『ホワイト・ジャズ』覚え書き その2

・はじめに
 
読書会用のレジュメにまとめたジェイムズ・エルロイ『ホワイト・ジャズ』についての簡単な内容をこちらにも載せます。『ホワイト・ジャズ』について私が触れるのは二度目ですが、何卒ご寛容な目で見ていただければ幸いです。
 何かの参考になれば嬉しいです。
 また、こちらの内容を含め、ジェイムズ・エルロイ作品についてはいずれ私が同人誌にまとめる予定ですので、記述が被る可能性があります。その点ご容赦ください。

1.文体
 /、=、––––、体言止め、現在形の多用、単語の羅列、フォントを大きくすることなどを用いて、「意識の流れ」に沿いつつ、実際のところは言うなれば「意識の途切れ途切れ」のようになっている。
 その異様な文体で、おそらく初読の人の多くがひっかかり、本作が読者を選んでしまう大きな理由のひとつだろう。実際、この文体でなければ読めたのに……という人は見かける。逆にいえば、熱狂的なファンを生み出す力を持っている、といえるかもしれない。

 本作を含むエルロイ作品はゼロ年代の日本のエンターテインメント・クリエイターに大きな影響を与え、その実例の一部をあげると、冲方丁や浅井ラボ、秋口ぎぐる、吉上亮(厳密にはゼロ年代ではないが)らに見られる。
 大森望いわく、「海外作家では、清水俊二訳のレイモンド・チャンドラー、黒丸尚訳のウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』と並んでライトノベル作家の文体に影響を与えた三大作家のひとり」(大意)ということらしい。

 解説にもある通り、『LAコンフィデンシャル』執筆時に大幅に紙幅を削ることとなり、編集者からのアドバイスで『LAコンフィデンシャル』を短くした結果、派生として生まれたのがこの文体である。実際に『LAコンフィデンシャル』を読むと、その萌芽が見て取れる。
 また、この文体は本作以外のエルロイ作品ではほぼ使われていない。『アメリカン・デス・トリップ』で「/」をたまに用いる程度である。エルロイ本人もこの文体は本作のみにしか使わない、と言っている(その記述のある資料を見つけられなかったのはご容赦を)。
 エルロイへのインタビューによると(文藝春秋『本の話』2001年10月号より)、「『ホワイト・ジャズ』は最低限書くべきことすら省いているが、『アメリカン・デス・トリップ』では最低限書くべきこと自体は書いている」「断片の集積であり、ことばを意図的に省略している」(大意)とのこと。

 エルロイは本作で言葉遊びを用いている。例えば、本作の大きなフォントの「とち狂った」「狂った」などは、原文では大文字で“CRAAAZY”である。
 ちなみに、お気づきかと思うが本作の「/」にはちょっとしたルールがある。基本的に、名詞を使う際は名詞、動詞を使う際は動詞、のように統一する、邦訳では動詞の場合は基本的に最後以外の活用形を同じにする、「/」をふたつ以上使うことはまれ、などといったことである。もちろん、例外はある。


2.内容
 エルロイは実在のミステリ作家や編集者のラストネームを無造作に用いることがある。例をあげると、本作のジョニー・デュアメルは、フランス・ガリマール社の初代セリ・ノワール叢書の責任編集者である、マルセル・デュアメルからであろうし、『アメリカン・タブロイド』『アメリカン・デス・トリップ』の主人公のひとり、ウォード・リテルはスパイ小説家のロバート・リテルからであろう。話によると、本作ではあるアメリカのミステリ編集者のラストネームも用いているとのことである(聞いた話なのでその名前まではわからないが)。このようなことが、まだまだたくさんある。

 本作にはロス・マクドナルドの引用、エピグラフがあるが、これは”Archer in Jeopardy”という、『一瞬の敵』『縞模様の霊柩車』『運命』の合本の序文にロス・マクドナルドが寄せた文章からの引用である。ちなみにエピグラフの原文は、”In the end I possess my birthplace and am possessed by its language.”である。
 エルロイの作品に通底するテーマ、それは”Bad white men doing bad things”である。「悪い白人」たちによる狂騒と悪事……本作を貫くテーマでもあり、ひいては「LA四部作」やアンダーワールドUSA三部作を貫くテーマでもある。

 『ブラック・ダリア』以降のエルロイの作品の特徴として、複雑かつ精緻なプロット、という点がある。本作の馳星周の解説ではそこのみがエルロイの魅力ではない、と書かれているが、実際のところ、この複雑かつ精緻なプロットとエルロイしか持ちえない「情念」のあり方は不可分である。どちらもエルロイの作品を構成する重要な要素であり、一方のみを取り上げることはできない。
 本作は、エルロイがユーモアセンスを意図的に用いた作品である。『キラー・オン・ザ・ロード』のある種のユーモラスさは意図的かどうか不明だが、例えば本作の序盤、証人を窓から突き落とすシーンやその新聞記事、ステモンズ・ジュニアがショットガンの弾を間違えるところ、「エホバを讃えよ」、などといったところは明らかに(エルロイ流の)ユーモアとして書かれている。

 そして、エルロイの「繰り返しの美学」は本作から華開いた、といってもいいだろう。「繰り返しの美学」とは、行動や短い言葉を何度も意図的に、執拗なまでに繰り返すことである。本作でも多用される「それで」の繰り返しや、「エホバを讃えよ」の繰り返しなど、ある種のユーモラスさを保ちながら繰り返しを行っている。「それで」に関しては、作中でもツッコミが入っている。
 アンダーワールドUSA三部作でも、短い言葉の繰り返しや、リボルバーの弾をひとつ残して脅す、などといったことが反復して行われ、しかもその応用パターンがある。
 これらは明らかにエルロイが意図して描いていることであり、これらにより物語は特有のリズムを持ち、合わせてユーモラスさも醸し出せるのである。エルロイは小説を音読したときの「語り」の語感も大切にする作家なので、エルロイにとって物語自体のリズムも大切なものなのだろう。

 エルロイは、作中で男性や男性性、暴力、実在の人物など多くのものを戯画化するが、女性や女性性に関してはほぼ戯画化しない。『LAコンフィデンシャル』でのバドの信念や、アンダーワールドUSA三部作のピート・ボンデュラントを考えてもらえばわかるだろうか。これはエルロイの生い立ちに関連する話でもあり、エルロイを構成する重要な要素でもある。

 また、私の考えるところによると、本作はダシール・ハメットへのエルロイなりのアンサー、具体的には『赤い収穫』(『血の収穫』)へのアンサーである。例えば、
・タイトルが定冠詞なしの「色+名詞」(”White Jazz”と”Red Harvest”)
・警官によるオーヴァーキル気味のギャングアジトへの襲撃がある
・物語が動く最初の展開が「ボクシング八百長」である
・ファム・ファタールとの会話により物語が推進する
・本作では連邦検事、『赤い収穫』では警察署長といった主要登場人物のラストネームが「ヌーナン」である
・クラインは麻薬により錯乱状態になり、デュアメルを殺したかのようになるが、コンチネンタル・オプがアヘンチンキにより錯乱状態になり、ダイナ(ファム・ファタール)を殺したかのようになる
 他にも類似点があるかもしれないが、以上の点や、これは相違点でもあるが、『赤い収穫』は一人称で心情描写がほぼない客観的描写であるのに対し、本作は一人称で主人公の内面のみを描いている。これは、『赤い収穫』を主人公の内面描写のみで描くとどうなるか、というアンサーが実験小説的に行なわれたのではないか。
 エルロイがハメットの信奉者であることを考えれば、これらの点を見過ごすことができないのではないか、と私は思っている。

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