死んだ人への福音 Ⅰペテロ4章6節
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2022年7月10日 礼拝
【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテロ4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
εἰς τοῦτο γὰρ καὶ νεκροῖς εὐηγγελίσθη ἵνα κριθῶσι μὲν κατὰ ἀνθρώπους σαρκὶ ζῶσι δὲ κατὰ θεὸν πνεύματι.
| はじめに
神は、すべての人を対して死後さばきにあうことを教えていると前回語りました。クリスチャンにとって、さばきというのは、すべての罪があばかれ、という恐ろしいものではなく、イエス・キリストの救いが完成する時であるということでした。今回は、前節を引き継いでのことばになるのですが、非常に難解な箇所として知られる節です、特に、死んだ人々への福音をどう解釈するかによって福音の意味が変わってくるところになります。今回は、ペテロが教えたこの節の意味について詳しく見ていくことにしましょう。
| 死んだ人々をめぐる3つの説の違い
Ⅰペテロ4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
6節で目を惹くことばとして『死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた』という記事です。この言葉の解釈については3つの考え方があります。一体、それでは『死んだ人々』は誰なのでしょうか。
(1)霊的に死んだ人と考える説
この見解については、νεκροῖς(ネクロイス)への訳をどう考えるかということで見解が分かれます。
アウグスティヌス、エラスムス、ルターらがこの見解を取ります。
(2)すべての死者(セカンドチャンス)と考える説
福音を受け入れずに死んだ人々にも死後に第二の救いの機会が与えられていると考える説。代表的な考え方としてセカンドチャンスがあります。
ジョエル・B・グリーン(フラー神学校)、ウィリアム・バークレー(グラスゴー大学)、日本では熊澤義宣、加藤常昭、大川従道らがこの説を支持します。
(3)手紙が書かれたときにはすでに死んでいる人々とする説
ここでの、『死んだ人々』というのは、福音を聞いて信じた死者たちと解釈します。スティブス等がこの説をとります。
| それぞれの説の問題点
(1)霊的に死んだ人と考える説の問題
前節の5節をみると、『死んだ者』(νεκρούς)とあります。このネクルースの意味は下記のようになります。
6節では、νεκροῖςと活用してますが、原型はνεκρός(ネクロス)です。形容詞的にとらえるよりも、名詞として考えたほうがよいと考えられます。その理由として、5節に『生きている者』ζῶντας(ゾーンタス)の原型ζάω(ザオー)は、明らかに『生きている者』を示した語であって、それは、救われたものと解釈するには難があるからです。
こう考えていきますと、霊的に死んだ人と考える説には無理があります。ここは、『霊的に死んだ人』ではなく、『死んだ人』と捉えたほうが自然です。
(2)すべての死者(セカンドチャンス)と考える説の問題
この説ととる人々は、同じⅠペテロ3:19も同様に考える傾向があります。
Ⅰペテ 3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
要約すると、イエス・キリストは十字架にかかって死なれたあと、復活の前までに、よみに下り、死んだ霊に向かって宣教をしたというものです。これが、セカンドチャンスの証拠聖句だとします。
ところで、詳しくは私の記事の中で紹介してますが、
つまり、Ⅰペテロ3:19での『捕らわれの霊』と今回の6節での『死んだ人々』とは異質なものであり、同等と考えることには無理があります。
仮に、死後に回心の機会があるとすれば、多くの人は『死後に回心すればよい』と思ってしまうだろう」ということになります。
また、「セカンドチャンスが実際にはなかった場合、そうやって回心を延ばした人を地獄に追いやることになる」
いずれにしましても、伝道からは遠ざかる、伝道の意義が失われるということになりかねないと危惧されます。
ペテロは、今回の次の7節におきまして、こういいます。
Ⅰペテ4:7 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。
