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第三話 カタルーニャとバルサ 「挑発」

10月に行われた第2モジュールのテーマは「歴史」と「ファンエンゲージメント」。今回の内容は個人的見解と希望も込め、一部の方にとっては好戦的で挑発的な内容になっていることを先にお詫びしておきます。また、ファンエンゲージメントに関しては別の機会でお話しします。

History

カタルーニャ歴史博物館でカタルーニャの歴史についてざっくり学ぶ。ここからは個人的趣味のため、少し長めの尺をいただきます。興味ない人は飛ばして下さい笑

古代:ローマ帝国の主要都市として栄えるも6世紀に西ゴート族がイベリア半島統一し、一周辺都市に成り下がる(一定の独立性はキープ)。

中世①:イスラム教徒に奪われ、フランク王国が取り戻し、またイスラム教徒が奪いに来て、今度はフランク王国が助けに来ず、それに怒り987年に勝手に君主を立てた(ここからカタルーニャ主権の意識が高まったとか)。

中世②:アラゴンと協力しレコンキスタ(国土回復運動)で次々土地をイスラム教徒から奪い返し、1258年にフランスから正式に独立を承認される。その後マジョルカ島も奪い返し、どんどん勢力を広げ、シチリア島、イタリアのかかとからブーツの真ん中ほどまで領地とし繁栄を極める(1443年)。

大航海時代:衰退の時代。アラゴンの王子とカスティーリャの王女が結婚しその後スペインが統一される(1479年はカタルーニャの政治的独自性が失われたとされているみたい)。大西洋側の地域(カスティーリャ側)が新大陸を探しに王族のバックを受け、栄えたのに対し、カタルーニャは人口が流出。地中海の覇権もオスマン帝国に奪われる。立場が弱くなった彼らはカスティーリャに反乱を起こし、フランスに助けを求めるが自治権への過剰な執着と独自の時代遅れの対応にフランスが呆れて撤退。あえなく敗退。その後フランスにテキトーに割譲される(1659年)。

王位継承戦争(1701-1714年):前王の死後、調子に乗って権力を使いまくっていたカスティーリャの王(フェリペ5世)に対し、カタルーニャ(カール6世)はイギリス、オーストリアの支持を得て戦う。実質この戦争はフランス(フェリペ派)対イギリス・オーストリア(フランスの権力拡大を阻止したい反フェリペ派)の戦いで、カタルーニャ側の王(カール6世)は途中、神聖ローマ帝国(オーストリア含む)の王位に就き、戦争は終わり。イギリス・オーストリアはフェリペ5世の王位即位を認める代わりに多大な見返りを得る。カール6世もスペインにとどまらず神聖ローマ帝国の王位を得る。カタルーニャは鎮圧され独立性やカタルーニャ語の使用権を失った。火を焚きつけた奴らは落とし所見つけ、そそくさと撤退し、利益まで得る。一方でカタルーニャの被害は甚大。無慈悲も無慈悲…。ちなみに、陥落した9月11日は後に国民の祝日になっています。

18〜19世紀:皮肉にも中央集権的な支配の下、農業、商業、工業が発展し、カタルーニャは人口も増え、凄まじい経済発展を迎える。19世紀半ばには国の10%の人口で90%の綿工業を支えるほどになる。しかしその間も戦争、戦争、戦争(対イギリス、対フランス、対王室etc.)。そりゃクーデターも反乱も起こりますよ。19世紀半ばにはクーデターにより民主制を獲得したがすぐに王政復古。しかしカタルーニャ語や文化の復興運動が起こり、徐々に立場を戻しつつあるのがこの時期。

20世紀:カタルーニャ自治権獲得派 vs 軍事独裁政権による弾圧のせめぎ合い。第一次世界大戦特需で産業が発展しカタルーニャ語復興の兆しを見せるも弾圧。1936年にスペイン内戦(ピカソのゲルニカで有名)が勃発。反ファシズム派(カタルーニャ)対ファシズム派(フランコ軍事政権)の戦いで、日本はもちろんフランコ側を支持。1939年以降フランコ政権下(〜1975年)では再びカタルーニャ語・文化は弾圧。3,500人以上のカタルーニャ自治政府関係者などが銃殺。反体制派のカタルーニャやバスク地方は経済振興の対象から外されるなど散々な目に…。

