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危機の時代にあって──神の感動の舞台へ Ⅰペテロ4章11節

Title photo by puzzleboxrecords via Pixabay

2023年1月22日 礼拝

Ⅰペテロの手紙4:11
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

εἴ τις λαλεῖ, ὡς λόγια θεοῦ: εἴ τις διακονεῖ, ὡς ἐξ ἰσχύος ἧς χορηγεῖ ὁ θεός: ἵνα ἐν πᾶσιν δοξάζηται ὁ θεὸς διὰ Ἰησοῦ Χριστοῦ, ᾧ ἐστιν ἡ δόξα καὶ τὸ κράτος εἰς τοὺς αἰῶνας τῶν αἰώνων: ἀμήν.

はじめに


苦境に立たされたとき人に何が必要であるかということで、前回、救いによる聖霊の働きが必要であると語りました。そのキーワードがカリスマでした。カリスマとは、聖霊体験にともなう力に限定されるものではない。あらゆるクリスチャンに与えられている神の恵みや奉仕の力として新約聖書は伝えているということでした。今回は、その恵みや奉仕の力が賜物として与えれていることを踏まえて、それぞれのクリスチャンの奉仕について考えていきたいと思います。

語る人


Monika RobakによるPixabayからの画像

前回、『賜物』(カリスマ)について見てきました。その中身は、私たちの常識とは異なり、異言や癒やしという超自然的な神の力というよりはむしろ、神の救いや、奉仕を行う力というものでした。
カリスマというものは、神からの無償の賜物であるとか、恵みの賜物というものであることです。そのカリスマというものは、御霊の働きにより与えられるので霊の賜物とも言われます。

11節を見ていきますと、そこには、

語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。

と書かれています。内容を見ますと『語る人』と『奉仕する人』が教会に存在することがわかります。現代の教会にも、大別すればこのような奉仕の違いがあることを教会に属している方なら理解できることかと思います。

語る人の意味

ところで、『語る』と訳されたギリシャ語は、λόγια(ロギア)と書かれています。原型はロギオンという言葉で、その言葉の意味は『神の宣言』という意味になり、神から発せられた声明、つまり、神の啓示を表すことばです。

語る者の『語る』とは、わかりやすく言えば、説教(メッセージ)ということになります。説教といいますと、教会の牧師が語ることばというように連想してしまうものです。しかし、それはそれで誤りではないのですが、

聖書的、福音的な背景から『説教』を見ていきますと、
それは、説教者自身の人生観や宗教的思想、または神についての考えなどを語ることではないのです。それでは、具体的に『説教』とは何を語るのかといえばなんであるのでしょうか。

神が啓示した聖書を伝える人であること

聖書とは、神が選ばれたしもべたちを霊感し、彼らを通して語られた神のことばになりますが、説教者は、神が人々を通して啓示し記録した聖書を伝える人であることです。

Ⅱテモ3:16
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

新改訳聖書 いのちのことば社

ところで、『神の霊感』ということばは大事です。英語では、”inspiration of God”(欽定訳聖書)、ギリシャ語ではθεόπνευστος(セオプニューストス)という言葉です。霊感といいますと、怪しい響きが感じられてしまうのですが、英語ですと、神のインスピレーションです。

そもそも、霊感といいますのは、セオプニューストス(theós「神」とpnéō「吐き出す」)という合成語です。
「神が吹き込んだ、神の息のかかったもの」という意味です。つまり、聖書は神の啓示を受けた書物というように教えられておりますが、厳密に言いますと、「聖書は神が吹き込んだ書物であり、人の意志によって預言がもたらされたのではなく、聖霊によって運ばれて人々が神から語った書物」であるということです。そのことばを忠実に語る使命が説教者にはあるということです。

説教者の使命について新キリスト教辞典に端的に書かれていたの紹介します。

イエス・キリストの死とよみがえりによる,罪と死への勝利の良きおとずれを,〈ギ〉ユーアンゲリゾーし(良い使信を伝える),〈ギ〉ケーリュッソーし(アナウンスする),〈ギ〉カタンゲッローする(宣言する)ことを中心とし,神の御計画(〈ギ〉ブーレー)の全体を余す所なく知らせることである.

