族という社会に身を置き、働きに行くときはどでかい社会のなかで身を潜めて生きなくてはならない。「居場所がなくなる」という両親の心情もなんかわかってしまう。

 社会を眺めたり触れたりすることは好きだが、そこに属す考えるとゾクゾクする。責任が伴うからだ。責任を負う覚悟が欲しいな。
 今までの人たちはどの覚悟を使ってそこの世界に飛び込んでいったのか。自分を押し隠し、いいように振る舞う覚悟だろうか。それとも、自分を存分に出して嫌われてもいい覚悟だろうか。それとも、覚悟を知らぬまま無知のまま飛び込むのだろうか。
 私はそんなにお人好しではない。

 2022年5月某日

現在

 口が悪い。悪口にしてもなんというか、勢い以外の強みがない言葉ばっかり使っている。意外とそういうのもわかるようになっているんだな。「先死」とかどう見ても無理がある。「伝統の垂れ流し」の時に出てくる日米比較の例もなんだか弱い。カミングアウトの件ももっと丁寧に触れないといけない内容なはず。
 でも、言葉の重みだけで戦っている感じが「自分の思っていること」に最大限の表現力を使っているのだということを表しているような気もする。だし、大体今でも叫びたいようなことばかり書いている。案外変わらんな。
 まあ、過去の自分への褒め反省はこの程度で。

 覚悟がテーマである。何かを背負う、何かに属するというのにはそれなりの覚悟がいると思っている。
 なに? 覚悟って。

 大学生になって思う。社会は責任でできている。
 友達と遊ぶ時だって責任は付き纏う。例えば、僕が友達3人を遊びに誘ったとしよう。その時点で「言い出しっぺ」という役職が僕にはつく。「言い出しっぺ」が抜けてしまうと、その遊び自体が成立しなくなる。「言い出しっぺ」が計画を立てて3人との連絡を率先して取らないと、その遊び自体ヌルッと立ち消えになったりする。なんなら店に予約の連絡なんか取らないといけなかったりすることもある。つまり「言い出しっぺ」は俺からすると事務役・雑務役なのだ。他3人はなにも苦労をせず、集合場所に集合時間に集まるだけでいい。なんて楽な仕事なのか。でも「言い出しっぺ」も「言い出しっぺ」が予約した店で割り勘に参加しないといけない。だるい以外の何者でもない。
 「楽しければいいじゃん」って、いやそりゃそうだけど、「楽しい」で全部Payできるなら、やりたいことで金稼いでる奴ら、全員無給にしろよ。音楽家とかの印税全部取っ払えよ。そんなん出来るわけねえだろ。
 俺はそんな「汚れ」をやりたくない。でも、友達と遊びたい。だから友達誘って、「言い出しっぺ」になって、LINEしてる時に後悔する、というループを何度繰り返したことか。
 つまり、「言い出す」ことにその提案の「責任」が全て提案者に降りかかる。当たり前と言えばそうだけど、提案してくれる人のことを「当たり前」だと思うなよ?まじで。なんかそれをさも当然のようにしてるやつ、友達の中でいるけどさ、マジで腹立つ。でも、「一緒に責任分けっこしようぜ」って言ってくれる奴もいるんだよなあ。惚れるよなあ。

 さて。責任と覚悟。
 この一連の主張を見ると分かる通り、私は責任をとる覚悟が一ミリもない。「LINEしてる時に後悔する」とか覚悟のなさの表れすぎる。
 覚悟とは、俺が思うに「責任を取るために腹を括ること」だと思う。普通の一般論だな、こう見ると。
 でも、もう一つ言うと、覚悟は覚悟でも社会で大事な覚悟って「小さな覚悟」だと思う。今でいう「言い出しっぺ」みたいなこと。だって、「大きな覚悟」だったらやりがいが生まれちゃうじゃん。会社のビックプロジェクトを任されますとか大変だろうけど、楽しいじゃん。でも、僕みたいに「言い出しっぺ」に多大なストレスを感じてしまうような人が社会で生き抜くには「大きな覚悟」はいらない。「小さな覚悟」がいる。
 しかし、俺が思うに「小さな覚悟」がいるやつなんてそんなに多くないと思ってる。いや、どうなんだろ。「言い出しっぺ」になることをダルいと思っているやつは結構いるだろ。だって、いっつもみんな「言い出しっぺ待ち」してるじゃん。あれ、卑怯だよな。俺もしてるけどさ。
 でも、一つ言えるのは「小さな覚悟」云々であーだこーだ言ってるやつに覚悟は0だということ。それだけは一貫して分かるね。

 最近、すごい考えるのはシャフ(社会不適合者)の定義。自分、生活もうまくできないし、覚悟もないし、一人暮らし始めてわかったけど、結構社会厳しくね?って思ってる。
 いいや、そんなシャフ自慢は。どうでもいいね。

 とりあえず、僕が今、胸に強く思うことは、社会を意識し出して、「小さな覚悟」なんか意識してしまうことを防ぐこと。絶対、それ意識し出したら生きるのが大変になりそう。
 でも、誘ってくれる友達がいないから「小さな覚悟」の実態に気づいたわけで。あ、友達がいないのか。そうか。

 そうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?