繋がりを感じるのが大好きで。

今から十数年前。

わたしとパートナーとふたり、
都内ライブハウスで音楽活動をしていた。

その、いくつかのライブのうちの
ひとつで、わたしたちのライブを見て
感銘を受けてくれた方から
メールか何かが届いて。
 
その方ご自身も
音楽活動をされている方で
一度会いましょう、ということで
その方のライブを見に行くという流れになり
やがて、仲良くなっていった。

一緒にイベントをやったりしていくなかで
その方の音楽仲間というか先輩にあたる方とも
縁が出来て、仲良くなっていった。

その方を△としますね。


△さんの
バンドメンバーである□さん。

□さんは、わたしと同い年。
当時20代だったかと思うけれど

わたしが中学時代
ハマりにハマった、というか
人生の支えくらいの存在であったバンドの
スタッフとして十代から携わっていたそうで…

ライターであり、写真も手掛けてしまうし
センスの良さからアートワークも
手掛けているという美女。ポテンシャル最強。

その活動は、数多くの名だたるバンドの
ライブ撮影などで
日本はおろか世界中を飛び回っている、
とのことだった。

一度、彼女が撮影に入る
ライブに招待していただいた。

わたしが中学時代に
擦り切れるほど見たバンドのビデオで
ギラギラに尖って輝いていた
そのアーティスト本人のライブ。

そのライブの客席を
くノ一のように駆け回り
カメラを抱えて撮影をしている彼女。

わたしは関係者席から
その様子を見下ろして
あまりにも世界の違う彼女の
輝く姿に深く息を吐いた。

その関係者席に辿り着くまでに
受付で記帳をするんだけど
やはり有名なアーティストの名前が。直筆で。

実際に着席をすると
あの人や、あの人…と
音楽関係者がチラホラと。

彼女にとってはこれが
通常通りの世界、職場なんだ…と
華やかさに圧倒された。

もう、目眩がしそうなほど
パーフェクトな人生…

そういった、
□さんの仕事や背景についてを知ったのは
□さんのバンドが解散をして
数年してからのことだった。

それを看板にして 
自身の音楽活動をしていないというところに
謙虚さや、音楽への姿勢が伺い知れた。

当時はそんな眩い存在である彼女と
自分を比較して、かなり
自分を蔑んだ見方をしてしまったりもした。

そんなことはさておき、
自分を支えてくれていた存在であるバンド。

そのバンドの活動の裏には
彼らの活動を支えていた彼女がいた。

なんたる奇遇なことか。





そして、その□さんの
バンドメンバーであった△さん。

彼らのバンドが解散してから
新しくバンドを組んだ、とのことで
そのバンドの企画したライブイベントに
呼んでもらうことになり
我々も出演をすることに。

そして、その△さんの新しい
バンドメンバーさんたちと
顔合わせをして、談笑していると

その、△さんのバンドメンバーの
❀さん、なんと
わたしたちの自宅から歩いて
数分の距離に住んでいることが判明。
 
そんなことがあるのかぁー!なんて
意気投合して、互いの家を
行き来するような付き合いが始まった。

そして、そんな中
わたしは車と衝突して空を舞って、
奇跡的に足首を捻挫しただけという
怪我に見舞われてしまって。

リハビリ的な意味合いも兼ねて
ちょっと隣町の公園まで…なんて

パートナーとふたりで散歩をしていたら
❀さんが、おしゃれなカフェから出てきた。

「❀さん!!なにしてるのー?!」
と、わたしが思わず声をかけると
❀さんは、このカフェで
何日か働いている、とのことだった。

おしゃれなカフェ。
❀さんと出会えた嬉しさで
吸い込まれるようにして入っていった。

そして、そのオーナーさんも
すごく感じの良い人で。

話をしているとやはり
どんな仕事しているのー?なんて話になり。

音楽レッスンをやってますー、なんて話をして。

場所は、その当時レッスンをする場所が
無くなって困っていた時に
快く場所を貸してしてくださっていた
パン屋さん。そのお店のスペースをお借りして。

…なんて話していたら
そのパン屋さんのパンを、仕入れて
お店では提供しているらしかった。

よく知っているらしくて
長いお付合いだということや、
あのパンは美味しいということなど
話に花が咲いた。

やがて、そのパン屋さんぐるみで
このお店のオーナーや❀さんとの
交流を楽しむ機会も増えていった。



どこまでも
みんな繋がってるー、って

会う人会う人、みんな
御縁がある人なのは確かだけど
こういう「繋がり感」を感じると

「人生、その選択で間違いないよ!」と 
何かから言われている気がして
無性に嬉しくなってしまう。

奇遇!みたいな、こういう出来事が大好きで
たまらなくて、異様に嬉しさを感じて
興奮してしまうんですよね。





そして、
その❀さんはとてもセンスが良くて
アンティーク雑貨など
いろいろな心ときめくものへ
敏感な感性を持っていて。 

この町には珍しく  
そういったものを扱う雑貨店があり、
もちろん❀さんは
そのお店も通っている、とのことだった。

そして、そのお店のオーナーさんは
お友達とグループレッスンを
受講してくださっている方だったんです…!

