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村上春樹「街とその不確かな壁」:喪失(ロス)からの転換について

不確かな地図の街の時間と金色の獣について(一部ネタバレあり)
村上春樹の新作「街とその不確かな壁」は、元になる作品があって、今から40年ほど前に文芸雑誌で発表された作品だという。文芸雑誌に発表されたが単行本化はされなかった。作品名はほぼ似た「街と、不確かな壁」。それを新しく書き直した小説である。
作品的には、短編「中国行きのスローボート」を除けば、「1973年のピンボール」(以下ピンボール)の次の作品となり、40年を経て書き直したことになる。その間著者は30代から70代になっている。
ピンボールを出した当時の村上春樹は、その後「羊たちの冒険」をものにし、一躍当代の注目作家、「流行作家」となっていく時期だ。
新人作家から当代随一の「流行作家」となって行く間の時期の作品の改作、それも舞台は、その後出した「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の世界の終わりの街だという。
40年前に出された作品は、単行本化されなかった代わりに、物語りを変えて、一度「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(その世界の終わりに)に結実したが、再び別の物語に仕立てあげたということになる。
村上春樹の登場の頃、僕はまだ20代で村上春樹の初期の作品を新刊が出る度に貪るように読んでいたから、僕が俄かに期待して買うのも当然の成り行きであった。

今回の新作の舞台でもある、世界の終わりの街は、森の中にある、不思議な街で霊界のように静かで生気のない空間で、主人公は街の図書館で、一人の少女に助けられながら、獣の角に宿る古の夢の物語を読んで暮らしている。

その文章は、当時えらくバタ臭い文章だった。
始まりからすごくて、秋になって金色の冬毛が伸びる獣の話からスタートする。
「金色の獣」という言葉は、当時の日本の小説ではあまり目にかからない表現で、海外のSF小説のような始まりで、そこで衝撃を受けたことを覚えている。
それまでの日本の小説では、獣という言葉を用いず、馬や鹿といった具体的で、固有の動物の名前を使うことが多く、獣という言葉で済ますこともほぼない。
もちろん、世界の終わりの獣は、獣としか言いようのない、得体の知れない生き物だから、そう呼ぶしかないのだが。
言霊の国と言われ、動物や植物には名前がある。文芸作品は、そうした名前を大事に書く。それがリアリティの一歩だというような趣があった。そうした近代の小説の系譜とは、明らかに違う匂いがその言葉遣いにもあった。
この気分は、この新作でも変わらず、金色の獣の描写を読んで、一気に私の意識も40年前に引きこまれるようだった。

40年前に一度描かれた小説の世界だが、今回の新作では当然ながら変化はある。
今回の物語は、17歳で出会って別れた、一つ下の彼女と再び邂逅する話。主人公は40過ぎた中年となっているが、「街」で暮らす彼女は、別れた当時の16歳のままである。主人公が20数年の時を超えて、「街」の図書館に訪れることで、二人は邂逅するのだった。そして、図書館で働く16歳の少女に助けられながら、図書館に蔵された古の夢(今回は獣の角でなく、ボールのような明るい実体の中に夢がある)を読んでいくのが主人公の仕事である。
16歳の少女は、主人公との過去のことを忘れている。主人公は、少女に過去のことを告げないまま、図書館で一時を過ごし、閉館後少女を街の片隅にある家まで送るという日々を過ごしている。少女は姿かたちや声、思考が主人公が昔出会った少女のままであるが、全く同じというわけでもない。どちらかが本物でどちらかが影のような存在である。
主人公は、昔出会った少女を求めて、遥かな時間を超えて、「街」にやってきたのだ。
そういう過去を探究する、むかしの思い出を手繰り、懐かしみ、も一度出会いたいと行動する主人公の物語である。このように語ると昔の作品、村上春樹の初期の作品のリフレインに聞こえるかもしれない。しかし、本作はリフレインではない。
この小説は舞台や登場人物の設定は初期の作品から借りてきているが、主題は全く別の小説になっている。
それは、一言でいえば、喪失から成熟と再生への転換を語る物語である。

青春を探究する小説というと、往々にして永遠と思う過去を求め、過去が再び戻らないことを発見する、喪失を回顧する物語となる。典型は、同じ著者の「ノルウエイの森」だろう。本作はそうではない。メインのストーリーは、喪失(ロス)ではなく、成熟と再生(ゲイン)の物語となる。過去は戻らないのではなく、常に今の脇にある。また本物は影であり、影が本物である。永遠の大事なヒトは、過去にいるのではなく、今隣にいる(かもしれない)。

主人公が「街」にやってくる前にすごした東北の田舎町の図書館で、主人公の前任の館長をしていた「子易さん」は、主人公に
「あなたは人生の初期に最も大事な人と出会ったのですね」みたいなことを語る。この小説前半での一つのピークの場面のセリフだ。
初期の作品の多くを占める典型的なモティーフである。
人生の初期に最も大事なことに出会ってしまったこと。
そのことが及ぼす多くの悲しみ。
しかし、本作では、これも一つの可能性でしかないということに気づく。

確かに人生の初期に最も大事な人にあったのかもしれないが、
それはまた思い過ごしかもしれない。
今付き合っている人の方がずっと大事な出会いかもしれない。
そういうことに気づかされる。
少なとも、私にはそのように感じた。

それが、本作と以前の作品、村上春樹の若いころの作品とは決定的に違うところだ。

それが人生における成熟ということだろう。
若い時分は、とてもそのようには思えなかった。失った過去は、二度と手に入らず、その価値は再生することはなかった。しかし、年齢を経ることで、生きることの意味が変わってくる。
失った過去は戻らないかもしれないが、それは(価値で見れば)永遠の欠落、ロスではない。価値は増殖し、再生する。

「街」の中心部にある時計塔の時計には、針がない。「街」には陽の進行はあるが、時間というものが存在しない。そのことは、一方的に流れる時間を否定したものだろう。実際時間は循環して存在するのかもしれない。イエローサブマリンのパーカーを着た少年と主人公が出会うことができるのは、そのことを暗示している。そして少年の登場は、主人公とその仕事の明らかな継続であり、代替わりでもある。


そういう意味での年を重ねるということ。加齢や成熟ということの、ネガティブではなく、ポジティブな意味を気づかされる。
成熟とは、贅肉がつくことではなく、価値の増殖と再生のことである。
意識は遡及するのではなく、今へと立ち帰って来る。
過去は失われるのではなく、いつも隣にある。
そして過去の価値は増殖して現れ、代替わりして再生する。
この小説の狙いは、青春を遡及し、そして青春を今に解体することである。
そのような、稀有のメッセージを持った作品である。

80年代の終わり頃、川本三郎だか、村上春樹を評して、「週末のように終末」を描く作家ということが指摘された。
世界の終わり、黙示録的な状況を、あくまで軽く、日常生活のタッチで描くというような意味だったと思う。時にチェルノブイリ原発事故があり、日本経済はバブルの絶頂から崩壊へと向かうタイミングだった。
またアジアや東欧というこれまで日本の小説が読まれることが比較的少なかった国で村上春樹が人気になったのも同じ頃だ。
グルーバルな世界ということが書物の中からはみ出て、社会の中で姿を現した劈頭で、日本人の作家の中で最初にグローバルな作者となったのが、村上春樹だった。その彼が満を辞して、21世紀となったタイミングで、20世紀の主流であった時間とは異なる、新しい時間軸を打ち出したのが、本作だろう。
「週末のような終末」の正体は循環する時間ことかもしれない。


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