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なぜ「デザイン」に着目したのか

私はデザインについての教育も受けたこともなければ、絵心もセンスもないと思っている「非デザイナー」である。そんな私がなぜ「デザイン」に着目したのか。その背景を書いてみたい。

私と「デザイン」の関わりのきっかけ

私は非デザイナーだが、今までの職歴の中で、良いものに触れる機会が非常に多かった。社会人になった当初は、百貨店の建装事業部という所にいて、素晴らしい建築デザインやインテリアデザインに意識しないままに触れることができ、そして職人さんの技や矜持というものについて身を持って学んだ。
売場の販売職に異動になってからは、身の回りにいい物が溢れていた。物がいい、というのは説明するのが難しい。高ければいいものとは限らないし、量産品やセール品でもいいものはある。強いて言えば、製造から販売に至るまで関わっている人が、その物に対して丁寧に接していたかいないか、の違いではないかと自分の中では整理している。
設計者やデザイナー、職人さん、メーカーの営業さん、販売員さんや後方業務に関わる人間全てが、製品をお客様に丁寧にお届けするために行動している、私はそんな世界に自然と身を置いていたことになる。良いもの、とは単に品質やデザインが良いだけではなく、関わる人の行動をもデザインするものなのかもしれない。

さて、地域コミュニティの活性化というミッションを持って、地元の服飾雑貨関連企業向けに人財関連の仕事を始めるべく独立したものの、ハウツー的な価値提供を生業とすることに悶々とすることになる。ハウツーのベースとなる理論や、理論が導き出された背景を学びたい。そう考えて大学院の門を叩いた。

「ラグジュアリーブランドマネジメント」との出会い

入学した「ビジネスデザイン研究科」で私は、「日常的に繰り返してきた活動を異なる尺度や視点で見ることで、新たな理論の創造や理論に裏打ちされた活動を選択」することになる。授業で知ったのが「ラグジュアリーブランドマネジメント」という研究領域。実務でその世界に身を置きながら、学術的な研究が存在することを恥ずかしながら知らなかった。まさに日常的に繰り返してきた活動を異なる尺度や視点で見ることになり、そこでもデザインが登場することになる。

何を以てラグジュアリーブランドと言うのか。その定義は未だ曖昧である。個人がどのブランドがラグジュアリーと考え、どのブランドがラグジュアリーではないと感じるかは自由である。歴史、品質、審美性、価格などの要素で一律に定義することもできない。近年はそれらの要素から一部を取り出し、ストーリーを創作することで自らをラグジュアリーブランドだと自称することもある。あるブランドがラグジュアリーコングロマリット傘下に入った瞬間に小売店側に取引条件の変更を要求する、というのは実務上でも経験した。商品そのものは変わらないのに、だ。

そのような状況を踏まえると、ラグジュアリーブランドの成立要因として、希少性や排他性を巧みにマネジメントすること、と言うこともできる。では、どんな製品でも希少性や排他性を、マネジメントさえすれば良いのだろうか。また希少性や排他性をマネジメントするとはどういうことなのだろうか。

日本の産業振興におけるデザイン

希少性という中には、数の少なさという定量的指標の前に、原材料や技術など定性的な要素も含まれる。日本の地場産業や伝統工芸品の中には、素材の良さや技術の素晴らしさを売りにしているものも多い。しかしながら消費者目線では「欲しい」と思えない製品や、良い素材で手間ひまかけているにも関わらず、「自社店舗及びインターネット販売に限定することで押さえられた価格」などと価格訴求に走るケースも見受けられる。

なぜ、欲しいと思わせる製品を作れず、高く売ることができないのだろう。

マーケティングによって欲しいと思わせたり、売れそうな価格設定にすることは可能であろう。高く売るためのマーケティングもあるだろう。でも、マーケティングのみで高く売ると、あとで必ず「バレる」。私が持っている「創られた」ラグジュアリーブランドのバッグは1シーズンで取手が痛んできた。「格のある」ラグジュアリーブランドのバッグは10年近く経っても痛むのではなく、経年変化を楽しむことができる。

このことからも、製品の価値はどこにあるのかを見極め、その価値を高めることは絶対である。地場産業や伝統工芸の言う、素材の良さや技術の素晴らしさ、はどこまで誇れるものなのだろうか。ひとりよがりではないのか、他の地域や他の会社でもできることなのではないか、突き詰める必要があるだろう。

その上で、製品の価値に合わせて高く売るための戦略を考えるのが順序だと考える。それは価値を理解してくれる市場にのみ製品を提供すること。そして市場を見極めたうえで、そこに関わる人間全てが、製品をお客様に丁寧にお届けするために行動するデザインが必要になるのだ。残念ながら、素材がいい、技術が素晴らしい、と言いながらどんなお客様にどのようにお届けするかまで考えられていないケースが多いように思われる。

それでもさらに疑問が残る。製品そのものの価値を高めるにはどうすればよいのだろうか、という疑問である。品質や機能を高めたうえでは、それは色や形といったデザインによるものになるのだろうか。
私が修士論文で主張したことの一つに、クリエイティブディレクションの重要性がある。それは単にデザインを担う存在ではなく、価値を共有できる市場における情報収集や、職人との連携による機能性の改善なども求められる存在である。しかしながら、ディレクションを行う人材の具体的な行動や、それを可能にする組織体制、組織と人材が出会うプロセスまでを明らかにすることはできなかった。

デザインの多義性

ここまで使ってきただけでも、デザインという言葉が非常に多義的であることがわかる。建築デザイン、インテリアデザイン、ファッションデザイン、といったプロフェッショナルデザイン。ビジネスモデルとしてのデザイン、ユーザーエクスペリエンスとしてのデザイン、組織のデザイン。
私たちは使用文脈に応じて適切に、もしくは都合よくデザインという言葉を使い分けている。時としてデザインと言う言葉の耳さわりの良さに全てを包含させてしまい、思考停止に陥っていることもあるだろう。クリエイティブ、と言う言葉も同じかもしれない。

行政の施策を見ても、色や形のデザインを戦略的に利用しようとしていた時期から、デザイン力そのものを海外に発信しようとする時期を経て(これは今も継続しているのかな?)、現在では高度デザイン人材の重要性を説いていたりする。
そこからはデザインという言葉の意味が時代背景や、使われる文脈によって変化していることは見て取れるが、さてビジネスの現場に落とし込んだとき、いったいどこまで理解され、活用されているのか。個人レベルでもデザインをどのように解釈し、日常生活で実践しているのか。非デザイナーである私には、イマイチ腹落ちしないのである。

とはいえ、行政で高度デザイン人材についての施策を担当されている方々にも、非デザイナーの方がいるのだから、理解できないわけではないはず。そう思ってデザインという世界に足を踏み入れているのである。


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