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あなたの存在は希望 Ⅰペテロ3章15節

Ⅰペテロ3章15節
むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
κύριον δὲ τὸν Χριστὸν ἁγιάσατε ἐν ταῖς καρδίαις ὑμῶν, ἕτοιμοι ἀεὶ πρὸς ἀπολογίαν παντὶ τῷ αἰτοῦντι ὑμᾶς λόγον περὶ τῆς ἐν ὑμῖν ἐλπίδος,

■ はじめに

前回は14節と15節前半を見てきました。

いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
Ⅰペテロ3:15a  むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。

Ⅰペテロ3:14 -15a
新改訳聖書 いのちのことば社

そこでは、良心に欠けた主人の存在をみていきました。奴隷や妻であるクリスチャンの善行に対して、理解するどころか却って悪をもって強いる主人がいたことをペテロは示唆しますが、そうした時の対応として、ペテロは、キリストを主としてあがめることを勧めていたということでした。
「あがめる」という言葉ハギアゾーとは、あがめるという言葉以上に、人間が本来あるべき状態に戻ること、回復することを意味します。つまり、イエスを主としてあがめることは、人間のすべての行いの前に行うものとして重要であり、あらゆる人間関係のいとなみの前に先んじることであることをペテロは教えてくれました。

今回は、イエスを主としてあがめるとどのように周囲が変わるのかを、ペテロは教えてくれます。では、見ていきましょう。

■ しがらみのなかの現実

 ペテロの読者は、主人に仕える奴隷や妻のクリスチャンでした。ともに社会的弱者であり、人とはみなされていない人々であったことを前回見てきました。

もちろん、報復なぞできやしません。主人の気まぐれで鞭打たれる、制裁を受けるということに怯える、顔色を伺いながら仕えなければならないというなかに生きていました。彼らに勧めたペテロの言葉は、イエスを信じること、あがめることということでした。ペテロが伝えたかった言葉は、たったそれだけか。それしかできないのかと思った読者もいたかも知れません。こうした件を通して信仰の無力さを痛感した人もいると思います。ペテロの書き送った手紙に力づけられるのかといいますと、落胆を覚える人もいたのではないかと思います。

 しかし、何もできない、がんじがらめの束縛のなかで、唯一できることと言えば、『心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。』ということです。何もしないよりはマシといった消去的な意味ではありません。積極的な意味で、ペテロは『心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。』と教えてくれています。
なぜ、そう言えるのでしょうか。

■ 物言えぬなかでの信仰

 当時の、こうした奴隷制における時代のなかで、自分の信仰を伝えることは非常に困難であったろうと想像できます。ペテロが生きていた時代、キリスト教徒がローマ帝国内で拡大していきました。しかし、皇帝礼拝を認めない、信じないキリスト教を邪教とし、皇帝ネロ(在位54~68年)は、「人類全体に対する罪」として多くのキリスト教徒が殺されました。つまり、ローマの庇護者たる主人たちは、キリストを信じる奴隷や妻の存在というのはもってのほかであって、到底受け入れられるべきものではありませんでした。

 こうした現実のなかで、キリスト教に理解のない主人は、奴隷や妻の信仰告白を受け入れることはできなかったでしょうし、あくまでも想像ですが、ひどいときには、鞭打ちや拷問ということも行われたかもしれません。こうした現実を見たときに、ペテロは、主人が改心するように告白しなさいとは言えなかったでしょう。『心のなかで』と勧めているのはそういう理由があったからと思われます。

人に伝えるためには、様々な手段があります。言葉による、文章による等々、言語に訴えかけることが伝える手段として多用されるものですが、こうした、虐げられた立場の人が伝えるということには、無理があります。ペテロは、そうした限界を知っていましたし、そうしたしがらみに満ちた現実のなかで、心のなかでしか信じることのできない不自由というものもありましたが、同時に、心のなかで信じることは、決して無益ではないことを次の言葉で知ることとなります。

■ なぜ説明を求めてくる人がいるのか

 15節で、ペテロは、『あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。』とあります。人に福音を伝えるには、言葉だけではありません。以前に『ことばのいらない福音』というテーマで伝えましたが、

福音を語るには、言葉だけではないことでした。その人の姿勢、態度、品位…といった非言語行動も大きな役割を果たすということでした。ペテロは、そうした、非言語行動を支えるものとして、『心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。』とする信仰がとりわけ大きな役割を果たすということを伝えています。どんな状況に置かれようとも、たとえ国がキリスト教を禁教にしようとしても、心に信じているものを、他の人は気がつくのです。

 なぜか、この人は違うと気がつくのです。キリストを信じる人に特筆される特徴として、『希望』があります。キリストを信じる人とそうでない人とを分けるものは何かといいますと、イエス・キリストにある永遠のいのちです。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ローマ 6:23
新改訳聖書 いのちのことば社

