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慰められるということ Ⅱコリント1:2-6 

2023年10月15日 礼拝

Ⅱコリント
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。

2 χάρις ὑμῖν καὶ εἰρήνη ἀπὸ θεοῦ πατρὸς ἡμῶν καὶ κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ.
3 Εὐλογητὸς ὁ θεὸς καὶ πατὴρ τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ, ὁ πατὴρ τῶν οἰκτιρμῶν καὶ θεὸς πάσης παρακλήσεως,
4 ὁ παρακαλῶν ἡμᾶς ἐπὶ πάσῃ τῇ θλίψει ἡμῶν, εἰς τὸ δύνασθαι ἡμᾶς παρακαλεῖν τοὺς ἐν πάσῃ θλίψει διὰ τῆς παρακλήσεως ἧς παρακαλούμεθα αὐτοὶ ὑπὸ τοῦ θεοῦ:
5 ὅτι καθὼς περισσεύει τὰ παθήματα τοῦ Χριστοῦ εἰς ἡμᾶς, οὕτως διὰ τοῦ Χριστοῦ περισσεύει καὶ ἡ παράκλησις ἡμῶν.
6 εἴτε δὲ θλιβόμεθα, ὑπὲρ τῆς ὑμῶν παρακλήσεως καὶ σωτηρίας: εἴτε παρακαλούμεθα, ὑπὲρ τῆς ὑμῶν παρακλήσεως τῆς ἐνεργουμένης ἐν ὑπομονῇ τῶν αὐτῶν παθημάτων ὧν καὶ ἡμεῖς πάσχομεν.

タイトル画像:PexelsによるPixabayからの画像 

はじめに


使徒であるとパウロは自分を紹介しましたが、使徒であることを疑問視し、パウロは自称使徒であるとして、パウロの使徒性を認めない人々によって、彼に対する毀損が行われていました。

パウロは、自分の職務に対する弁証を目的にこの書簡を書き送ったのですが、それ以上に大切なこととして、使徒という働きがいかなるものであるのかについて説明をしたという点が重要でした。

使徒という職務は、権威にあるではなく『みこころ』であるとし、そうしたユダヤ福音を伝えるために召されたパウロという存在は、人々がイエス・キリストの福音を信じて救われるか、それとも滅びるかというメッセージを託された任務であるということを明らかにしたということが、前回のメッセージの内容でした。

今回は、使徒が何を伝えていくのかという、その中身について触れていきたいと思います。

慰めを語るパウロ


パウロは、自己紹介につづき、コリント教会のクリスチャンたちに平安と恵みがあるようにと祈ります。
次に3節において、神がほめたたえられることを語ります。
4節以降は、キリストと慰めについて語るという内容になります。

パウロは、父なる神、御子イエスという順序を踏まえた上で、書き出していることがわかります。三位一体なる神と言いましても、その秩序が大事であるということが、こうした順序においても見ることができます。

2節以降を見ていきますと、ここで取り上げられていることは、『慰め』という言葉です。2節から6節には、9回もの『慰め』という言葉が書き連ねられています。

この『慰め』という言葉ですが、悲しんでいる人や落ち込んでいる人の気持ちを落ち着かせて、いたわる言葉をかけることを意味することです。

ところが、ギリシャ語本文では、この『慰め』という言葉はどのような意味を持つのかといいますと、パラクレーシス παράκλησις という言葉です。

パラクレーシスを分解しますと、接頭辞パラは、「隣接して、近くに; から発行して; に対して、反対して」といった意味があり、その後に続くクレーシスは「呼び声、招き、立場」という意味が組み合わさった言葉です。

その意味は、呼びかけることやうながすことを言います。法廷における弁護するといったニュアンスがあります。

ですから、パラクレーシスとは、私たちが考えている『慰め』とは違うようです。

さらにパラクレーシスという言葉を詳しく見ていきますと、それを一言で表現するとすれば、「聖なる促し」という意味を持ち、主が信者に主の計画を実行するよう直接動機付け、鼓舞し、特定のメッセージを誰かに伝えることを意味するのが実際であるようです。

この言葉は通常、「神の呼びかけ(決断)」を意味し、神の勧め、戒め、警告、励ましを含み、 主は信仰を通して、聖霊の力を得た能力で、身近で個人的なメッセージを伝えるよう信者を強め働かせる言葉でもあります。

 神の勧め、戒め、警告、励ましといった意味も含まれるこのパラクレーシスは、いずれの場合も、その核心的な意味は、「神の法廷に立つ証拠を共有する」ということです。(2コリ5:10参照)

