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産みの苦しみにうめく        Ⅱコリント人への手紙5:1-5

2024年4月21日 礼拝

Ⅱコリント人への手紙5:1-5

5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

タイトル画像:BeateによるPixabayからの画像


はじめに


今回のメッセージでは、使徒パウロは、地上の肉体(この幕屋)が滅びても、神から与えられる永遠の家(天からの住まい)があることを語ります。

彼は、この肉体の中にいる間は重荷を負い、苦しみを経験するが、それは肉体を脱ぎ捨てて天からの住まいを着ることを望んでいるからであると説明します。そして、そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれると述べています。神は私たちをこのことにかなう者としてくださり、その保証として聖霊を与えられていると教えてくれる箇所について見ていきたいと思います。

地上の幕屋


Ⅱコリント人への手紙5:1
私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ここで使徒パウロは、地上にある肉体を「地上の幕屋」と表現し、復活のからだを「神の下さる建物」であると語っています。

ところでパウロの示す「幕屋」とは、一体どういうものだったのでしょうか。

古代イスラエルの「幕屋」は、モーセが神の指示に従って作った移動式の礼拝所でした。これは紀元前15世紀、イスラエルの民がエジプトからの脱出後、40年間の荒野での放浪の旅の間に使用されていたものです。移動式ということですから、簡素なものを想像しがちですがそうではありません。

荒野の幕屋 1890 年のホルマン聖書の挿絵 From Wikimedia Commons, the free media repository

規模としては、普通の神社ぐらいの大きさがあるものでした。

幕屋は、神の臨在を示す場所であり、神との会見の場でした。その構造は長方形で、内部には小さな木造の至聖所が設置されていました。この至聖所には契約の箱が置かれ、モーセに授けられた十戒の石板が保管されていました。

イスラエルの民が定住地を持つようになると、幕屋は最終的にシロという地に設置されました。そして、紀元前10世紀にソロモン王がエルサレムに神殿を建てると、この神殿が幕屋の役割を引き継ぎました。ソロモンの神殿は、幕屋を大きくし、壮麗にしたものでしたが、基本的な構造は幕屋と同じでした。

ソロモンの第一神殿 Model of the First Temple, included in a Bible manual for teachers (1922)
From Wikimedia Commons, the free media repository

幕屋とは、神がイスラエルの民の中に住む場所であり、神と人間との関係を象徴するものでした。これは、神が人間の歴史と生活の中に深く関与しているという聖書の教義を反映しているものでした。

パウロは、こうした幕屋に対する理解をクリスチャンに対して当てはめました。つまり、幕屋全体を人間のからだと定義し、幕屋の内側にある至聖所は人間のたましいを示し、至聖所内部にある十戒の石板が、クリスチャンのうちに内在する聖霊を表したものとして理解していました。

ジョージ・ワシントン・フリーメーソン国立記念碑にある契約の箱のレプリカ 
Photo by Ben Schumin on December 27, 2006.
From Wikimedia Commons, the free media repository

幕屋にしても、神殿にしても、それは一時的で壊れやすい私たちの肉体を象徴しています。幕屋は燃えやすい素材でできていますし、エルサレム神殿もバビロニアによって破壊され、第二神殿が建てられてもユダヤ戦争においてAD70年にローマ軍によって徹底的に破壊されました。

そうした地上の幕屋に対して、「神からの建物」や「天にある永遠の家」は、私たちに与えられる栄光のからだであって、それは、人間の手によって作られたものではなく、永遠に続く霊的な存在を象徴していることです。

うめくからだ


Ⅱコリント人への手紙5:2
私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

パウロは、永遠のいのちと栄光のからだが与えられるということを示しながら2節へと書き進めます。

2節を読むと、まず目に入るのは『うめき』という言葉です。元の言葉はστενάζομεν(ステナゾーメン)原型はステナゾーという動詞ですが、出産の時のような苦しみからうめく状態をいいます。出産とは相当な痛みを伴うものです。