つまり、世の終わりである裁きが近いことを知って、聖く正しい生活をするように勧めているということがペテロの手紙の全体の基調でありますから、そうした文脈から見ていきますと、6節での『死んだ人々』を『すべての人』とし、『セカンドチャンス』があると考えるには無理があるのではないでしょうか。
(3)手紙が書かれたときにはすでに死んでいる人々と考えると
あらためて、6節を見ていきますと、
Ⅰペテロ4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。
スティブスは、ここで、『死んだ人々』を『手紙が書かれたときには、すでに死んでいる人々』としますとこう結論しています。
かつて、福音を聞いて、クリスチャンとなった人も、死が訪れると肉体は滅びます。しかし、肉体は滅んでも、霊は神によって生かされ続けていると解釈できます。
| まとめ
今回、この節を見ていきますと、どうしても、
死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた
という部分に目が行ってしまいます。
しかも、保守的な立場になると、救いは厳密であって、救われるか、否かというところを問われます。
では、福音を聞かなかった人は救われないのか、また、先祖は救われないのかという問題にぶつかります。
さらに、福音を聞くこともないまま死んだ人をそのまま地獄へ落とすという地獄観は、神の義に反すると考えます。
こうした考えは理解できなくはありません。むしろ、そうであってほしいと願うものですが、聖書を見渡したところ、セカンドチャンスを示す証拠聖句とされるものは、一つの例外もなく、死後の救いを主題とする文脈の中に置かれていないこと、救いという極めて重要な教理ですから、必ずセカンドチャンスの教理を提供するはずです。しかし、そうした手がかりは見いだせないことから、残念ながらセカンドチャンスという死後の回心については信憑性が疑わしいと考えざるをえません。
聖書を理解し、解釈するにあたって大事なポイントの一つとして、文脈における解釈があります。聖書のある箇所の解釈を歴史的、文法的、神学的に関連した他の箇所を照合することで解釈するということです。
今回のように解釈や見解が別れてしまう部分においては、明確な教えと調和するように解釈しなければならないということです。また同じテーマを扱う箇所において、体系的に論じている部分を優先するということです。つまり、「聖書の解釈者は聖書自身である」ということを念頭におかないと、私的解釈に陥り、聖書の御言葉の一貫性が失われないように考えていく必要があります。
今回の箇所を見ていきますと、自分の親兄弟、親族、先祖を見ます時に救われてほしいと願う気持ちが背景にあって、解釈しやすいということがあります。神は愛であるから、自分が愛する家族や先祖が救われてほしいという気持ちが出ることは人情として理解できます。
ところで、主は誰に向けて福音を語っているのかということに目を留めていただきたいのです。
それは、福音を聞くあなた自身にむかって語っているのです。
それも、この世で生きている間にです。
あなたは、自分の救いを後回しにしてはいないでしょうか。
家族のため、先祖のため、さまざまな理由によって、差し控えてはいないでしょうか。
聖書は信じるとき、信じる対象を限定しています。
それは、今、生きているときであって、それもあなた自身です。
今主イエス・キリストがあなたを救いに招いておられるのです。
その招きに応じてみませんか。
聖書はこう言っています。
Ⅱコリ 6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
ロマ 7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか──私は律法を知っている人々に言っているのです。──
みことばを聞いて、主の招きに応えるのは今です。
今日、イエス・キリストを自分の救い主として信じてください。
イエス・キリストを信じてみたいという方がおりましたら、
次のようにお祈りください。
“父なる神様、私は神様から遠ざかり、罪を犯していました。今までの罪深い生活から離れてあなたに従います。どうぞ私を お赦しください。また、あなたの御子イエス・キリストが私の罪のために死んで下さったことを信じます。主イエス・キリストが死からよみがえられ、今こうして、私の罪を負い、赦してくださったことを信じます。
今、イエスが私の人生の主となられ、今から常に私の心を支配して下さるように信じます。そしてこれからの私の人生をあなたの御心を行い歩むことができますように、イエスの御名によってお祈りします。アーメン”