「ジュリアン・ソレル」(織田作之助)


 アンリ・べエル(これが本名だ)という最も異色ある人物、その百七十一個の変名のうち最も代表的なスタンダールという筆名の作家その作品のうち最も知られている「赤と黒」という小説、その小説の中で最も重要なジュリアン・ソレルという主人公---誇張ぎらいのスタンダールなら眉をひそめる「最も」という形容詞を、つづけて四つも使いたくなるくらいだから、かつて多くの人が以上の四つに就いて語ったのも当然であろう。
 バルザックが書いた。テエヌが書いたメリメが書いた。ポール・アザーヌが書いた。ステエファン・ツァイクが書いた。ヴァレリーすらいやみまじりに書いた。ジイドは「アルマンス」などという掘出物だけに感心していたわけではなかろう。勉強家のチボーテはむろん見逃さなかった。アランは一再ならず書いた。この国では、桑原武夫が大童だ。深田久弥は種本にしているくらいだ。考証癖の読者のためにいうならば、鴎外は「小説はスタンダールのようにきままに」と書き、荷風も「小説作法」で「スタンダールについて学ぶべし」というようなことを言っており、大岡昇平、小林正、杉山英樹、大井広介にいたるまで、書いている。いや、驚くべきことには、スタンダール自身が変名で「赤と黒」の新刊批評をやっているのだ。
 更に私が書く必要があろうか。もっとも「スタンダールについては語り尽くされることがない。これが彼に捧げる最上の賛辞だ」というヴァレリーの便利な言葉をここで引用して置くと、私が書く理由も成り立つが、しかし、私がスタンダールについて書く、ということは、スタンダールを読むということだ。ヴァレリーにならって、「スタンダールについては読み捨てるということがない。これが彼に捧げる最上の賛辞だ」スタンダールを読むことを多忙以外の何物が邪魔するだろうか。しかも、スタンダールは多忙な時間を割いてもいい作家だ。スタンダールは好きになるか、嫌いになるか、二者択一を強いる作家だ。多忙の故に恋人に会わぬのは、惚れてはいないのだ。恋人---と書いて、私はかつてこの二字を「玄人」と誤植されたおぼえがある。私はスタンダールを恋人のように読む。玄人の目では読まない。私はまだ玄人ではない。むしろ、素人が小説を読むときの様々な喜びをスタンダールから味わいたいのだ。
 ---などと、書いてきたが、言葉の綾、文章の綾で書かれた文章というものは、もっともらしいことを語っているようでなんとなく含みがありそうだが、実は何一つ的確に語ってはいないのだ。だらしがない。
 さすがにスタンダールの文章には、私の文章の如き曖昧さがない。いい古されたことだが、スタンダールにあって最も明確なのは、彼の文章が明確だということ一事だ。曖昧、不明確、朦朧を彼は毛嫌いする。彼は情熱という曖昧なものを、明確に掴もうとしたのだ。これが彼の仕事だ。だから文章は明確で、作中人物も明確だ。人生は不可解で、人生は曖昧だ。割り切れない。複雑だ。微妙だ。小説を読めば、読んだ数だけの人生が曖昧模糊として在るような気がする。割り切れるのは通俗小説、子供の作文か、子供の作文を模倣した心境小説、身辺雑記。少し仔細に、梢深く観察すれば、どこから手をつけていいか判らぬくらい、人生は複雑微妙、不可解なヴェールに包まれている。阿呆出ない限り、人生とは判らぬものだと、ため息をつざるを得ない。私たちが日夜経験しているとおりだ。
 ところが、スタンダールの作品にあっては、何もかも明確、単純だ。なぜならスタンダールは人生にただひとつの色しか見ない。そして、その色しか書かない。赤か黒か---軍服か僧服か。いや、そんな職業的色ではない。スタンダールが見たただ一つの色は、情熱。個人の情熱。ただこれだけだ。そして彼は常に二種類の人間しか書かない。即ち、精神的貴族と、精神的賤民、彼は精神的賤民を風刺しつつ、精神的貴族の情熱の歴史を、彼自身の可能性として書くのだ。彼の小説の主人公は彼の情熱の可能性にほかならない。たとえば、ジュリアン・ソレルがそうだ。
