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ペンテコステ礼拝 この曲がった時代から救われなさい

2024年5月19日

使徒の働き2章1節ー42節

使徒の働き
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

タイトル画像:Betty VerheijによるPixabayからの画像


はじめに


今回は、ペンテコステと呼ばれる聖霊が降臨した日について語っていきます。『この曲がった時代から救われなさい』とペンテコステの日の最後にペテロが語ったメッセージから語っていきます。

今日、私たちはそのペンテコステを記念し、神の聖霊が私たち一人一人に与えられ、私たちの中に働き、私たちを導き、力づけてくださることを祝います。私たちのうちに神の聖霊が私たちの心と生活を満たし、私たちを神の子として生きる力を与えてくださることに感謝していきましょう。

ペンテコステとは


ペンテコステは、新約聖書に記されているエピソードで、イエスの復活・昇天後、120人の信徒たちが集まって祈っていたところ、神からの聖霊が降りたという出来事を記念するキリスト教の祝祭日です。

ペンテコステはギリシャ語で「50番目の」という意味があり、イエスの復活から数えて50日目にこの祭りが行われます。この祭りは、キリスト教の中でも特に重要なもので、イースターやクリスマスと並ぶ大切な行事とされています。

この日には、教会で特別な礼拝が行われ、信者たちは聖霊の働きを思い起こし、神への感謝を表します。また、ペンテコステは「教会の誕生日」とも言われており、この日をきっかけにキリストの信者たちが世界中で宣教活動を始め、教会が成立していったことを記念しています。

なお、ペンテコステは移動祝日であり、その日付は毎年異なります。西方教会では5月初旬から6月上旬の日曜日に、東方教会では5月初旬から6月下旬の日曜日に行われます。この祭りの祝い方は各国さまざまで、独自の伝統や文化が取り入れられています。

ペンテコステのいきさつについて

五旬節の日、信者たちは一つ所に集まっていました。突然、天から激しい風が吹き、炎のようなものが現れて一人一人の上にとどまりました。これにより、彼らは聖霊に満たされ、他国の言葉で話すことができるようになりました。

この時、エルサレムには様々な国から来た敬虔なユダヤ人たちが住んでいました。彼らは、自分たちの国の言葉で弟子たちが話すのを聞き、驚きました。しかし、一部の人々は彼らが酔っているとあざけりました。

そこでペテロは立ち上がり、人々に語りかけました。彼は預言者ヨエルの言葉を引用し、これがその予言の成就であることを説明しました。また、イエス・キリストの死と復活、そして彼が神の右に座し、聖霊を注いでいることを証言しました。

人々はこれを聞いて心を打たれ、「何をすればよいか」と尋ねました。ペテロは彼らに悔い改め、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けるように勧めました。そして、その日に約三千人がバプテスマを受け、信者に加わりました。新たに加わった信者たちは、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りを続けました。これが、初代教会の始まりといわれております。

三大例祭の成就とペンテコステ

先ほど紹介しましたように、新約聖書の使徒による働き2章1節から42節には、五旬節について書かれています。五旬節(ペンテコステ)とは、ユダヤ教での三大祭りの一つです。

シャブオットの祭り

このシャブオットの祭りペンテコステと呼ばれる祭りです。過越の祭り(ペサハ)に続く、種を入れないパンの祭りで大麦の初穂をささげてから七週間後に行われる50日目の祭です。このことから、ギリシヤ語のペンテーコストス(50番目の)を語源として五旬節とも呼ばれます。
イスラエルの民が紅海を渡ってファラオを退けてから50日を数えてシナイ山に神が降臨したことを記念して行われました。労働が禁じられる聖会の日であり、タナハ(旧約聖書)の学習が行われる日です。
この祭りは大麦の収穫の終りを告げ、同時に小麦の収穫の始まりを告げる大事な祭りとなります。「刈り入れの祭り」とも言われ、現在では、自然の恵みに感謝をする収穫祭という意味合いが強い祭りです。

昇天日の10日後

過ぎ越しの祭りが終わり、その40日後にイエス・キリストは使徒たちが見守る中、昇天していきます。

イエス・キリストが昇天の前に、使徒たちにこう言い残して去ります。

使徒による働き
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

イエス・キリストがこう弟子たちに言い残した大きな理由として、御言葉の成就というものがありました。先ほど示しましたように、イエス・キリストと、ユダヤ教の祭りの間には見事な相関関係が見られます。これは何を意味しているのかといいますと、イエス・キリストはユダヤ教の成就者であり、律法の完成をもたらしたお方でありました。

マタイによる福音書
  5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

すなわち、イエス・キリストは旧約聖書の完成者であるがゆえ、7週の祭り(シャブオット)において、弟子たちが聖霊を受けることによって、シャブオットの祭りの意味である『麦の収穫』がどういうことを意味しているのかを明らかにする意味がありました。

