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ペテロ第一の手紙 2章24節-後編      義のために生きるために

新改訳 Ⅰペテロ2:24
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

ὃς τὰς ἁμαρτίας ἡμῶν αὐτὸς ἀνήνεγκεν ἐν τῷ σώματι αὐτοῦ ἐπὶ τὸ ξύλον, ἵνα ταῖς ἁμαρτίαις ἀπογενόμενοι τῇ δικαιοσύνῃ ζήσωμεν: οὗ τῷ μώλωπι ἰάθητε.

はじめに

自分の力で解決する、努力するということは大事なことです。自助という言葉が盛んに言われましたが、基本的に自分の力でなんとかしようと考えるのは普通の大人であればだれでもが心がけることでしょう。

ところが、自分ではどうにもならないこともあります。今日は自分ではどうにもならないこと、その筆頭は罪です。先週は、主イエスが、十字架を負ったのではなく、私たちのために運んだということを中心に語りました。今日は、後半部分の ἁμαρτίαις ἀπογενόμενοι (私たちが罪を離れ)について取り上げていきます。

自分の意志で罪から離れること

24節の後半を見ていきますと『私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。』とあります。ここも気をつけないと、私たちは律法主義的な発想でもって聖書を読んでしまう危険性があります。

律法主義というのは簡単に言ってしまえば、ルールを守れば、正しいという思考です。日本人には、よく身についた考え方であると思います。規律や社会規範を守ることは正しいと思います。多くの日本人も同意していることでしょう。ところが、他者が規律や社会規範を守れないとすればどうでしょうか。決して許そうとしない気持ちが沸き起こるのが私たちの姿なのではないでしょうか。

 ところで、日本が生きづらいと感じる人が多い聞きます。そうした理由の一つに挙げられるのは、ルールを守らない人に対して極めて厳しい対応を取らされることにあります。愛が中心とされる教会のなかであっても、こうしたものの見方のために、偏狭で居心地が悪いというのは、こうした見方が強いということがあるかと思います。~ねばならないという見方があまりにも強く、そこからはみ出てしまうことに怯える、嫌気がさすということが教会にもあるのではないでしょうか。

 さて、今日読む箇所で『私たちが罪を離れ』とありますが、律法主義的に読んでしまうと、私たちは罪から離れなければならない。とつい読み込んでしまうのです。罪から離れなければ、義のために生きられないと解釈してしまうでしょう。

 ところで、もともと、罪とはハマルティアです。的外れ。という意味でした。神が認める正しさから外れているということです。そこから離れる事ができるのは、自分の意志ではありません。罪を離れ、神が認める正しさ δικαιοσύνῃ /ディカイオスネ、「義」に入るというのは、イエス・キリストを救い主であり主であると受け入れることから始まります。イエス・キリストを自分の神とし、救い主と信じることができるならば、私たちは、罪から離れることができるということです。

 ところが、律法主義というのは、神なしに正しいことを行うとする意志です。多くの人は、神なし(世間体)で正しいことをしようとするあまりに、罪を犯した人を裁く、認めないということになります。正しいことを行っているから、義と認められるのではありません。正しいことを行うという裏には、自分は正しいことを行っているという自己義認という罪があることを忘れてはいけません。ヨハネによる福音書8章2節~9節を見ますと、姦淫した女についてどう罰するのかをイエスに試した記事が出てきます。

ヨハネによる福音書8章2-9節
そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

 正しいことを行おうとする心がけは良いことであります。しかし、それが、他者に向けられた時、それは刃に変わります。正しくしていないということで、認めないばかりか、共同体の中から排除する、死んで当然という感情が沸き起こるのは、この当時のユダヤ人だけのものではありません。現代も同じ病理でもって世界にはびこっていると言わざるを得ません。

罪から離れられるのは恵み

 自分の意志でもって、罪から離れる功罪について見ていきましたが、他の人を裁かず、自分が罪から離れるにはどうしたらよいかということになります。自分の意志でもって正しいことを行おうと心がけると、それができない他者に対して強烈な反応で裁く傾向があります。心理学的には代償行動というようですが、自分で正しさを追求すると、自分の正しさ故に他者に反動が向かうという心理的な側面が働きます。ですから、罪は一向に解消には向かわないのです。聖書は、見事にこの人間の心理的な側面を『罪人』という言葉によって表していますが、私たちは、自分の力では、罪から離れることはできませんし、罪を一掃したと思う時、その罪は他者や他のものに置き換えるという誤解をしているものです。つまり的外れ(ハマルティア)になるということです。

 そうした人間の罪のパラドクスを解決するために、神は御子イエス・キリストを地上に遣わし、イエス・キリストが私たちの罪を解消するためにイエス・キリストを十字架という犠牲にしたというプログラムを用意してくれたのです。24節に『キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』とありますが、イエス・キリストが私たちの代償行動のためにイエス・キリストが鞭打たれ、死んでくださったという犠牲を用意してくれたからこそ、私たちの罪が癒やされるわけです。