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

ヨハネによる福音書11:25
新改訳聖書 いのちのことば社

イエス・キリストが伝えたこの希望をクリスチャンは持っています。この希望によってクリスチャンは、生きている。たとえ、どんなしがらみがあろうとも、たとえ国が禁じようとも信仰に生きるものは、永遠のいのちという希望を持っているのです。この希望は使徒パウロによれば、

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ人への手紙5:5
新改訳聖書 いのちのことば社

聖霊によって私たちの心に注がれていると教えています。つまり、私たちは、希望が常に神より泉のように注がれていることが明らかです。こうした希望が注がれている事実を周囲の人は感じ取っていることを忘れてはいけません。私たちはクリスチャンらしく振る舞うといったことを意識するのではなく、主をあがめる信仰があるなら、人々は私たちのうちに主がおられることを認めるのです。

■ 弁明する用意をすること

 こうしたクリスチャンの差異に関して、人々は関心を持ちます。反発する人もあります。なぜ、反発するのかといいますと、その人が私たちに対して意識するからです。関心が否定的にとられた場合、反発や迫害を受けるのです。しかし、関心が肯定的にとられたとき、人はその人のうちに存在するものについて聞いてくるのです。

 これが、おおっぴらに伝道できない中での伝道となります。ペテロは、『だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。』と語ります。人は、かならず主をあがめ、信じるあなたに関心を持ち、なぜ、そうなのかと聞いてくるのです。その時に重要なのは、弁明する用意ということです。弁明をギリシャ語では、ἀπολογίαν(アポロギオン)と記してあります。原型はアポロギア。「理にかなった弁明」という意味です。この言葉は、古代の法廷で法的な弁明をするときに使われた言葉です。

つまり、信仰の言葉は、言葉にできないような曖昧模糊としたものではなく、人の知的、理性的にかなう言葉でもってイエス・キリストを伝えるということです。

■ 希望について

 ところで、人々は、私たちのなにを知りたいのかといいますと、『希望』についてです。信仰の姿のどこを見ているのかといいますと、どんなときであっても希望に生きている姿なのです。だからといって、希望を持って生きるようにとは言いません。何度も繰り返しますが、私たちは、希望を持つように自分を強いるものではありません。御霊の満たしによって生きるものです。それは、イエス・キリストを主としてあがめることで生み出されるものです。

"キリスト教の信仰を持つ者だけが、キリスト教の愛や「希望」を持つことができる" 確かに、"希望は常に永遠に湧き出る!"。

M. Harris, Col/Phm, 30

つまり、言い換えますとあなたの存在こそが、『希望』なのです。

 希望は苦しみの中でも持ちこたえる力となります。 実際、悔い改めた信者は、希望の現実(神の栄光)の中を歩むことができます。
それは、一時の繁栄と同様に、苦しみの中にあってもです。 聖書の希望は、人間的な楽観主義でもなければ、手に入れたいものへの願望でもありません。

 聖書の伝える希望とは、神が私たちの内に生み出される信仰に身を委ねることです(ヘブル11:1)。 たとえば、ノアは希望を持って箱舟を建造し、アブラハムは希望を持って何も知らない土地に旅立ちました。 このように、ヘブル11章に見る希望は、常に信仰からくる大胆な希望を教えてくれています。すなわち、神が約束されたことを、神のご計画に従って、御心を待つことの大切さを教えています。

さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

ヘブル人への手紙11:1
新改訳聖書 いのちのことば社

事実、ノアやアブラハムといった信仰の偉人たちを見ていきますと、私たちの希望を彼らに見ることができます。ところが、彼らを取り上げるまでもなく、信仰に歩むキリスト者は自動的に希望のうちを歩むようになります。信仰の偉人たちの一人に私たちも加えられているということです。
私たちの人生が希望となり、私たち自身が希望となるのです。希望は神とともにあって、というよりも神は希望の実体ですから、たとえ地上の失望の中にあったとしても勝利の人生を生きることができるのです。

 ペテロは、虐げられた人々に向けて、主イエス・キリストを信じることとあがめることの重要性を語ってくれました。
それは、まず、いのちの原動力になる希望を生み出すからです。自分でがんばるのではなく、主が生きる泉となって私たちの活力を与えてくれるかです。しかも、失望させられることはありません。神はかならず勝利を与えてくれるからです。

 あなたはいかがでしょうか。もう一度、心のなかで、主イエス・キリストを心のなかであがめてみてはいかがでしょうか。
結果はかならず出ます。主イエス・キリストを心のなかであがめる時、
あなたは希望の存在です。人々の中にあって、生きる希望となる存在へと変えられることを覚えて歩みだしましょう。




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