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教会に巣くう闇に対して──危機の時代にあって Ⅰペテロ4章15節

Title photo by Big_Heart via Pixabay

2023年2月12日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
4:15 あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。
μὴ γάρ τις ὑμῶν πασχέτω ὡς φονεὺς ἢ κλέπτης ἢ κακοποιὸς ἢ ὡς ἀλλοτριεπίσκοπος:


はじめに


今回は、危機の時代にある教会のなかにはびこる問題について取り上げていきます。現代と古代ローマ、習慣や思想は異なるパラレルワールドともいえるような関係ですが、みことばを読んでいきますと、そうした社会や文化を超えた組織の問題が浮かび上がってきます。今回は、15節から教会にある問題を提起していきます。

教会内部の犯罪者


Ⅰペテ4:15
あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

この箇所を素直に読んでいきますと、「人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者」がクリスチャンの中にあってはならないと読みますね。ところが、クリスチャンの中にそういう人がいるでしょうか。中にはそうした犯罪を行った人がいるかもしれませんが、めったにそういう人はいないと思います。

ではなぜ、ペテロはあえてそう書いたのかと言う疑問が出てきます。

そのヒントとしてギリシャ語にありました。ギリシャ語本文を見ていきますと、日本語訳や英語の訳とは全く逆の意味になります。

あなたがたのうちのだれも、────苦しみを受けるようなことがあってはなりません。」新改訳

ギリシャ語直訳
あなたがたのうちのだれにも、────苦しみを与えないようにしなさい」と

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

ペテロが活躍した時代は教会に迫害がありましたが、4世紀には、ディオクレティアヌス帝の迫害がローマ帝国内にありました。この皇帝は、303年に最大のキリスト教迫害を行いました。自分をユピテル神になぞらえ、神としての皇帝崇拝と、伝統的なローマの神々への祭儀への参加をキリスト教徒に強要したばかりか、キリスト教の書物は焼却し、教会の財産は没収されたということです。ディオクレティアヌスのキリスト教迫害は、キリスト教徒を捕らえて円形闘技場に引き出し、ライオンに食わせるといった公開処刑だけでなく、そのころ作り始められていた使徒たちの手紙などを集めた聖書の原型となる書物を没収し焼却したことや、教会の財産を没収するなど、信仰の拠り所を無くすことを狙いとしたものでした。

ディオクレティアヌス帝頭像
Istanbul - Archaeological Museum - Statue head of the Roman emperor Diocletian (284-305 AD)

その時のカルタゴの司教メンスリウスによると、最初の改宗者の中に多くの犯罪者がいたことや、また容易に受け入れられていたと述べています。
ディオクレティアヌス帝の迫害の際に、キリスト教信仰を装って犯罪を隠蔽しようとする犯罪者の存在が教会にあったことを告発したそうです。

つまり、ローマの当局からすると、教会は犯罪者集団の巣窟であるという嫌疑がかけられていたことが想像できます。そうした嫌疑を払う必要が当時の教会の中にあったようです。
クリスチャンのすべてが善人であったのではなく、政府の追求や訴追によって迫害を自ら招くことになった犯罪者たちの存在があり、その犯罪者を暴露する必要があると考えたそうです。
司教メンスリウスは「ある者は犯罪者であり、ある者は負債者である。」「迫害を機に、重苦しい生活から逃れようとし、 それによって悪事を償い、洗い流そうと考えている。」人の存在があったことを述べています。

ペテロが活躍した時代は、ディオクレティアヌス帝の200年も前の話であるので、果たしてどうなのかという疑問も浮かび上がりますが、ペテロは、教会の中に存在した偽りの信者の存在がもたらす危険性を考えていたと思われます。

犯罪と福音

キリストの福音は当時の社会にとってきわめて衝撃的なことばであったと私は思います。イエス・キリストはマタイの福音書の中でこう語りました。

マタ 9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

このように、犯罪を犯した人にとって、罪人を救ってくださる、罪人と一緒に食事をしたイエス・キリストという存在に感謝する人もいたことは事実でした。真剣に自分の罪を悔い改め、真摯に犯罪に手を染めたことを後悔し、そこから救いの道があるということがあるということを知った人にとっては福音でありました。