神にとっての収穫とはなにか

五旬節は、シャブオットの祭りを起源にもつ祭りでした。その中心は、『収穫』にあるということです。

麦とは、クリスチャンの比喩です。つまり、ペンテコステ(五旬節)は時が満ちて、いよいよ収穫の時が来たということを告げる出来事でもありました。

マタイによる福音書
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

こうして、ペンテコステ(五旬節)にイエス・キリストの十字架と復活の贖いのわざの完了と終結を意味し、いよいよ神の救いのご計画の時が始まったということを告げるものでした。

それは諸国の霊的刈り入れの始まりであり、ペンテコステの日に3千人の救われた人が与えられました。その始まりを告げる日として諸国民が集まるペンテコステの日が選ばれ、諸外国のことばで話す賜物が使徒たちに与えられていきます。(使徒2:4‐13)

聖霊が降臨した

過越の祭りと復活日という、神の贖いのわざの完了から、聖霊が人に臨まれることによって霊的な収穫がもたらされたペンテコステの日をもって救いの歴史がいよいよ完成し、これをもって教会が誕生したのです。

弟子たちとともに歩まれたイエス・キリストの臨在の代わりに、父なる神から三位一体の第三位の神である聖霊が、「もうひとりの助け主」(ヨハネ14:16)として聖霊として弟子たちの心に住みまれ、力付けることによって、神の国を宣教する権威をすべてのクリスチャンに与えることになりました。(ローマ15:19、Ⅰコリント2:4、ヘブル2:4)

使徒の働き2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。
1コリント2:14
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
ヘブル2:4
そのうえ神も、しるしと不思議とさまざまの力あるわざにより、また、みこころに従って聖霊が分け与えてくださる賜物によってあかしされました。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

奴隷解放の祭り

もともと、シャブオットの祭りは、罪のためのいけにえと和解のいけにえ贖われた人々の感謝と恐れを表す祭りでありましたが、同時に神の契約の民として、エジプトの奴隷から解放されたことを記念する祭でもありました(申16:9-12)。

このことは同時に、罪の奴隷であった私たちクリスチャンが、今や天のイスラエルに属する者として、イエス・キリストを信じる信仰によって救われたことを象徴する予表でもあります。

申命記
16:9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。
16:10 あなたの神、主のために七週の祭りを行い、あなたの神、主が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。
16:11 あなたは、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みのうちにいるレビ人、あなたがたのうちの在留異国人、みなしご、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所で、喜びなさい。
16:12 あなたがエジプトで奴隷であったことを覚え、これらのおきてを守り行いなさい。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

いけにえをささげる背景には、罪が取り除かれることと、神との和解を結ぶという思いが込められていました。後にシャブオットの祭り(五旬節)はモーセがシナイ山で十戒が与えられることを記念するものと考えられるようになります。

石に書かれた律法が信じた者に刻まれる

イスラエルの民が石の板に刻まれた律法を受けたのが、出エジプト後50日目であったと言われていますが、同樣に、死がキリストによって打ち砕かれてから50日目に、聖霊によって信じる者の心のうちに律法が刻まれました。
(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25‐28、ヘブル8:10)

エレミヤ書31:33
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
エゼキエル書36:25
わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
ヘブル人への手紙8:10
それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

こうしてペテロは、「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」というヨエルの預言のことばを引用し(使徒2:17‐21)

使徒の働き2:17
『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

旧約聖書に約束されていたことが、今やペンテコステの日によって成就したことを宣言しました。

使徒の働き
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
使徒の働き
2:39 なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

曲がった時代から救われよ


使徒の働き
2:40 ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。
2:41 そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

こうして、聖霊が下ったエルサレムにおいて、奇跡が次々と起り、その奇跡に遭遇した人々は、驚き呆れたといいます。(使徒2:6)

ペテロは、そうした奇跡を目の当たりにした人たちに対して何を行ったのかと言いますと、御言葉の解き明かしとイエス・キリストの復活の証言でした。不思議な奇跡や異言を伝えることが目的ではなかったことです。そうした超常現象は、あくまでもイエス・キリストによる救いが中心であることを宣言したのです。

その救いとは、「この曲がった時代から救われなさい」ということでした。『曲がった』と訳されている言葉は、スコリオスというギリシャ語です。このスコリオスとは、干からびた木片のように干からびたために曲がったものを意味し、そうした意味から、聖霊が欠けているために道徳的にゆがんだため、神に受け入れられないことを示す言葉です。