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フランコ死後〜現在:スアレス内閣の下、民主化が進められる。1977年には約40年ぶりの民主的総選挙を実施。カタルーニャ民族主義政党が多数の得票数を得て晴れて自治憲章を制定。今までの不遇にもかかわらず、経済的発展を何度も成し遂げて来たカタルーニャは今でもスペイン経済を引っ張っています。しかし、他地域の財政赤字をカタルーニャが補填するような仕組みになっている税制がいまだに独立運動を引き起こす大きな要因になっています。しかし、アンケートによるとそれよりも「中央政府のカタルーニャに対する言動」が1番の要因ともされています。政治家がバカな発言をして国民の反感を買うのは日本と変わりませんね笑(この写真は10月のマニフェスト運動時の帰り道)

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日本におけるフットボール文化とは?

こういう歴史的背景を考慮すれば、カタルーニャの人たちの象徴であるバルサがどれだけ大きな存在かということがわかります。ただの「いち」フットボールクラブではないんです。"MES QUE UN CLUB"、クラブ以上の存在なんです。

Jリーグは今年、最高観客動員数を記録したようです。2年前にDAZNと契約し、楽天がバルサのスポンサーをし、イニエスタ、ビジャ、トーレスがやって来て、ティーラトン所属するマリノスが優勝したおかげでタイでも盛り上がり。着実に成長はしていると思います。しかし、何百年、何千年の歴史を感じ、背負い競技をしているチームはあるのでしょうか?Jリーグはまだ26才。日本が本当の意味でフットボールにおいて欧州・南米と肩を並べるためには、クラブ・フットボールが国を動かすほどの文化になる必要があると感じています。そのために何が必要か。日本のフットボール産業に関わっている人、志している人が海外に行って勉強すべきだと考えます。(セレッソ対ヴィッセルの今季開幕戦。イニエスタ、ビジャ、ポルディを観に20数年振りのJ観戦)

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ビジネスのノウハウや知識は日本でも十分勉強・経験できると思います。しかし、フットボールを文化にするという点においてはビジネス面でのアプローチだけではダメなんです。日本が、自分の生まれ育った街が、クラブのホームタウンがどういう存在なのかというのは外から見ないとわからない。戦国時代なら自分の国の存在意義を意識していたことでしょう(日本国内限定での立ち位置)。しかし、いまだに西郷さんをシンボルに掲げ「薩摩は政府に屈しない!」なんて言うとるやつは流石にいない(はず)。

日本はフットボール後進国であることを自覚し、フットボール先進国で経験を積み、謙虚に学ぶ。そしてそれを国内に還元する。内弁慶の、狭い土壌で人材を流通させているだけではこの先の発展はありません。フットボールはもはやグローバルな感覚なしでは語れません。さらに少子高齢の影響で日本経済は終わりかけている。これに関しては、いくらこの業界の人が知恵を絞り、努力されてもどうにもならんでしょう。政府がなんとかしないと。話をフットボールに戻し、良いお手本が海外にあるのだから学べば良いんです。そして海外で学んだ知識や人材を拒否するのではなく、受け入れられる土壌が日本のフットボールビジネス界にできれば良いと思います。元〇〇で勤めていました、〇〇大卒が通用するようではダメだと思います

長々と偉そうなことを書きましたが、正直自分でも何が答えかなんてまだわかりません。今の自分の立場で思ったこと、学んだことをぶつけ、議論し、考えることで日本のフットボールが発展すれば良いと考えています。喧嘩したいのではなく、議論できる人が増えれば幸いです!

ちなみに今回の講師はロンドン出身のDavid Goldblatt 、社会学とフットボールの関係性を研究しており、癖のある英語はなかなかタフでした(笑)彼の著書、"The Age of Football"ではイギリス文化とフットボールの歴史が書かれています。興味のある方はぜひご一読を。
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(博物館屋上レストランにて)

 それではAdéu!

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