危機の時代にあって──カリスマを用いなさい Ⅰペテロ4章10節
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2023年1月15日 礼拝
Ⅰペテロの手紙4:10
それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。
ἕκαστος καθὼς ἔλαβεν χάρισμα, εἰς ἑαυτοὺς αὐτὸ διακονοῦντες ὡς καλοὶ οἰκονόμοι ποικίλης χάριτος θεοῦ.
はじめに
しばしば人は、「苦境に立たされたときにこそ、その人の真価が問われる」という言葉を聞いたことがあるかと思います。ペテロの時代、クリスチャンたちは例外なく苦境に立たされていました。ローマ帝国内の社会不安にともなって、その原因をクリスチャンたちの暗躍にあるとされて、スケープゴートとなりました。そうした経緯もあって、ローマ帝国内どこに行っても迫害の危機につねにさいなまれていました。
迫害ほど人を不安に陥れるものはありません。
ペテロは、こうした状況を念頭において「万物の終わりが近づきました」と7節で語りました。まさに、世の終局を感じていたのだろうと思います。
人は、極度の苦境に立たされたとき、人の真価ほど脆弱なものはないことが、ペテロによって明らかにされていきます。
そうした、状況の中で私たちは何をすべきであるのか、どういう心で臨んだらよいかというものをペテロは説きますが、今回は、賜物について取り上げていきます。
カリスマ
さて、10節を見ていきましょう。
ペテロは、クリスチャンのどの人も『賜物を受けている』と言います。それはそうだと読者の方々もそう感じていると思います。
ところで、ここで示されている『賜物』と訳された言葉は、単に贈り物と考えてはいけません。
『賜物』のギリシャ語本文は、χάρισμα(カリスマ)と書かれています。
カリスマということばは、この日本でもおなじみの言葉ですね。
カリスマの意味は、超人間的・非日常的な資質・能力を表す言葉として知られています。また、英雄であるとか、預言者や教祖などに見られる、民衆をひきつけ心酔させる力としてご存知かと思います。
よくワイドショーで人を紹介する時に「美のカリスマとして知られる~」といった表現が使われます。
こうした、私たちが使っているカリスマということばの意味は、ドイツの社会学者、政治学者、経済史・経済学者であるマックス・ウェーバーによるものだといわれています。マックス・ウェーバーは、カリスマをカリスマを超能力と見なし、非日常的なある能力を持つ人々の中にカリスマ性があるとして、そうした意味づけが流布されたようです。
こうした見方が教会にも入り込み、カリスマというと、聖霊の与える超能力と見なす傾向があるようです。
聖書が教えるカリスマ
カリスマというと、教会においても、非日常的な特別な能力を持つ人々をカリスマとしてとらえていますが、聖書が啓示するカリスマとは、そうした特別な能力とは一線を画しています。
大地の産物
キリストによって選ばれた人々に対する救いの恵み
奉仕のために与えられる能力
初代教会においては、御霊の働きとカリスマとは切り離すことができないほど深く結びついているのはいうまでもありません。
御霊の賜物として、「知恵のことば、知識のことば、信仰、いやし、奇蹟を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力」が与えられています。
教会において、カリスマといいますと、上記に挙げる聖霊が与える特別な能力と信じている方もいるかと思いますが、
実は、広義にはあらゆる人々に与えられている神の恵みであることがわかります。
それぞれが与えられている
聖書が啓示するカリスマとは、
広義には、すべての人に与えられている大地の産物であり、
狭義には、
キリストによって選ばれた人々に対する救いの恵み
奉仕のために与えられる能力
になりますが、Ⅰペテロ4章10節では、クリスチャン一人ひとりには、カリスマが与えられているとペテロは言います。
そのカリスマとは、聖霊体験だけではないことがはっきりしています。
聖霊による力の付与といった限定されたものではなく、救われること自体がカリスマであること。
また、神の救いの目的が、神の計画の実現のためにキリストのからだとして教会に属することが求められています。
キリストのからだを建てあげる私たち一人ひとりが、それぞれの異なったカリスマをもって、教会の機能をはたすようにカリスマが与えられているということです。
こういわれると、自分には、果たしてカリスマなんてあるのだろうか?と疑問に思う方もいるかも知れません。ですが、救い自体がカリスマであると考えると、クリスチャンにとっては普遍的なものであることがわかると思います。
教会の不全の課題
もう一度、10節を見ていきましょう。
そこには、『その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。』とあります。ペテロが語ったこの節では、教会活動が不全であったことが想像できます。もし、仮にペテロが宛てた教会が健全な成長を遂げているならば、ペテロはこのような記事を書き送りはしなかったでしょう。明らかに、教会運営に問題が生じていたことが想像できます。
迫害や、偽預言者の問題、様々な課題や疲れが教会の中にあったことが、他の文献からも明らかですが、教会が救いの恵みによって一致できていなかったことが、こうした文脈からも明らかです。
孤立主義
以下は、パウロの言葉になりますが、アテネの西南に位置する、港湾都市コリントにあった教会に宛てたコリント人への手紙の一節です。