『この曲がった時代』とはなにかといえば、まずは、当時のエルサレムが置かれた状況だったでしょう。前回のメッセージで語ったように、エルサレムは神の平和の町という意味から遠ざかり、現在では祭司長、パリサイ人、律法学者、ローマ帝国の総督などの支配者が群雄割拠する状態にありました。しかも、自分たちの保身のために神の約束を伝えに来たイエス・キリストを十字架で殺害し、好き勝手に振る舞い悪意や陰謀が渦巻いていたのが主の平和と呼ばれたエルサレムの嘆かわしい状態であったのです。

形式だけ、言葉だけでその中身は、腐敗と腐臭に満ちたエルサレムは、40節にある『曲がった』(スコリオス)状態でありました。

マタイによる福音書
23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。

なぜ、主の平和と呼ばれたエルサレムが『曲がって』しまったのかということです。町の中心には、その当時世界有数の規模をもつ壮麗な神殿がありましたが、その中身は空っぽでした。本来ならば、神殿の至聖所に契約の箱が収められて十戒が刻まれた石板があるはずでした。イスラエル王国滅亡後に分裂した南のユダ王国が、紀元前587年、新バビロニアのネブカデネザル二世によって滅ぼされた際に、エルサレム神殿も破壊され、契約の箱の行方はわからなくなってしまいました。

エルサレムはその当時、すでに契約の箱が失われた状態で神殿での礼拝が行われていたのです。

第二神殿もまた、バビロニア人に取られたがキュロス2世によって回復された多くの金の祭具を含む。しかし、ユダヤ人の伝統によれば第二神殿には、はじめに存在していたシェキナおよび聖霊が不足していた。

『第二神殿』 神殿の再建  
出典: フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia) 

聖霊の降臨と心の満たされる恵み

そして今、ペテロの言葉が私たちに響いています。「この曲がった時代から救われなさい」。

つまり、あるべきものを欠いた状態で礼拝をしていたのが、当時のエルサレムの現実でした。その結果、何を招いていたのかといえば、干からびた木片のように干からびたために捻じ曲がってしまっていたのです。こうして、聖霊が欠けてていたために、道徳的にゆがみをもたらし、神に受け入れられない状態にまで堕落してしまい、ついにはイエス・キリストを十字架につけるというような凄惨な事件をもたらすに至りました。 このような状態は、聖霊を失ったユダヤ教の姿を象徴し、礼拝のあり方が、心や霊のありかたよりも、形式ややり方、儀式を厳密にすることに取って代わってしまったのです。

こうしたあり方が、スコリオス『曲がった』の意味なのです。 私たちも注意しないと、霊性から離れ、形式や姿、手段が重視され、目に見えない愛であるとか、思いやりや配慮というものが失われかねません。確かに、今私たちは、主イエスを通して聖霊をいただく恵みにあずかっていますが、聖霊に満たされることを失ってしまうと、形だけ、口先だけの礼拝に曲がってしまいます。今も、「この曲がった時代から救われなさい」とのペテロの言葉が私たちに響いていることです。

この問題の根本的な原因は、私たちの心が空虚であることです。私たちの心を満たすものが欠けているのが、普遍的な人間の課題です。その解決策は、聖霊が心に占有してもらうことです。つまり、イエス・キリストを自分の救い主として認め、信じることです。これにより、私たちの空虚な心は恵みと感謝に満たされます。

イエス・キリストと聖霊は、私たちの乾いた心に生命の水を注ぎ、平和と充足感をもたらし、私たちの心を神に向ける道しるべとなります。
これこそが、神が望むペンテコステの真髄です。あなたの心の扉を開き、主イエスを迎え入れてみてはいかがでしょうか。神は、あなたの心に聖霊の豊かな恵みを注ぎ、平和と満ち足りた喜びを与えてくださいます。ハレルヤ、神の恵みがあなたと共にありますように!

適 用


  1. 自己変革と成長を聖霊がもたらします
     「曲がった時代」は、たましいの不在による困難と霊的な欠乏を象徴しています。こうした課題を克服し、自己改善と成長を達成するためには、自分自身の内面の罪というものに焦点を当て、主イエス・キリストが自分の罪のために死んでよみがえられたことを信じ受け入れることが重要です。こうして、私たちは、この世において聖霊と共に歩めるのです。

  2. 教会とのつながりをもちましょう
     ペンテコステの祭りは、教会を生み出したことを記念しています。私たちは教会のからだを作る一員としての役割と責任があります。現代社会においても、私たちは自分たちが所属する教会とのつながりを大切にし、互いに支え合うことが求められます。

  3. 世の終わりが近いことを悟る
    ペンテコステの祭りは、霊的な探求と成長の重要性を強調するだけでありません。終末の時代に入ったことのしるしでもあります。物質的な成功や達成感、精神的な充足感や平和を追求することが私たちの目的ではありません。いつこの世が閉じられてもおかしくない時代であることを覚えて、熱心にイエス・キリストと人とを愛することを覚えて歩んでいきましょう。