 ジュリアン・ソレルとは何か。
「ヴェリエールの木挽商人の息子。記憶力がよくラテン語が出来るので、町長のレナール家へ家庭教師として住み込むが、美貌ゆえ、レナール夫人に見染められたと判ると、この夫人を誘惑し、発覚してヴェリエールを追われ、神学校にはいる。やがて巴里へ出てラモール候爵家の秘書になり、令嬢のマチルドを誘惑する。その時、信仰に凝り固まってしまったレナール夫人が、坊主にそそのかされて書いたジュリアン・ソレル誹謗の手紙が、候爵のもとへ届く。候爵からこの手紙を見せられたジュリアンは逆上の余り、レナール夫人を射殺せんとして、未遂に終わり、自らは死刑を宣告されて、断頭台に立つ。そして死ぬ」
 以上がジュリアンの外面的生涯のあらましだ。芳しくない生涯である。町長夫人と候爵令嬢と都合女が二人出来て羨ましいなどという軽佻浅薄な人間を除いて考えれば、誰が考えてみても芳しくない。まず、模倣すべき人物ではなさそうだ。
 ソレリアンという言葉があるくらいだから、多くの模倣者が輩出したらしい。スタンダールの小説は人生について考えさせられる小説というよりも、むしろ、読者を激励する小説だ。といって、何も読者と共に泣き、読者とともに懐かしんでくれる所謂人類愛の小説ではい。スタンダールはいや応なしに、読者を自分の世界に連れ込む。が、連れ込まれて、はいると、主人のスタンダールは横を向いている。突っ放すのだ。チェーホフの「退屈な話」の老教授のように、ああ、私には判らないといって嘆いているのではない。君は君自身だけを頼って、やり給え(*今夜に限って君の自由や。引用者)、何が怖いのだと、突っ放すのだ。失敗しても知らんよ。泣きたきゃ自分で泣くさ、然し、自分で自分の力に頼ってやるのだ(「戦場(ここ)では親でも信じるな「ベルセルク」。*引用者)。幸福じゃないか、ジュリアンは幸福に死んだよ---と低い声でつぶやくだけだ。ときにはヴァレリーのように、舞台へ上って、大見得を切ったり、花道を歩いたりするけれども、概してスタンダールの声は低い。が、低い声で突っ放されても、われわれは何か意欲をそそられるのだ。おれもやってみよう、自分の力で…。
 スタンダールの主人公のような激しい情熱、氷のような冷静な判断、火のような行動、---この素晴らしさがわれわれを誘うのだ。
無気力と倦怠、エネルギーにたいする吝嗇、ことなかれ主義、習慣と惰性、月並、常識、年齢による精神の退化、規格型生活、律義者の子沢山、念には念を入れ、貯金帳…(中略)
---このような糞リアリズムからわれわれを追放するのだ。しかし、蜜蜂が飛び、鳥がうたい、蝶の舞うロマンチシズムの花園へ誘うのではない。孤独の鷲が空に弧を描く断崖の上だ。何という素晴らしさ。これが生きるということだ。ジュリアンはかくの如く生きたのだ。ソレリアンが輩出する所以だ。
 白状すれば、私もジュリアンの青春を擬したいと思ったことがある。スタンダールほどの人物が、人生の老衰期に立ち向かった時、再び青春を生きるつもりで、自分には欠けた美貌(*わたくしの場合、美貌の代わりに貧乏がある。引用者)と、チャンスと野生と行動力という絵具で自画像のデッサンを彩色して出来上がった人物---もしも自分がジュリアンならと夢想しつつ描いた若きスタンダールの肖像だ。憧れるのも無理はなかろう。確かにジュリアンという人物は、青春期の私にとっては新しい戦慄であった。
 (中略)