Ⅱコリ
5:10 なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

つまり、『慰め』と訳出されたパラクレーシスは、神の裁きの座に立たされた時に弁護してくれる弁護人がいるということになります。

慰めと聖霊


パラクレーシスという言葉を見ていきますと、聖霊との関係が明らかになります。さきほどの2節の紹介の中で、パウロは父と子をその秩序にしたがって恵みと平安があるようにと祈っていますが、3節以降は、パラクレーシスという言葉が9回も用いられています。このパラクレーシスは聖霊と非常に関係のあることばです。

聖霊をパラクレートス(助け主)と呼びますが、『慰め』と書かれたパラクレーシスの言葉は動詞パレクレオーがもとになっています。

パラクレートスとは、主イエスが約束された「もうひとりの助け主」はアロス・パラクレートスと書かれています。すなわち、「キリストと同じ性質を持ったもうひとりの助け主」という意味です。つまり、聖霊(真理の御霊)は最初の助け主であるイエス様と同じ力、同じご性質を持った方であるということです。

この聖霊が私たちのうちにあるゆえに、

Ⅱコリ
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。

苦しみがあっても、私たちは慰められる。いや、慰められるといった感情に訴えかけるだけのものではなく、それは、法的、つまり、私たちの不安や苦しみは解決しているばかりか、平安が保証されているという意味にまで到達するものだということです。

つまり、神の保証によって、私たちの平安が約束されている。どのような保証かと言えば、それは、永遠の御国に入ることができる約束であることです。こうした確証を得た私たちは、どんなことがあろうと怖れることはありません。

しかも、その永遠の保証は、内住する御霊によって呼びかけられているばかりか、聖書のみことばが信頼に値することばとして、聖霊を通して私たちの心に語り続けられているからです。このことは、すべての信者の一般的な特権であり、信者に与える特別な恵みです。この特別な恵みは、私たちを良き行動へと促します。

ローマ12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

神はパラクレーシス「聖なる促し」を奮い立たせるので、信者は神の力によって神の『みこころ』と訳された神の好ましい意志であるセレマを分かち合うことができます。先週紹介した、セレマと今回見ているパラクレーシスとは、聖書の中で直接結びつく言葉です。

『みこころ』と『慰め』は分離した言葉ではないということです。これらは、『信仰』(ピスティス)から生まれており、信仰は聖霊(パラクレートス)から生み出されるものだからです。

こうして、今回の箇所から、『慰め』という言葉について見てきましたが、そこには、大きな柱があることです。まずは、聖霊の弁護ととりなし、キリストによる支え、父なる神の私たちへの慈愛。こうした三位一体なる神が上からではなく、私たちの傍らに寄り添いながら語りかけ、励まし、応援していてくれる聖霊の存在という事実があるということです。

さらに私たちの感情に訴えるだけでなく、救いという基盤をもとに具体的、決定的に解決していることによって、私たちへの神の『慰め』がもたらされているということを覚えていけたら幸いです。

人々への慰め


さて、『慰め』パラクレーシスについて見てきましたが、この『慰め』は世が与える慰めとは異にするとうことが理解できたと思います。この世の慰めは、一時的なものです。問題が解決していない状態のまま、受け止める、受容するのが精一杯ですが、神が与える慰めというものは、決定的かつ、ダイナミックな回答を導き出すというところにおいて、この世の『慰め』とは異なるものです。

Ⅰペテ 4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。

ペテロ書のみことばにあるとおり、なぜ、多くの人は、遊興や酔うことに金を出すのでしょうか。また、自分の役には立たないということをわかっていながら、手を出すのかということです。

そこには、『慰め』ということが関わってきます。いかなる人にも、不安やこの世での生きづらさ、困難というものを紛らわすために、こうしたものに頼り、慰めを持とうとします。

しかし、そのいずれもが、役には立ちません。結果的には、自分の身を滅ぼすということにつながってきます。

本物の『慰め』を得るためには、5節にあるように

Ⅱコリント1:5
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

キリストを信じる信仰しかないとパウロは語ります。もし、あなたが本物の『慰め』がほしいと思うならば、イエス・キリストに向かうしかありません。しかも、その『慰め』は『あふれる』のです。
いかがでしょうか。あなた自身、本物の『慰め』を得たいと思う方がおりますなら、キリストに立ち返りましょう。その慰めは私たちを希望に変える力があります。イエス・キリストは十字架で死んでよみがえられたお方です。絶望に対する完全な慰めを与えた力を持つこの方によってのみ、私たちは平安を得、力強くこの世で生きる力を頂くものとされているのです。アーメン。