生活における価値の衝突

 3月にマルタで規制が始まり、6月30日に規制が取り払われ、その後、いくらかポコポコと法令も出て、生活がそれらに影響をうけることを感じている。それはたんに生活様式が変わるというだけでなく、政府というものが個人の身体をどこまで規制する権力があるのかということをさらに考えるようになった。例えば、ラジオ体操や中学生の時に体育の時間に強制的に延々とやらされた集団行動なんかも、いかに人間を調教あるいは制限するかという命題につながると思う。

 また、各個人の道義や正義がぶつかりあいがさらに顕在化したようにも思う。道義や正義というとものすごくたいそうなものに聞えるかもしれないが、どちらかというと、各個人が幾らもある物事に異なる優先順位をつけていて、それらの差異が可視化されるということと解釈していい。例えば、「不要不急」の行動は避けるよう政府が発表したことがあった。これは3月末および4月のことで、それまでは活発だった街がまったく様変わりして、ヒトよりもネコと鳩を多く見かけた時期だった。その時でも、私はいつものコーヒーを飲むために外出していた。それは、コーヒーは「必要不可欠」なものだからだった。ともすれば、それは優先順位が低く、「生きる」ために必要ではないという場合もあると思う。でも私のなかでは、このいつものコーヒーは生活を維持するために必要なものである。むやみやたらに外出しているわけではないというのが私の言い分でもあった。

 また、それだけでなく、音楽にしてもそうである。あるヒトにとっては、音楽がなくても生きていけるかもしれない。しかし、職業音楽家にとっては、音楽の場がないと生きていけないのである。これはこれで、価値の差異が対立を呼ぶものではあるが、やはりヒトによって必要であるものが異なるのである。また、これはどちらかというと持てるものと持たざる者の対立でもある。対立ばかり取り上げても現実にはどうしようもないのは事実であるが、差異を理解していないと、溝は深いままではないだろうか。

 「不要不急」「生活に必要なものこと」というのは、あくまでも個人の領域で判断されることであり、それらを政府に指定されるのはあまりいいものではないと感じてしまう。もちろん考えすぎなのかもしれないが、あくまでもヒト、個人それぞれで何に価値を見出すか、どう物事に優先順位をつけるのかというのが異なり、場合によってはそれらが衝突する場合があるというということを諒解いただけると幸いである。

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