その、雑貨店のオーナーさんと
お友達の◎さんの、おふたり。

なんと、おふたりのお子さん達が
前述したパン屋さんの
ご夫婦のお子さんと同級生で。

そして、そのパン屋さんのお子さんの
通っていた幼稚園の先生が
◎さんのお姉さん。


いやー!
伝わってますか!?

登場人物いっぱい!
しかもみんな仮名。
わかりにくいですよね。

んー、伝わっている、と信じて進めます…!




そもそも、◎さんのお姉さんが
最初にわたしのレッスンを受けて、
気に入ってくださって
周囲の方々にたくさん紹介をしてくれた。

そんなこんなで
◎さんのお姉さんは、
先月また新たにお友達を
レッスンへご紹介くださり…

そのお友達も幼稚園の先生だったとは
伺ってはいたけれど
もしや…と先日パン屋さんの話題を出してみると…

なんとパン屋さんご夫婦のお子さんの、
兄弟揃っての担任の先生だったそうで…

もう、ここまでの登場人物
みんなみんな繋がっているんです。

ひとりひとり、名前を言ったら
通じちゃう。

面白くないですか?!

わたしだけなのかな、こういう
「御縁」とか「奇遇!」みたいな
繋がりを感じると
どうしようもなく高まってくるのは…!





話は変わって

以前、NLPという心理学講師の方々と
仲良くさせてもらっていた時期があって。

(やはり、その方たちもライブイベント、つまり音楽を通して知り合った方々でした…!)

そのうちの一人の方から、わたしのことを
「ラポール形成が上手い」
と褒めてもらったことがあった。

そう言ってもらえても
当時のわたしには「はて????」

わからなかった。


ラポール、というのは
信頼関係のことなんですけど

ラポールを築く為には
・ミラーリング
・ペーシング
・バックトラッキング

というものを用いるのだそうで。

ミラーリングとは

目の前にいる相手の姿勢に鏡のように合わせます。

鏡のように合わせることによって、 話し相手は自分と似ている・近い・同類であるという感覚を持ち、 親近感・安心感をいだきます。

出典  NLP_日本ラーニングセンター


そして、ペーシングとは
相手の言葉や動きのペース、速さを
合わせるということ。

バックトラッキングは
相手の言葉をそのまま繰り返す、ということ。

らしいです。

すっかり忘れていたから
ググりながら書いています。

さも知ってる風に書き記しちゃってますけど!


コミュニケーションへの
不安、怖さなどについて…

本当にすごい悩んでいたから
そのお褒めの一言は
ものすごく意外だった。

いやー、まったく意図していなかったから
そんな事言われてびっくりしたし、

お褒めの言葉がシンプルに
嬉しくなったりもして。

つまり、
わたしは人とのコミュニケーションが怖い。

だけど、人と繋がりたいという
想いが人一倍強い。

だから、怖さがあるままで
コミュニケーションスキルが
自然と身に付いていったのだろう、と。

それって
本当は怖いのに怖くないふりしてるみたいな
不自然さもあるはずなんです。

だけど、その怖さを遥かに上回るほど
人との繋がり感を感じたいという
思いの強さがあったから

ラポール形成が上手いという見方を
してもらえたのかもしれません。



とどのつまり

ミラーリングもペーシングも
バックトラッキングも

そんなこと意図してやってられん!と
思うんです。

だって…


ラポール作らなきゃ!
よし、ミラーリングだ!
仕草を読み取らなきゃ!

いやっ、ペーシングも大事だ…
話すスピードをしっかり
捉えて合わせなきゃ!

いやいや!
バックトラッキングで
相手の言葉尻をすべて模倣せな!