なぜ、パウロがこの節と「うめき」と第二コリント5:4での「うめき」と表現したのかといえば、一つには、人生の重荷や疲れを表す強い表現であると考えることもできます。

他方、すでにこの手紙の中で見てきた病気の重圧との関連で考えれば、そこに個人的な苦しみが前提にあったとも考えられております。

Ⅱコリント人への手紙
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

その時のパウロの状態は回復の見込みに反するような状態に陥っていました。そこで、パウロは、自分自身に信頼すること、つまり自分自身で解決策を模索することをやめるに至ります。彼は、手を組み、神に祈るほかなかったのです。こうして彼は、回復にいたったようですが、それはまさに奇跡であり、復活ともいえる驚異的な回復でした。

1章9節でパウロは『死を覚悟した』と書かれていますが、そこでアポクリマという言葉が使われています。
「医学の父」と呼ばれているヒポクラテスはアポクリマの同義語であるアポクリシスを頻繁に使用しています。アポクリシスとは、病的な分泌物や悪性の分泌物という意味に使用していることから、パウロが使ったアポクリマも同じような意味を持っていたと考えられています。この説を採用すると「致命的な病気の症状があった 」と考えられています。

こうしたことを見ていきますと、パウロには致命的な症状があり、うめき声を上げなければならない苦しみを負っていたことを念頭に記した言葉であると想像します。

自由が効かない肉体を前にして

私たちは、人生の現実を見るとき、「生病死苦」や「四苦八苦」という仏教語が思い浮かびます。これらは、生まれ、老い、病み、死など、避けられない人生の苦悩を表しています。これらの言葉は、人生が困難であり、悩みや苦しみを抱くことが避けられないという現実を示しています。私たちは、この現実を受け入れ、それが人生の一部であると認識しています。

直接的には、パウロはコリントの教会にギリシャ的な思想が入り込んできたことを念頭においてこの記事を書いたのですが、その思想とは、地上の肉体を悪とし、肉体からの脱却を願うことを求める信仰が入り込み、コリント教会にそうした信仰に染まった偽教師によって、死者の復活を否定するといった誤った教えが語られることがありました。

東洋西洋問わず、肉体がもたらす苦痛や苦悩をもとに、肉体の限界を諦める、あるいは自由になりたい、肉体がもたらす汚れから清まりたいと願うのは、古今東西変わらない人間の生まれ出る悩みでもあります。

パウロはこの2節『うめき』ということばを通して、私たちは土の器であり、弱さと苦悩を同時に抱えた存在であり、生きるということ自体が、『うめく』こととして、土の器の限界というものを示しておりますが──────それは、私たちが諦めて嘆く絶望のうめきではありません。

私たちの苦痛の意味

パウロが語っている私たちのうめき声は、一体何でしょうか。それは、4節を読むと理解できますが、地上の肉体を悪とし、肉体からの脱却して自由なたましいを獲得するというようなものではありません。

Ⅰコリント人への手紙 15:54
しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

パウロは、この朽ちていく肉体と魂は一体であり、朽ちていく肉体に朽ちることのない復活のからだを受ける希望を求めるうめきであるということです。単に肉体の苦痛や、苦悩から発せられるうめきではありません。

Ⅱコリント人への手紙5:4
確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

パウロは、私たちが経験する肉体の苦しみは、「生病死苦」としての苦悩ではなく、永遠の命をもたらす「栄光の体」を得るための「産みの苦しみ」であると述べています。私たちの目指すべきは、苦しみをもたらす肉体からの解放ではなく、再臨する主イエス・キリストを迎え入れることによって、死すべき肉体が栄光に満ちた復活の体へと変わることです。この希望は揺るぎないものであり、それを実現されるのは神であるからです。

Ⅱコリント人への手紙5:5
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

信者たちにとって、神が授けてくださった聖霊は、この希望の「保証」です。聖霊は、すでに信者たちに与えられているキリストの十字架による終末的な祝福の一部であり、また将来的に受けるであろう祝福のすべてが与えられることを保証しています。