出典:新キリスト教辞典 『説教』より抜粋 いのちのことば社

説教者の本分とは、イエス・キリストの死と十字架と復活と神のご計画を余すところなく伝えることにあります。

ですから、聖書のことばを語る人(説教者)は、聖書を利用して自分の思想を語ることでもないですし、ましてや、聖書を利用して自分のために人々を操作することはもっての他であり、罪であると言わざるをえません。むしろ、強調されているのは「神の」という言葉であり、ペテロは、説教者が自分の生まれつきの能力や機知に頼ったり、自分のために喝采を求めたりせず、自分以外の力を持つ者として行動し、神が語るようにと啓示するものを語る者として召されていることを忘れてはなりません。

語る人の現実


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使徒の働き6:2-4
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

新改訳聖書 いのちのことば社

使徒の働きによれば、初代教会では十二使徒たちが、やもめたちに食料を配給するなど、みことばを語る事以外の仕事に従事していたとのことです。ところが、ギリシャ語を使うユダヤ人たちがヘブル語を使うユダヤ人たちに対して配給の苦情を受ける事態に発展していました。多くの管理的な仕事が増えることで、彼らが最も大切にしなければならない霊的なことばを群れに与えることを危うくしていました。

何が危険かといいますと、みことばに力が無いということです。感動や希望が見いだせないということになるのです。
教会の説教に力がなくなり、教会がサロンになっていく、あるいは社会貢献だということで施設化していく、こうしたことは決して悪いことではありませんが、教会が第一にすることではありません。教会の一番の目的、それはみことばを語るということです。

ところが、現代においても特に日本の教会に見られることですが、教会が小規模ということもあって、どうしてもみことばを語ることに専念できない現実があります。ところで一方、比較的大規模な教会では、奉仕と呼ばれる雑多な仕事に追われ、みことばを十分に用意できない教役者も多いと思います。
他方では、私もそうですが、自活のためにアルバイトをこなしつつ、肉体的に疲れ切ってみことばを用意し、教会を運営するようなテントメーカーの教会を運営している教役者が多い現実があります。
いずれにしましても、教役者が十分に祈りとみことばに専念できない環境の中、日本のあらゆる教会がみことばに枯渇していると言わざるをえないでしょう。

どうか一人でも多くの教役者が十分に用意されたみことばを語れるような環境になることを祈っていただきたいと願います。それは、日本の宣教における最重要課題です。

奉仕する人


語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。

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さて、語る人に対して、ペテロは『奉仕する人』についても語っています。『奉仕する人』とは、διακονεῖ(ディアコネイ)という単語ですが、類語のディアコノス「移動中に塵を蹴る」という意味がもとになっています。つまり、忙しく用事をする人のような意味です。それが転じて、主が導かれるままに、積極的、実践的に他の人の必要を思いやり、自発的に援助し、喜びをもって人々の必要を満たすことを意味すること、それが本来のディアコネイ『奉仕する人』です。

日本の教会の奉仕というのは、どちらかといえば、信徒でいえば、教会の掃除や給仕、雑用をこなすような意味に用いられるか、あるいは、牧師や伝道師らの全般的な仕事を指すように思われるのですが、ギリシャ語本文から見ていきますと、だいぶ奉仕の意味が変わってきますね。

これは、集会での「奉仕」や霊的な奉仕だけにとどまらない意味があります。本来的な『奉仕』とは、貧しい人々のために良いものを与えることを意味します。

感動の舞台へ誘うイエス


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ペテロは、『奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。』と語ります。ここで、『豊かに備えてくださる』とありますが、ギリシャ語本文ではχορηγεῖ(コレーゲイ)という単語です。

コレーゲイの原型はコレーゲオー。「壮大なコーラス(合唱)に出資し、指揮する人」を意味します。現代で言うところのコンサートのプロデュースを行う人でしょう。古典ギリシャ語で、合唱に資金を提供し、行事を行うために必要なすべてのものを供給するという意味で使われていました。公共の祭典におけるコンサートは、人員や設備に多額の費用がかかるので、アテネの官公庁にとって費用のかかる事業でした。