しかし、一方で、信じれば救われるということを隠れ蓑とした人も存在したようです。信じるにあたって罪の悔い改めがあるべきところ、罪を悔い改めることすらなく、これはいい教えだと都合よく信じているという人もいたことでしょう。スティブスによれば、当時の社会的な状況が殺伐としたものであったという事情もあったと考えられると言いますから、教会には世間から見て後ろ指差されるような人の存在の多かったという事情もあったということです。

罪が赦されるからと言いましても、当然のことながら、クリスチャンになって『人殺し、盗人、悪を行う者、みだりに他人に干渉する者』というような罪に手を染めることは断じてあってはなりませんし、たとえ、救われる以前は、罪を犯したとはいえども、キリストを信じた後は、過去の罪から決別していかなければなりません。

悔い改めることなく開き直り、罪があってもイエスの血によって救われるから罪はこのままで良いとする生き方では決してないことです。

人はどう生きるべきか

聖書は人はどう生きるべきかという倫理について教えていますが、その倫理とは聖化と栄化を目指して生きる生き方です。
その目標は、神に似ることを目指すことです。その最終目標は御子のかたちと同じ姿に変えられることです。

ローマ書8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

ピリ 3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

御子イエス・キリストに似るためには、私たちクリスチャンは、この目標を目指してすべての生活の態度を改めていかなければなりませんし、神から求められていることです。

この箇所のみことばを読んでいきますと、自分自身の心の深い部分での闇や罪を想起させられるものですが、
同時にイエス・キリストが『”私”の罪を赦し、その罪をすべて”私自身”の身代わりとなってくださったこと』自分がいかに軽く受け止めていると告白しなければならないものです。

ピリ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

そのイエスの生涯を思う時に、地上にあって、きよく、傷なく、汚れなく生き、私たちがその歩みに従うようにとの模範を残されたことを思い、悔い改めていくことを神は求めている。私にも求められていますし、それはあなたにも求められているということです。

神に委ねる

主イエスがそうであったように、私たちのきよい生活は、神に対する献身と固く結びついている時にのみ可能となります。しかし、それは自分の意志を高めることでしょうか。それとも固く信仰を保つべきなのでしょうか。
キリストに似ることはとりもなおさず神に似ることでありますが、それは自分の力でできることではありません。

山上の説教の中で主イエスは

マタイ5:48「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

と語られましたが、私たちが神のかたちに似せて造られた被造物であるということは、神御自身に完全に似るものとなることが要求されていることにほかなりません(Ⅰヨハ3:2‐3)。

Ⅰヨハネの手紙
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社


それは、律法学者やパリサイ人の真似をして自分の意志でもって解決していくものではありません。当然のことながら、我々の意志には御霊が働きかけられますから、その内住される御霊の意志に我々の意志をフォーカスさせていくことです。御霊にフォーカスするなら、私たちの意志や行動はイエス・キリストに似た者に変わっていくのです。これは自分の力ではありません。パウロはこう言います。

Ⅱコリ 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

罪の誘惑や、自分は罪には勝てないと思う方もいるかも知れませんが、神は聖霊という神を私たちの中に与えてくださっていますから、その聖霊なるお方に委ねていくことで、私たちは神の御加護という守りのうちに保たれるということを覚えていただきたいと思います。

干渉し僭越するクリスチャン


ところで、クリスチャンにとって、注意すべきことは何かといいますと、ペテロは、自分の身分や地位をこえて出過ぎたことをすること、つまり『みだりに他人に干渉する者』になってはいけないということを言っています。

他人に干渉する者を、ἀλλοτριεπίσκοπος アロトゥリエピコポスという言葉でペテロは表現してますが、この言葉は、他人と監督という言葉を一つにしたペテロの造語であると言われてます。この意味は、信者が、他人の家庭や、社会、経済に首を突っ込んで批判したり、混乱させたりすることを意味します。

この言葉は、詮索好きで自己中心的な人々で、自分はすべてを正すことができ、出くわした人はすべて自分の支配下にあると思い込んでいる人々のことを指しています。このような人の存在は、キリスト教の信仰を持っていない人の間でキリスト教の評判を悪くし、迫害の際には真っ先に「苦しむ」対象になるということです。