 私たちの罪が赦されるためには、一人の完全な人の犠牲が必要ということです。なんと莫大な犠牲だったのだろうと改めて驚きますが、裏を返せば、私たちの罪というのは、とてつもない莫大な金を積んでも神の義には到達し得ないということを示しています。そう考えると、限りなく私たちの罪は重いということに気がつくのではないでしょうか。ヨハネの福音書8章でイエスがこう語りますが、

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

一体誰が、姦淫した女に向かって石を投げられるのでしょうか。誰も投げることはできないのでしょう。年長者からそこを退いたとありますが、齢を重ねるごとに罪を重ねるものですから、自覚ある者はそこを退ぞかざるを得なかったと想像します。そこでは、イエス・キリストは言いませんでしたが、言外には、『女ではなく、私に石を投げなさい。』ということではなかったのではないかと思います。結果的に十字架による死ということで、イエス・キリストは私たちの罪の的(まと)になってくれたわけです。

 神は、私たちの罪を根本的に癒やしたいならば、イエス・キリストという的に私たちの矢を向けろということです。このメッセージを与えたのが、福音の言葉ということになります。私たちが福音の言葉に耳を傾け、私たちの全生涯を委ねることができるならば(信じるということ)ができれば、私たちは罪から解放されるのです。

あらためて言いますが、これは、私たちの意志から出たことではありません。罪から解放され、自己義認の罪から自由にされる、人のせいにしないということになるのは、キリストが私たちの全責任を身代わりになって運んでくださる(アナフェロー)からです。私たちは、自分の力でなんとかしようとしていませんか、キリストは私たちのすべての問題や罪の責任を負ってくださいます。私たちの力は極めて限定的です。神は限られた力の中にある私たちの力となってくださるのです。基本的に私たちは委ねることができない性分にあります。その性分を神に委ねた時、解決の道が開かれます。自分で問題や罪を運ぶのではない、神は問題や罪の解決の道を教え、『義のため』(δικαιοσύνῃ /ディカイオスネ 義ー神の承認)に生きるように信じる者を変えてくださっているのです。

そのことをあなたは信じていますか。今ある重荷(問題・罪)を主のもとに下ろしましょう。主は、その重荷をともに負ってくださいます。

Translation 聖書対訳


NASV
and He HimselfI bore our sins in His body on the cross, so that we might die to sin and live to righteousnessI; for by His wounds you wereI healed.

そして、彼自身が私たちの罪を十字架上の彼の体に負わせたので、私たちは罪のために死に、正義のために生きました。 彼の傷によってあなたは私が癒されたからです。

KJV
Who his own self bare our sins in his own body on the tree, that we, being dead to sins, should live unto righteousness : by whose stripes ye were healed.

自分自身が木の上の自分の体に私たちの罪を負わせたのは誰ですか、
私たち、罪のために死んでいること、義に生きるべきである:
あなたがたはその鞭打ちの傷によって癒された。

TEV
Christ himself carried our sins in his body to the cross, so that we might die to sin and live for righteousness. It is by his wounds that you have been healed.
私たちが罪のために死んで義のために生きるために、キリストご自身が私たちの罪を彼の体の中で十字架に運ばれました。 あなたが癒されたのは彼の傷によるものです。

Lexicon レキシコン

ἵνα,c \{hin'-ah}
1) that, in order that, so that

ἀπογενόμενοι ἀπογίνομαι
Tense A Voice M Mood P Case N Number P Gender M
1)離れるには、削除する2)離れている、人生を離れる、死ぬ

δικαιοσύνη n \{dik-ah-yos-oo'-nay} 
Case D Number S Gender F1)広い意味で:彼が本来あるべき状態、正義、神に受け入れられる状態1a)人が神の承認された状態に到達する方法に関する教義1b)誠実さ、美徳、純粋さ 人生、正しさ、思考感覚の正しさ、そして行動2)より狭い意味で、正義またはそれぞれに彼の正当性を与える美徳

ζήσωμεν ζάω、v \ {dzah'-o}
Person 1 Tense A Voice A Mood S Number P
1)生き、呼吸し、生きている(死んでいない、死んでいない)中にいる2)現実の生活を楽しむ2a)本当の人生を持ち、名前にふさわしい2b)神の国で活動し、祝福され、終わりがない3) 3a)死すべき者または性格の生き方と行動の仕方で生きる、すなわち人生を渡す4)生きている水、それ自体に生命力を持ち、魂に同じことを及ぼす5)メタフ。 5a)新鮮で、強く、効率的である、5b)形容詞として。 アクティブ、パワフル、効果的

μώλωπι μώλωψ、n \ {mo'-lopes}
Case D Number S Gender M
1)血で滴る打撲傷、傷、傷、鞭打ちの傷

ἰάθητε ἰάομαι、v \ {ee-ah'-om-ahee}
Person 2 Tense A Voice P Mood I Number P
1)治癒し、癒し、2)全体を作り、2a)誤りや罪から解放し、(自分の)救いをもたらす

画像:Gerd AltmannによるPixabay