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愛は惜しみなく

ある本にこんな話が載っていました。

中年の奥さんが街を歩いていると、若い男がパンクの修理をしていたそうです。

「パンクですか」と奥さんは声をかけました。

すると、返ってきた言葉は、

「見りゃわかるだろ、お前、あほか」

「パンクですか」という言葉に、「大変でしょうね、お困りでしょうね」という思いを込めたつもりが、相手には一切通じなかったのです。

「残念でたまりません」と奥さんは述懐していました。

私は、交通安全協会にときどき講師として呼ばれるのですが、そのときに、いつもこの話を取りあげます。

そしてその後で、ちょっとしたシミュレーションを行うのです。

車に乗って大きな道路を走っている場面をまず想像します。

あっ、脇道から車が出てきました。

こちらの流れの中に入ってこようとしています。

譲って、前に入れてあげることにしました。

その際、相手がクラクションを鳴らしてくれたり、手を振ってくれたり、
にっこり笑ってくれたりすると、
「ああ、止まってあげてよかったな。いいことをしたな」と思います。

ところが、相手が素知らぬ顔でそのまま行ってしまったとしたら、
何か損をしたような、無駄なことをしたような気になって、
腹立たしくさえ思ってしまいませんか?

でも、大事なことは、譲ってあげることのできた自分なのです。

そんな優しさを持っていた自分をほめることができればいいのです。

それが、ほとんどのひとは、止まってあげたのだらから、
あなたは手を振るべきだ、クラクションを鳴らすべきだ、
にっこり笑うべきだというような思いを、先に持ってしまうのです。

求めるのではない、自分自身が相手にいい出会いを与えたかどうかということ、
それだけあればいいのだと思いたいものです。

ノートルダム大学の渡辺和子さんは、著書の中でこうおっしゃっています。

「あなたがほほえみをあげるときに、ほほえみを返してくれなかったひとは、ほほえみを持っていないのだ。

あなたは持っているのだから与えてあげなさい。

優しい言葉をかけたときに返してくれなかったひとは、優しい言葉を持っていないのだ。

あなたは持っているのでしょう。

惜しみなく与えてあげなさい。

それがあなたの素晴らしさでしょう」

世の中にひとりしかいない自分、かけがえのない自分、
そんな自分がどのような生き方をしているか、思いの持ち方をしているか、
その自己確認をすればいいのではないでしょうか。

出典元: 林 覚乗 『自分が好きですか 』西日本新聞社

見返りを求めるのは、本当の愛ではありません。神は言われました。

「人が本当に自身の本分を尽くせるのであれば、祝福を受けるにしろ災いに苦しむにしろ、
その人は神に対して永遠に忠実であり、見返りを求めないということを意味する。
祝福が見えれば神に忠実だが、いかなる祝福も見えなければ忠実でなくなり、
結局神のために証しをすることができず、尽くすべき本分を尽くすこともできないなら、
かつて神に忠実に奉仕した人であっても、やはり滅びの対象になる。
要するに、邪悪な者は永遠に生きられず、安息の中に入ることもできない。
義なる者だけが安息の主人なのである」

「人生を変える言葉」より

この文章を読んで心から反省してます。
愛の行為は何気ない日常でいくらでもするチャンスがあります。

元気に挨拶すること 笑顔でいること ちょっと譲ること やさしく声をかけること
間違いに気づいたら謝ること………

でも見返りというか、相手の反応を期待してる自分がいた。

「ああやってしまってます ⤵️」

『愛は 惜しみなく 与う❣️

心に刻みおく言葉として大切にします。

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