つまり、わかりやすく言えば、直訳では「他人のことに首を突っ込む者」という意味ですが、わかりやすく言えば「おせっかいで、でしゃばりな人間」と言い換えることも出来ます。

ところで、おせっかいな人を想起させる観言葉として、パウロが若いやもめについて語った記事を紹介しますが、

Ⅰテモテへの手紙
5:11 若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、
5:12 初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。
5:13 そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

とあります。現代の感覚からすれば、女性蔑視といったそしりを受けかねない気もしますが、ここでパウロが言いたかったことは、人のうわさ話をして、他人を悪く言ったり、想像で物事を言って誹謗中傷をしてはいけないということです。

私たちは、具体的にその人のことを知らないのに、風貌が悪いから悪人とみなすといった誤った先入観で人を判断してしまいがちであり、そうした先入観で人を見てしまうとどうなるでしょうか。
ことに教会のなかにおいては深刻な問題が生じてきます。事実に基づかず、誤った見方で犯人に仕立て上げられる、罪がないのにあらぬ噂が立てられて教会を去る、噂を立てられた方は精神面で打撃を被るということが生じます。その結果、教会につまずくということにつながりかねません。こうしたことは私たちの間にあってはいけません。主イエスはこう言います。

ルカによる福音書 
17:2 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

御心に干渉したユダヤ人

イエス・キリストは、神であられるお方であったのにも関わらず、律法学者やパリサイ人が神になりかわり、自分たちは神の代理人として首を突っ込み、神の救いの計画に干渉し、最終的には無実の罪を着せられて十字架に架けられていくということになりました。ユダヤ人は選民としての特権を持っっていましたが、イエス・キリストを十字架に架けることで、退けられていくということにつながっていきました。

こうした教訓は何を私たちに伝えているのでしょうか。私たちが意識せずに使っている言葉、それに裏付けられた思考というものは、私たちが考えている以上に神の前に重いものです。私たちはあらためて自分の先入観や憶測といったものに対して吟味する必要があるでしょう。悪意や善意を問わず、とらわれないように心を聖霊によってクリアにしていただく必要があります。

私たちはうかつにうわさ話や先入観、憶測でもって他人のことに介入すべきではありませんし、当然のことながら事実に基づかないことには懐疑的であるべきです。クリスチャンであれば間違っても、うわさ話の中心にいるべきではありません。

噂話、陰口の前にある先入観

うわさ話や、ひそひそ話と呼ばれる密語、内緒話、陰口というのは人々の関心を持たせる、人間関係を近づける道具として闇の交流の中にあるものです。しかも陰口の誘惑には勝てないものです。しかし、こうした関係は信頼に基づいた関係ではありません。うわさ話や陰口には人間関係への疑心暗鬼を生み、組織を蝕んでいくものであることを忘れてはいけません。特にクリスチャンは、そうしたものに首を突っ込むべきではありません。主イエスはこう言いました。

マタイによる福音書
5:37 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

私たちは事実と真実と正義の中に生きるものです。愚直ではあるかもしれませんが、人のうわさ話に関心を持つのではない、私たちは光の子として闇の力から離れイエス・キリストのみ心にこそ「首を突っ込む者」であるべきであるのです。

カルト化への歯止め

W・M・ラムゼーという学者は、アロトゥリエピスコポスを「他人の家庭の問題に干渉して、関係を壊す」ことを意味していると言います。また、ロバートソンは、当時流行していた巡回説教者を指しているのではないかと推測してます。現代に置き換えてみれば、カルト教団、あるいはカルト化した教会の牧師や伝道師ということになるかもしれません。ペテロは他人の家に干渉する指導者のあり方に歯止めをかけたという説もあながち間違いではないことではないでしょうか。

教える立場にいる人にとっては、他人の家庭の問題に関わり指導することはあるかもしれません。しかし、過度に干渉することや、家族と分離や分断を強いるということは決してあってはならないことです。
ペテロの時代から、カルト化する教会のあり方に対して警鐘を鳴らしていたと考えると、教会のあり方が当時から問題をはらんでいたという事でしょう。

それは、異端の統一協会のあり方から見られるように、未信者から見て、教会が誤解を生みかねない要素が、『みだりに他人に干渉する者』アロトゥリエピスコポスにあるということを、教会は真摯に受け止めていかなければならない課題だといえましょう。