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『転生』『やり直し』作品から

今回の基盤はこの作品です

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狼領主の方は割と露骨に表現されていたので、私としてはハッとするまでではなかったのですが
逆行の方は少々組み入った表現だったので、数周読んでようやく気付きました。

私は狼領主の方に、深く同意を感じるものがありました。「家族が罰されるべき悪であっても」「それでも愛しているの」。
誰にもわかってもらえなかった、親への愛情を。
連鎖するから、事実だから、そんな正当な正義をもって、愛するものを攻撃される苦しみを。
私が福祉大で児童福祉学を受講していた時に、「子どもの気持ちは……?」と愕然としたもの。
講師に聞いても、判断が難しいことだよねと、児童福祉の中枢にいるわけでもないただの講師に、答えるすべがなかったこと。

逆行の方は、狼領主ほどダイレクトに表現されていないけれど、ひとつひとつ、丁寧に描いている印象があります。印象です(2回目)

最初は、何かしらの困難にぶつかって~みたいな、漫画のセオリーなのかなと思いました。まあ手順は踏んでるしおかしくはない。
ただ、違和感があった。この「セオリー」は、何を意図しているのか、汲み取れない。
間男が存在した、それが困難を引き起こした。
それだけなんですよね。

話が吹き飛びますが、まどめ。
ネフィが退行して、「つらい記憶を取り戻すとしても」のあたりのやり取りは、大学時代の私の好きだった歌い手さんが、ニコ動の機能にアンケートがあるから、似たような事を聞いたことがあるんですね。
当時、ボカロはkemuさんが人気を博しており、『超能力が手に入るとしたら、どれが欲しい?』といった内容のものです。
123は既存曲の能力、4は『いらない』。
2人ほど投票があると言っていたので、他にも誰か入れたのでしょうが、うち1人は私です。

やり直すということは、無かったことにするということです。
そりゃまあ33歳の今なら25歳からのやり直しをしたいですが(26歳から人間不信の原因がドコドコ増えるので)、大学生だから22歳くらいですか。
その頃の私には、やり直したいものなんてなかった。『敗北の少年』のように。

22歳までも、苦しくなかったとは言いません。言えません。クソ苦しかったです。
でも、まだ反論する元気はあったんです。超能力とか、なんか優れたものに解決してもらうんじゃなくて、『私が』決めるのだと。だから不要なのだと。

無かったことにして。
私は何を得られるのだろう。
やり直したって同じ道を選ぶよ、分かりきっているよ。

『家族を愛している自分』を、ずっと否定されてきた。大衆正義がそれを「虐待」とみなしているから。
確かにどうしようもねぇ悪どい親も居て、周りの迷惑を考えもしないの居ます。そばかすの姫に出てくる虐待親はもうどうにもならんね。

でも、すれ違っていることが、ただ虐待の項目に当てはまっているだけの家族もある。
親が何故子どもを奪われたと施設に乗り込んでこようとするでしょうか。
まあ勘違い乙の人も少なからずいるでしょうが、サンドバッグが居なくなっただけでそこまでする猿は山に戻した方がいいにしても。

子どもを奪われた」と言っているのです。
親としての教育義務を果たせていなくて、引き離す方が『子どものため』になるという理由で引き離される。もちろん会えません。
大きくなった子どもは傷を抱えていますが、何より、そんな風に振舞った親を
再会できない現実を
嘆くそうですね。

前にTwitterでも回ってきたかな
『30分で記憶が消える薬』だったかな。
子ども側が「なんで?」と聞いて、お互いにそれを忘れ去り、親子ではなくなる漫画でした。
遺恨だけを払拭した形ですね。忘れるけど。

さてそんなで冒頭に戻りますが
逆行を読んでいて、数周目にしてようやく目に付いたのがここです。

他の処々でも、『見捨てることが出来ない家族』という表現はされていますが
ここが根っこのように感じられました。
感じられました(2回目)

子どもは、自分の意思で決める力を、まだ持っていません。だから、周りの人や大衆正義が手を出し、守りに行くのです。
福祉のあり方が間違ってるとは思いません。今も虐待で死亡する子どもは何人も、何人もいます。

けれど、発達教育学で見た人の、生涯晴れないであろうと言った言葉と
私が33歳になっても未だに「うるさい、それは私が決めることだ」と撥ねつけるのが
この場面に裏表で入り込むように思えたのです。
思えたのです(2回目)

わたし、昔は、まず福祉の道に出て、定年退職後は漫画家になろうとか考えていました。
漫画家になる素養はないので、小説家でも良いです。私は人間は描けますが背景とか細かいものは無理なので……。
福祉で見てきたもの、私の人生、同じことに悩む誰かに残せたらと
そう、作家という道は私にとって、誰かの人生のバトンパスなのです。

だから本を沢山読んだのです。
小学校は歴史の棚以外は読み尽くしたし、中学も八割くらいの棚は読んで、古本屋の漫画も5列くらいは見たかな。さすがに本屋を網羅は無理ですね()
それは今でもそう。
誰かの空想かもしれないし、誰かの悲しみであるかもしれないし、誰かの「本当はこうであったら嬉しかった」だったかもしれない。
作品はそういうものと思ってます個人的に。
個人的に(2回目)

「幼い自分に強くあれと言えたなら」
「自分の道を選ぶことが出来たのでしょうか」

被虐待児の、永遠の命題のような気がします。
いや勿論、ひぐらしみたいに、自己防衛のために殺すしかなかったとかそんなんもあると思います。
ああいうクズも確かにいます。

けど
被虐待児を保護する時、2パターンあるそうですね。
「たすけて!」と逃げてくる子と
「やめて!」と親を庇う子。

まあ中には、マギのモルジアナみたいに
クズで自分を痛めつけてくるけど助けないとどうなるか分からないという恐怖に縛られている子も、多いですが。少なくなんかない、多いですが。


なぜやめて欲しいのか
私には分かります。
助けて欲しい側の被虐待児ではないからです。
ただすれ違い
結果的に虐待に値した環境の中で
徐々に心を病んでも
無かったことにはできない
親との思い出を。

逆行の方を読んで、なんでそう思ったよと言われると、「私(ヒロイン)から見た司祭様の家族と、司祭様から見た家族は違うもので」「どちらも大事で」「齟齬にどれだけの葛藤が」『私に軽々しく言う権利があるの?』

そう、焦点が全て『見捨てられない気持ち』に向いて書かれていて、その感性は違う(恵まれた者の正論)とまで書いてあり、葛藤はぼかしてあったけれど、『そんな権利があるのか?』という、私たちが周りから散々説かれる言葉への思いを
そう感じてない人が書けるだろうかと
ふと思ったのです。

私たちに呪いを与えるのは、「お前なんて~」という親の言葉以外に
「あんな親からは」と言う、周りの雑音が。
すべて呪いです。
おまえになにがわかる。

それを、どうか
いろんなひとが分かって欲しい

それだけの記事です。

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