つまり、ここで何を言いたいのかといいますと、まず神は私たちに豊かに救いの恵みを与えたという事実を思い起こしていただきたいのです。
神の一人子イエス・キリストは、神であられるお方でしたが、彼が地上に遣わされ、それがクリスマスとなり、公生涯において多くのユダヤ人の救われるという奇跡を起こします。しかし、ユダヤ人の裏切りにあい、十字架に架けられ生涯を終えますが、その後、復活され昇天するという壮大な舞台を、神の救済史という大舞台の頂点として私たちに提供されています。

歴史そのものが、実は、神のご計画という壮大な舞台であり、ペテロは、その救済史の一部始終を古代ギリシャで行われた歌劇になぞらえているわけです。

こうした、オペラやアリーナでのコンサート、サッカーワールドカップを生で観た人なら理解できるかと思いますが、その内容と規模に圧倒されたでしょう。人間がこしらえた祭典すら人々に感動を与えるのですから、それらを遥かに超越した神の救済史という壮大な舞台を私たちは知っているわけです。しかも、その劇場の観客として感動を共有しているわけですから、私たちは、その救いの感動を自分のためだけに取っておくものであってはいけません。いや、取ってはおけないはずです。

私たちの感動のコンサートの場はどこでしょうか。それは、教会です。教会を整え、聖歌隊を組織し、祝福のメッセージをいただくためにも、教会員の一人ひとりは、祈り支えていく必要があります。受けるだけでは、祝福は遠のきます。一人ひとりが教会の組織に参画し、取り組む。そこに壮大な舞台としての教会の祝福が花開くことを忘れてはなりません。

古代アテネでのコンサートは、人々に多くの感動と祝福と恵みを与えるものでした。その感動を伝えるために、こぞって出資をし、コンサートの準備をしたことでしょう。しかも、その名誉にあずかるために、人々は裕福な市民が順番に負担していきました。私たちは、金銭的に裕福かどうかは別にしましても、神の壮大な恵みを受けた私たちは、古代アテネの裕福な市民と同様に教会を支えていくはずです。同時にすべての貧しい人々を救済する資格を有しているのです。

神の救済史という大舞台の感動を知った私たちは、実際には教会の後援者ではなく、また単なる観客のような受益者でもなく、教会を運営し、プロモーションしていく責任ある管理者として召されているのです。

神が栄光を受けるため



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Ⅰペテロの手紙4:11
語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。

新改訳聖書 いのちのことば社

すべてのことにおいて神が栄光をお受けになるようにと、ペテロはこの節の最後に明確に述べています。この 『すべてのこと 』とは、経済的な事がらと霊的な働きにおいて、神の栄誉が関わっていることを強調しています。

語る人と奉仕する人は分離して考えることはできません。相互が互いに関連し、両輪となって教会を支えていくのです。それには、神が豊かにコレゲオー(豊かに備えてくださる)してくれたこと、主イエスの十字架の死と復活において私たちに壮大な神のご計画という舞台を提供し、その救いの恵みに加わらせてくれた恵みが基礎になります。

その恵みを『語る人』が豊かに語り、そのみことばによって『奉仕する人』が恵まれる。恵まれた『奉仕する人』が潤され、その祝福が『語る人』を支える。その両輪がかみ合って好循環を生み出していくことが、教会の宣教の原動力なります。

ペテロが活躍した時代は、迫害が多発し、教会の働きが悪循環を迎えた時代でした。そうした危機の中にあって必要とされること。それは、『語る人』と『奉仕する人』がともに手を携え、主が与えた感動と祝福を共有するということです。その根本にあるのは、言うまでもありません。

イエスの十字架と復活が語られること。
その十字架の血潮によって信じる一人ひとりが聖められていくことに尽きるのです。それが、神が栄光を受けることです。

みなさん!福音が教会が溢れていくことを祈りましょう。ハレルヤ!