 しかし、ジュリアンはスタンダールにしか書けなかった如く、ジュリアンは誰も模倣することが出来ない。ソレリアンは永久にソレリアンに過ぎない。既にして芳しくない外面的生涯だ。模倣してはならない。既にしてジュリアンは天才スタンダールの感受性をかりて、スタンダールもできなかったようなことをする人物だ。スタンダールは「ジュリアンは芸術家になればよかった」と皮肉っているしかし、ジュリアンはスタンダールのように小説は書けない。が、その点を除けば、既にして天才である。模倣しようと思っても出来ない。天才といっておかしければ、少なくとも第一級の人物だ。
 なぜ、第一級なのか。「赤と黒」をよめば判る。
 「ヴェリエールの小さな町はフランシュ・コンテの最も美しい街の一つに算えることができる」、「赤と黒」はこの冒頭の一句を以ってはじまる。スタンダールでさえ「最も」といっているこの美しい街で、何が起こったか。何も起りはしない。スタンダールにあっては、決闘でさえも「瞬く間に」終わってしまうのだ。
 美少年、姦通、野心、情熱、決闘、殺人未遂、牢獄、断首台---と並べてみると、はなはだロマネスクだ。下手な大衆小説みたいに波乱万丈だ。だが、これらの単語一つ一つに、スタンダール的世界の必然性を感じないようでは、諸君はスタンダールのいわゆる「少数なる幸福者」の仲間入りは出来ない。これらの単語はスタンダールの夢みた可能性だ。だから、ジュリアンは凄いくらい美少年だ。ありがたくない面相ばかり出て来て、箸がこけるような偶然を描くことすらビクビク警戒して、欠伸まじりの床の上で製造した子供の泣き声だけが唯一の華々しさだ---というような、この国の自然主義小説の観念では、こんな美少年は描けない。樋口一葉、泉鏡花、森鴎外(「その青年」)などさすがに美少年を描いている。作家と美少年---研究材料の一つになろう。私は真面目にいっているのである。ジュリアンは美少年で、しかも行動しなければならぬ。事件がいる。スタンダールはロマネスクな事件をこしらえる。平気で偶然をばらまく。スリルとサスペンスも見ようによっては、息もつかせぬくらいばらまかれている。しかし、事件を描くことが、目的ではない。「心理がロマネスクだ」とラディゲは「ドルチェル伯の舞踏会」で言ったが、たしかにジュリアンを行動させながら、スタンダールが見ているのは、ジュリアンの内部だ。情熱という一色---これがジュリアンの内部でどんな働きをするか、問題はそれだ。そして、それを描くスタンダールのスタイルだ。スタイルとは、頭脳回転の速度だ。
 だから、私たちは何度「赤と黒」を読んでも、飽きないのだ。ジュリアンが次に何をするか、どうなるか、どこへ行くか、私は八回も飛んだから知っている。死刑になることも知っている。しかし九回目に読んでも、どの項も私にとっては新しいのだ。なぜなら、スタンダールのスタイルは、つねに不意打ちの一行を以て私を驚かす。アランも驚いているくらいだ。いや、アランのように驚くためには、私は何十回読む必要があろうか。各業、思想に支えられているが、その思想は石ころのような観念ではない。行から行へ屈折して行くその角度は計り難いくらいだ。山から山へ行く最短距離は頂上から頂上へ結ぶ線を飛ぶことだが、スタンダールのスタイルは、即ち頭脳回転の速度は、頂上の一点を押さえる。とたんに山全体の重量が感じられなければならない。氷山のかくされた部分に例えてもいいだろう。
 各項ごとに私にとっては新しいといったが、しかし、ジュリアン自身にとっても新しいのだ。ジュリアンが刻々に新しさを感ずるから、私にとって新しいといってもいい。なぜ、ジュリアンにとって刻々が新しいのか。ジュリアンは何ものも信じない男だ。宗教すらも信じない。思想も信じない。まして、人間、他人をも信じない。何ものも頼るものはない。頼れるのは自分の力だけだ。が、ジュリアンにとっては自分の力ほど信じられないものはないのだ。「君は君の流儀でやっていくね」とラモール候爵はジュリアンを冷やかしたが、ジュリアンは何もかも自分の流儀だ。