ペテロの宛てた今回の手紙とは異なりますが、当時の教会の内情について知ることができますが、教会のなかに、奉仕における混乱が見られたようです。組織として教会を構成しなければならないのに、組織に加わらない、役割を担い合わないといったことがみられたようです。
しかも、教会には関わらないという孤立主義が見られました。
内紛と分裂
さらには、下記の記事にもありますが、
教会の中には分裂もあったということです。
リーダーではない人が、主導権を握るような動きもコリント教会には見られた。一致というカリスマを受けたのにもかかわらず、各々のクリスチャンには不満があり、一致できない、協力できない、協力しないという人たちも存在したようです。こうした課題が、当時の教会に見られたことでした。
ところで、取りも直さず私たちの時代の教会も見ていきますと、同じことが見られるのではないでしょうか。
教会の規模に関わらず、同じカリスマを受けていながら、教会が有機的に結合する『からだ』として成立しない状態というのは、現代にも見られる課題です。
教会を一人の人格として『からだ』が構成されるべきであるとペテロは、読者に諭しますが、実態は、そうではありませんでした。
有機的どころか、不随意に活動し回る、あるいは、不活化して、休眠しているというような状態が教会に見られたことでした。
こうした状態を多くのクリスチャンは良いこととは思わないでしょう。しかし、これが現実でしたし、今も続いていることです。
教会が健全になるために
こうした、教会が一つにまとまらない、混乱した状態にペテロは何を示しているのかと言えば、
恵みの管理者であること
救いというカリスマを受けた私たちは、まずは、『恵みの良い管理者』となることが求められます。
管理者とありますが、ギリシャ語で、οἰκονόμοι(オイコノモイ)と記されています。原型はオイコモスという言葉ですが、この言葉は、『執事』という意味です。転じて、エコノミクス(経済学)の語源でもあります。ところで、主の救いを受けた者は、神の恵みの執事であることが求められると言います。
C. スピックという学者は、「オイコノモスはこの機能を遂行するために、勤勉、熱心、有能、周到といった能力のために選ばれる。 執事に求められるのは、忠実であると認められること』。つまり、主人の信頼に値するように生きることが求められると言います。
なかなか、きびしいあり方だと個人的には思ってしまいます。しかし、主イエスが、私たちを救うために十字架にかかり苦しまれたことを思いますと、甘えてなんかはいられないのではないでしょうか。私も、こうして学んでいますと、いかに、神のスチュワードシップからかけ離れたところにある自分を見るものです。悔い改めねばならないのは、語る自分自身であると思います。つい、怠惰になり、自分が神から与えられたカリスマを適当に扱ったとすれば、主イエスの苦しみは、無駄にしてしまっていることになります。
私自身もそうですが、当時の教会は、受けたカリスマを用いようとしない、あるいは、カリスマを主のため、教会のために用いようとしなかったところに問題がありました。
ですから、私たちは、自分が与えられたカリスマというものを覚えていく必要があります。同時に、そのカリスマを命がけで与えてくれた主イエス・キリストの愛を見つめていく必要があります。
私たちが、十字架の愛というものを忘れてしまいますと、途端に、教会は崩れていきます。与えられたカリスマを自分自身のものに使うようになる。あるいは、他人を活かすように用いようとしなくなる。
自分だけが苦労するのは嫌だ。自分だけのものにしたいという思いから離れなくなります。これを貪欲といいますが、
コロサイ人への手紙には貪欲についてはこうあります。
互いに仕え合うこと
『仕え合う』という言葉は、διακονοῦντες(ディアコノウンテス)とあります。原型は、ディアコネオという言葉で、その意味は、「仕える」という意味になります。詳しくは、主が導かれるままに、特に積極的、実践的に他の人の必要を思いやることを指します。 クリスチャンの場合、信仰を通して、自発的に援助し、喜びをもって人々の必要を満たすことを意味します。
私たちは、一人ひとりが、カリスマを受けています。そのカリスマを主イエスが私たちに自発的に与えてくれました。それも、私たちの奴隷となって、一人ひとりに喜びをもって、私たちの必要を満たしたように、私たちも与えられたカリスマにしたがって人々の必要を満たしていくことが求められています。
こうした、2つの言葉から、私たちは何が今求められているでしょうか。私たちは、単に信仰を受け、その恵みを享受するだけにとどまらないということです。もっと積極的に、教会の働きを担うものとして積極的に関わることが求められているということです。自分は教会で何が求められているのか、何をしなければいけないのだろうかという吟味が必要です。
人に強いられて、お願いされて奉仕すべきではありません。私たちも、教会の中で奉仕することが求められています。教会とは、ジグソーパズルのようなものです。あなたが加わらなければならない場所があります。そこにあなたは導かれているはずです。
そうは言われても無理
求められるハードルが高くて、自分には無理と思う人もいることでしょう。何を隠そう、私もその一人です。イエス様の十字架のようには従うのは無理であると本音がこぼれてきてしまうのは事実です。
自分はなんてヘタレなのだろうと思うのも無理はありません。自分の力で成し遂げようということは、奉仕においては無理です。
神の奉仕に必要なのは、聖霊の力です。
奉仕を長く続けていくためには、自分の力では無理です。そこにこそ、聖霊に働いていただくのです。
主の招きに導かれ、聖霊によって奉仕に向かう時、本当の喜びが与えられていきます。
あなたが、教会の奉仕に加わり、主の働きのために一つにされていくことを祈ります。