でも模倣してるってバレたら
不快だろうし…


なんて…

やらなきゃいけないことばかりで
気が張り詰めちゃっていたら
相手との信頼関係の形成なんか…
作れっこないですよね。

つまり、
そういう概念があるのだと
叩き込んでおいて

あとは、相手を目の前にしたら
それらの概念にしがみつくこと無く

あるがままに
流れのままに、調和して
相手とのコミュニケーションを楽しむ

ということだと思うんです。

意図して作為的に行うと
不自然になってしまって、
意図した通りにはならない。

しかも、わたしは
何のスキルも叩き込んじゃいないし
そんな高等技術を使いこなせるような
戦略的コミュニケーションなど
図れるわけがない。

コミュニケーションの応用編など、
基礎の時点である「安心感」から
つまずいている自分にとっては
猫に小判、豚に真珠、であった。

 



これって、歌も全くその通りなんですよね…。


スキルを磨いたり
テクニックを仕入れるような
応用編ばかりに気を取られる

そんなことよりも大切なことは
今、というこの瞬間に集中する、
それだけがすべて。

それは、思考の介入できない
感覚の領域であって。

音と、ひとつになりたい、
信頼関係を築きたい、

つまり自然と
ミラーリングもしているし

ペーシング、リズムを取る
グルーヴに乗るということもしている

バックトラッキング、つまり
聴こえてくる音のまま歌う、

繰り返す、アドリブ的に
歌いたいフェイクなどが湧いてきたら歌う。

今、というこの瞬間に
すべてを感じていたい、繋がりたい
ひとつになりたい、調和していたい

という感覚。




その、調和したいという感覚。

それは、今この瞬間に
感じうるものすべて
感じたい、感じようとしていなければ
不調和が起きている。

分離が始まっている。

これは…もう
対人におけるコミュニケーションも
そうだし、

すなわち
合気道で、手合わせをするときも
もちろんそうで…。

わたしの先生は都度都度、
「相手とは鏡の関係である」
と、仰っている。

わたしの学んできた
心理学でも、やはりそのように
繰り返し教わってきた。

人と人とは鏡の関係なのだと。





何が言いたいのかと言うと
繋がりたい、という想いは
今、この瞬間、を感じていたいとすると
自然と湧いてくるものなのかなと思うんです。


もちろん、繋がりたいという
感覚など持っていなかったり
不要であるとする方も居られると思います。

でも、その繋がりたいという対象が
あくまで「自分の本質、本来の自分自身」に
向いていくことは

人間すべて、不変的に
内側にプログラミングされているのでは、
と思っているんです。

たとえば、
寂しさを感じたり、傷ついたり、
心が疼くような出来事があって

友人や家族などに
慰めてもらったりして
少し気持ちがほぐれても

それは気休めにしかならなくて。

本当は、その友人などから
慰めてもらった言葉を
受け入れることを許可して

自分は慰められてもよい、と
意図した自分によって慰められている。

わー!
大変!わかりにくい!

伝わりますよね、ね…!