この真理を理解し、受け入れることは非常に幸福なことです。それは、聖霊が私たちの内に住んでいて、私たちが救われていることの確かな証拠であるからです。

朽ちていく肉体を通して


なぜ肉体の苦しみを、パウロは栄光のからだに生まれ変わるための産みの苦しみであると考えたのでしょうか。

パウロは、ダマスコの途中で復活のイエス・キリストと出会ったことによって、彼の信仰と人生観が根本的に変わりました。この出来事は、彼の生涯において最も重要な瞬間の一つであり、彼が使徒として遣わされる起点になった出来事でした。

その後の宣教活動のなかで、肉体の苦しみが栄光のからだに生まれ変わるための「産みの苦しみ」であることを理解しました。同時に彼は、イエス・キリストが肉体を持つことによって私たちの救いをもたらした意味を深く理解していました。

そのイエス・キリストは33年間の生涯のなかで、神であるのに朽ちる肉体をまとい、この世界に来られました。その生涯のほとんどが肉体の持つことによる否定的な状況を経験してきました。

主イエスは、御心を行いながらも、常に否定的な状況に追い込まれ、最終的にはズタズタになりながらも十字架に架けられ、皮肉なことに肉体を持つことによる苦痛と恥辱を最大限に味わいながら死んでいきました。

肉体を持つことによる苦しみのすべてを体験することは、キリストにとって『うめき』以外の何物でもありません。しかし、そのキリストの『うめき』は、私たちの永遠のいのちをもたらし、私たちに本物の『生』を与えたのです。

その死と復活によって、私たちの罪の赦しと永遠のいのちをもたらすものであり、栄光のからだへの新たな誕生を象徴していることを知ったパウロは、自身の苦しみや試練を通じて、キリストの苦しみと栄光を共有することを理解しました。

こうして、パウロは『うめく』ことの意味を知り、それが「産みの苦しみ」であることを理解したパウロは、宣教の使命を果たしました。パウロの朽ちていく体に住んで下さる聖霊の働きによって歩んだ彼の働きは、キリスト教の成長と普及に大きく寄与することになります。

朽ちていく肉体に宿った聖霊が、彼の働きを支えたのです。これが、単にパウロの魂だけでは、その宣教は全うできなかったでしょう。朽ちていくボロボロになったパウロの肉体に働く聖霊によって聖化された魂があってその宣教が果たされたことに私たちは注目すべきです。

私たちの存在は、苦悩と試練を通じて神の栄光を見出す旅であります。時には、この肉体の限界を超えた苦痛に直面し、死をも願うほどの深い絶望に陥ることもあります。しかし、その苦悩は、イエス・キリストが十字架で受けた苦しみと同じであり、私たちが肉体を通じて神の栄光を発見するための、貴重な機会となるのです。この肉体がもたらすと信じられている負の側面を超え、キリストの苦悩に共感し、神の栄光が輝く瞬間を体験するのです。

多くの人々は苦悩から逃れたいと願いますが、パウロの歩んだ道を追い、イエス・キリストが私たちに命を与えるために受けた苦痛を分かち合うことで、私たちの信仰は深まります。この苦悩は、私たちの信仰を形作り、真価を高める「産みの苦しみ」なのです。アーメン。

日々の暮らしのなかで


内面の平和を求めていきましょう
パウロが語る「地上の幕屋」は、私たちの肉体的な存在を指し、これが滅びても永遠の家があることを示しています。私たちは、外的な状況や物質的な所有にとらわれず、内面の平和と永遠の価値を求めていこうではありませんか。

苦悩を通した成長があること
「うめき」という表現は、私たちが経験する苦悩を意味しますが、これは絶望ではなく、栄光の体への変化を望む「産みの苦しみ」です。私たちは、苦悩を通じて成長し、神の栄光に近づくことができると聖書は教えています。
今の苦悩は、明日への希望に変わることを信じていきましょう。

聖霊の導きを信じる
神が私たちに聖霊を与えたことは、永遠の命への保証です。私たちは、聖霊の導きに従い、日々の決断を下し、神の意志に沿った生き方をすることを心がけていきましょう。




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高木高正|東松山バプテスト教会 代表・伝道師
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。