ついて学ぶべき他人の流儀があろう。ジュリアンには権威も模範もない。強いて言えば、大空に弧を描く鷲! これに学ぶ。しかし、鷲に学ぶということは、即ち孤独に自分の流儀だけで行けということだ。「変わっていると憎まれる」神学校で失敗したのも、ひとの真似をせず、なんでも自分で考えてやっていたからだ。チボーテは博識を駆使して、ジュリアンの偽善性をタルチュフと比較する。が、ジュリアンの偽善性は、自分の流儀しか持たない、そして、味方を持たない彼が自分を守る一つの手段だ。偽善によらずに自分を守ろうとすれば、牢の中に入るより仕方がない。で、彼ははいるのだ。可哀想にジュリアンは恋愛の仕方すら知らない。ジュリアンが女の手を握れば、握るというより掴むといったほうがふさわしいくらいだ。何もかも自分で考え出さねばならない。そして頼りにするのは自分ひとり。その自分が信じられない。だから、瞬間瞬間を苦しいばかりの創意で生きて行かねばならず、「この少年の心には毎日嵐があった」のも当然のことだ。ジュリアンは漕ぎ方も知らないボートに乗って、毎日嵐の海へ出て行く。妙な比喩だが、彼は毎日結婚する娘だ。何度結婚しても処女だ。
 スタンダールははじめの方でジュリアンの容貌を描いて、「額が狭くて怒ったときには意地悪そうに見える」と、言っているが、ジュリアンを攻撃する者は、ジュリアンの偏狭、意地悪、向こう見ず、野心、偽善を挙げて、ジュリアンの育ちの卑しさだと言うだろう。たしかに彼は野心家だ。「出世のためには、どんな辛いことでもしかねない男だった」しかし、ジュリアンには野心、出世欲よりも大事なものがあった。自尊心だ。「赤と黒」でスタンダールが傾到した三人の主人公ジュリアン、レナール夫人、マチルドのうち、レナール夫人には自尊心の振幅はすくないが、ジュリアン、マチルドの二人は自尊心の権化だ。しかし、二人を比較すると、ジュリアンは卑賤に生れただけに、ひがみ易い。そしてこのひがみがジュリアンの自尊心を一層いらいらさせるのだ。マチルドの自尊心は衣装をつけた自尊心だ。が、ジュリアンの自尊心は完全な裸かだ。自尊心は裸かでさらされている。自分に閉じこもろうとしても、すぐ裸かの自尊心は傷ついてしまうのだ。
「自尊心を傷つけられたことは許せても、傷つけられて許して置く自分は許せない」---というのが、ジュリアンの行動の野心以上に大きな原動力になっているのだ。いわば、ジュリアンの情熱は自尊心の振幅によって、最もさかんに燃えるのだ。ジュリアンの生涯は自尊心の生涯だといってもいい。自尊心のためには、いかなる出世のチャンスも捨てて顧みない。一生を棒に振っても悔いないのだ。「出世のためにはどんな辛いことでも出来る男」だと、スタンダールははじめの方で書いているが、しかし、自尊心を傷つけられることは辛抱できぬ男だという但し書きを、あと数百項にわたってかいているのだ。自尊心の高さは、ジュリアンから一切の卑屈さを取り除く。候爵の令嬢マチルドは、このジュリアンの自尊心の高さ、「泥だらけの俗衆」とはっきり区別される精神に打たれる。マチルドの周囲には佃煮にするくらい貴族の子弟がうようよしている。が、彼らの精神は俗衆の精神だ。ジュリアンだけが精神的に貴族なのだ。彼らは人生の昇給をねらい、ジュリアンの懐中にはつねに人生の辞表がひめられている。同じく野心はもっているが、何たる違い。ジュリアンもまた山の頂上から頂上への道しかしらぬ人物だ。諸嬢は社会的地位としての貴族を選ぶか、精神的貴族を選ぶか。むろんマチルドの蛇尾に附してジュリアンを選ぶだろう。少なくとも、「赤と黒」を読んでいる間だけでも。諸君はどうだ。マチルドに選ばれたいだろう。はや諸君はソレリアンだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?