人から受けた言葉や想いであっても
自分がその想いを受け取ることを
許可していない限り
受け取ることはできなくて。

それは、つまり自分が自分の心に
真に繋がろうとしない限り
自分の外側との繋がりは
まず築く事はできない。

繋がりに気づくことができない。


酷い、傷ついてしまいそうな言葉も
自分がそれを受け入れるという
許可をしなければ
傷つくことができない。

突き詰めれば
酷い、傷ついてしまいそうな言葉も
それを受け取ることによる
メリットがあるという
思い込みがあるからで。

だから、受け取っている。

わたしが、人から
「ゴミみたいな存在」と揶揄されたとして
それを受け取ってしまって
傷ついてしまったとしたら…

その受け取るプロセスには
「やっぱり、あなたもそう思うんだ」
「まただ!また、存在を否定するようなことを言われた…」

と、既に自分が過去に信じ込んでしまった
思い込みを確認する作業のようなものが
隠れている。

つまり、そのような暴言を吐かれても
受け取らなければ
何も感じる事もないし

「わたし以外の人が思うこと、言う言葉、わたしのものではない。以上。」

という話なのに。


つまり、
人から傷つけられるという瞬間

実は、もうすでに傷ついていて
そこに他者の言動により
自分で触れてしまっている、というだけのことで

他者は自分を傷つけることなど
本当はできないということ。

誰も、自分の心の領域になど
土足で踏み荒らすことなど
本当には出来はしないのだということ。

そのように感じることがあっても。

他者を自分の心の領域に
立ち入らせる許可を出せるのは自分だけ。

しかも、厳密に言えば
他者はその領域に立ち入ることなど
出来はしない。

他者の言動を採用して
自分が、自分の心に触れているだけのこと。

他者は無断で
自分の心になど介入できない。





これ、次のようなパターンもあって…

どんなに人から
称賛や、愛ある言葉などをいただいても

自分はそのようなものを受け取るに
値しない人間だと思い込んでいると

全く受け取ることができない。

これ、わたしなんですけどね。

いくら喜ばしい言動を受けても
受け取れない。

申し訳ない、気を使わせてしまった、
優しいからわたしに気遣ってくれている

そんな風に思ってしまう癖があります。

それがどれほど相手に失礼なことで、
とても寂しいことを自分でしていて

自分など、思い上がってはいけない、とか
いろいろ、諸々…
何を勝手に孤独を感じているのか、と。

そのことに気づいてからは
人から有難い事をいただいたら
有り難く受け取ることにしています。
意識的に。

無意識に、やってしまうからです。
「いえいえいえ!こんなわたしなんか滅相もない!!!」と。

受け取らない、という選択。

しかも、

「この人は優しいから、わたしのことを褒めてくれているだけで、本当はそんな褒められるようなことなんかしていない。気を使わせてしまって申し訳ないな…。わたしが可哀想に見えるのかな…。」

なんて本気で思っている。
せっかく褒めていただいても
社交辞令かな、とか。

その癖、褒められることは
嬉しいし大好きで。

受け取りたい!!!!という自分と
こんな自分がおこがましい!!!!という
自分とのせめぎあい。





そんなことはもうやめよう、って
本当に何度心に誓ったか。

もう、この相手のことは
信用したい、好き、って思ったら

素直に受け取ろう、って
強く強く思ってばかりです。未だに。

なかなか受け取り上手になれなくて。

ただ、繋がりたいという
想いは人一倍、強すぎるほどに
持っているので

その、繋がりによって
感謝とか嬉しさとか

そういったポジティブな想念よる恩恵は
多大に受けている、
受け取れていると思うんです。

そして、思っています。

何よりも大切なことは
自分が何者なのか、ということ。
それを自分で知ろうとすること。決めること。

まず、自分で自分のことをどんな存在だと
思っているのか。

どんな存在だと思い込んでいるのか。
どんな存在だとしたいのか。

その存在は、何を受け取るに値するのか。

それをハッキリさせておかないと
迷妄に陥ってしまう。

ただただ、自分の過去に
得てきてしまった恐怖を感じないように
回避することが人生の旅路になってしまう。

自分自身の人生を省みると、そう思います。
現に、そうなっていました。


ただ、その旅路も必死だった。
そして、ひとりではなかった。

その自分を蔑むことは
自己否定になってしまう。

その旅路を否定することは
自分に関わってくれた人達の事を
粗末に扱うことになってしまう。

自分を否定したり、責めたりするのが
デフォになっているので
意識的に自分を労って、認めていく

そんなことを
意識的にやっています。わたしは。





そして、現在見据えているのは
恐れを回避する人生ではないことは確かです。

やっぱり、繋がりを感じて
たくさんのよろこびを共鳴させたい。 
響き合いたい。

これを読んでくださっている
あなたという存在が
本来輝くべく輝きを覆い隠している、
何かがあって。

その、何かが自然と
剥がれ落ちてしまうくらいのよろこび。

それは、それぞれに持っているよろこび
ひとつひとつ、ひとりひとり、
繋がった時にものすごい力になっていって

すべての人を突き動かすものになる、と
心から思っています。信じているんです。




明るい部屋に四面覆った箱を持ち込んで
その箱を開いたら、
その箱の中にある「暗闇」は
一瞬にして消える。

暗闇の部屋に、
小さなろうそくの灯りを入れてある
四面覆った箱を持ち込んで

その箱を開いたら
その暗闇の部屋には小さな光が灯される。

そのくらい、小さな光のように
ひとりひとりの力は小さいかもしれない。

だけど、それが
ひとりの灯りではなくて
光源そのものと繋がっていて
灯される光であったら…

まるで電線から供給される
家庭の電球のように。

もっとそれよりも
力強くて、確かなものであってほしい
人の放つ光

その光源と繋がったら
誰もが底知れぬ力を発するようになる。

その光源と繋がろうとする
人と人も、当然繋がってしまう。

そして、その放たれる光に
人は惹きつけられる。

そして、繋がっていく人が増えていく。


わたしは、そのような
繋がりと力とを感じて

自分を突き動かされている、と
感じることが好きなのだと思う。










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