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耳のラインを感じる

2023/05/06 ごろごろ農園にて
教わった「耳のラインを感じる」

その通りにやってみると
あら不思議、前傾になっていた身体が
スーッとまっすぐ整っていく。

しかも……!!!!!
この感覚、いつも自分が
中心帰納するときの感覚と
おんなじだーー!!!と驚きました。

わたしは、中心帰納するとき
自分の感じうる感覚の
全ての全てをつかって全てを
感じ取ろうとしています。

般若心経でいうところの
眼耳鼻舌心意」を意識して。

眼を使って見る
耳を使って聴く
鼻を使って嗅ぐ
舌を使って味わう
心を使って思う
意識を使って意識する

しかし、これらすべてを般若心経では
」だと
唱えているんですよね。

眼は無い
耳は無い
鼻は無い
舌は無い
心は無い
意識は無い

と一般的には伝えられているけれど

眼を使わずに見る
耳を使わずに聴く
鼻を使わずに嗅ぐ
舌を使わずに味わう
心を使わずに思う
意識を使わずに意識する

とも言い換えられるんじゃないかと。


で、タイトルの「耳のラインを感じる」です。

それが、この「耳を使わずして聴く」の
感覚とすごくよく似てるんです。

身体の先端をよく感じると
内側からフワァと浮かんでいく
感覚になりますが

その、耳から感じるバージョンとも
言えるのかな、と。

わたしだけなのかもしれないけど
上記の状態になると

時が止まるような、
今、今、今、今、の連続のような
右回転のような左回転のような
広がりながら巻き収められていくような……

え、何が?って?
んーーーどうでしょうーー。(ミスター)

自分の内側だったり
エネルギーだったり。かなぁ。

シャワシャワと微細な揺れとうか
微炭酸というかミストというか(エネルギー)

それ、そのものに自分がなっていくような
感覚になっています。

また後述しますが
それも歌っているときの感覚と
まったくおんなじなんですよね…。

禅が静的瞑想で、合気道や歌は
動的瞑想に近しいのではないかと。

ただ、瞑想に留まらないのは
感覚に浸るだけではなく
エネルギーを放つわけですから
祈りのほうがしっくりきちゃいます。
身体を使った祈り。

九時切りなどの呪術とか
キリスト教のペンテコステの祈り
油注ぎだとか
フラダンスとか
あとはインカンテーションとか。

身体と意識と思考とを一致させて
祈るということ

合気道も歌もそのようなものだと
わたしは捉えています。

ただ、一致させるとはいえ
イメージしたものが大きいからと言って
大きく身体を動かすという訳でもなく…

おっと、脱線した。

話をタイトルの「耳のラインを感じる」
に戻すと…

聴く、ということに集中しているけれど
「耳のライン」を感じているわけだから
耳を肉体的にベッタリと
感じているのとはまた
微妙に違うんだよね。

耳の輪郭。ライン。
耳本体のキワキワ。

それを感じるってことはつまり
音になるということ。

音とひとつになる。
音になる。
音そのものになる。

肉体(耳)を感じるのではなくて
肉体(耳)が起こす反応、を感じるのではなく

感覚そのものを感じる。
感覚を観じる。観測する。
所感、雑感を混ぜない。

ありのままを感じる。

それが耳のラインを感じているときに
起きていることなんじゃないかなと
思いました。

はい。以上が「耳のラインを感じる
についての気づきです。


ふぅ〜
お腹空きすぎて文章に
熱量が乗らなかったのが残念!!
ダサい理由!!

しかし…読み返してみて長すぎワロタ…………
自分でも引くわ〜……長いんだよね文章が。

でも大まかだとかなり
大義的表現になってしまって
ズレちゃうからね。感覚の話って。

「快の感覚を感じましょう」って言っても、
整体でバキバキ系の施術受けて
心地よさを感じる人もいれば
そうでないひともいるし

これカワイイ〜、
ってひとくちに表現したって

Aさん「これカワイイ〜」
(道端の猫ちゃんを見て)

Bさん「これカワイイ〜」
(漫☆画太郎先生の絵を見て)

Cさん「これカワイイ〜」
(スイカのタネを見て)

といった具合に
ひとりひとり異なるからね感覚って。

どう感じるかは人それぞれ。
しかも、同じ言葉で共有したって
同じものを感じているかどうかわからないし

日によってコンディションが異なれば
かなり不安定な定義になる。

今回は、先日の稽古内で
気づいた学びのうちの
ほんの僅かしか書けなかったので

また次回以降に以下の内容について
投稿しようと思います。

  • 自分の感じ方と相手の感じ方が同じであると過信しては伝わらない

  • 口伝は伝言ゲーム状態でめちゃくちゃ

  • 口伝でなく、触れて直接伝授することの重要性

  • 常に自分の感覚に気づき続ける

  • 身体の持つ声を軽んじではならない

  • エゴを察知すると身体は硬直する

  • 確固たる自分の中に、先生の教えを取り入れるのではない。自分などいらない。邪魔。

  • 先生の教えそのものになりきる。

上記の概要の先頭部分は
先生も以下のように
ブログに記述されていました。

方便も、技を呼び出す為のコマンドであって
コマンド連打してもできないなら
方便を変えていくことも大事なのだとの事でした。

まぁー、とにかく一回の稽古での
気づきが多すぎてもう大変!!!
超絶幸せな悩みですこれは!!

だからアウトプットしなきゃ
こりゃ勿体無いわよ〜ということで
書き始めてみました。

ではではまた次回。
お腹減った〜〜……!

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