芸能界での心の親父・鳥羽一郎から学んだこと

どうも。今は日本クラウンというレコード会社で、主に純烈・西田あい・中澤卓也のアーティスト担当として仕事をしているのですが、これまで見てきたもの感じたこと経験したことを綴るという、こんなこともやっていこうかなぁと。裏方ならではのお話もできると思いますので。ゆくゆくは独自目線のライブレポートなんかも書いてみたいし。

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さて、実は私、鳥羽一郎さんの現場マネージャーを3年半務めたことがありまして。4月に新卒で入社して1年足らずの年明け1月に出向という形で。後から聞くには、前の現場マネージャーが辞めてしばらく空席のままでいて、色々面接したけどいいのがいないから、あいつくれ、となったと。

当時は、怖い顔したおじさん、くらいしか思ってなくて、不安だらけだったけど、いざ関わってみると、中身はマジで、とてもいい人だった。顔は怖いけど。よく仕事先で「今日鳥羽さん機嫌悪い?」って聞かれてたけど、機嫌悪そうな顔が通常の顔です、って返してた。新横浜から名古屋まで新幹線で2人で乗ってる間、一言も喋らないとか、別に珍しくもなかった。基本的に大御所の割に1人で何でもできちゃうというか、空港の中とか駅の中とか放置なの。大御所ってイメージではさ、ひと時も欠かさず側にスタッフがいて、みたいなのあるじゃん。空港とかでも、1人で入って勝手に1人でお茶買ったりサンドイッチ食ったりしてた。新幹線ではね、弁当と一緒にネットに入った味付け卵、よく食ってたなぁ。

それとね、弟の山川豊さんと本当に仲良しお互いが兄弟想いなの。コンサート終わって帰る時に、イベンターさんに「豊もよろしくな」って言うと、「豊さんが来た時に、兄貴もよろしくね、って言って帰ったよ」って聞いた。番組とかコンサートで仕事が一緒になると、どちらともなく、どっちかの楽屋に2人でいたりすることが多かったなぁ。見た目は似てない部分も多くて、日本酒とシャンパンみたいな2人だけど、咳払いの音、タンが絡んだときの音が同じ。直立不動ができなくて、2人とも左右に揺れてるの。変な所が似てる。豊さんはにこやかに挨拶返してくれるし、始めましての時に両手を出して握手してくれたことを覚えてる。雑談もいっぱいしてくれるし、わかりやすく優しい人。
鳥羽さんは逆にね、あの怖い顔で酔っぱらった時にチョロっと出る褒め言葉の破壊力は凄かった。他の人に、自分のことを褒める内容の話をしてくれてたり。あいつが頑張ってくれてるから俺はステージに集中できるって言ってたよって又聞きのあの一言で、どれだけ頑張ろうと思えたか。船村徹先生の付き人を住み込みでしてきて、スタッフの都合とか気持ちとかわかってるからなんだろうねぇ。当然、鳥羽さんの付き人時代は、自分の頃とは比べものにならないくらい過酷だったはずだけど。

思い遣りとか気遣いの投げかけ方が男くさかったなぁ。音楽番組の収録で地方の会館とかだと、大部屋をパーテーションで個室に仕切るパターンの時がよくあるの。隣の楽屋と上の部分が空いてて繋がってて、声が丸聞こえのことがよくあるんだけど、ある日その隣の楽屋が後輩歌手(男)だったとき、マネージャーに怒られている声が聞こえてたの。内容は、たぶん本人は言い返したいようなことだったと思う。そしたらマネージャーが退出した後に、上の隙間から鳥羽さんがメモ帳みたいなのに電話番号とメールアドレスを書いた紙を差し出して「おい○○!今度飯でも行こうや!」って言ったの。これって、慰めの言葉より何より響くよなぁって思った。優しい言葉を投げかけるより、鳥羽さんらしい慰め方だなぁと。怒ったマネージャーのことも否定していないしね。あとね、あれは秋田だったなぁ。寿司屋に入った時、鳥羽一郎だって大将が気付いて暖簾を下げて貸し切り状態にしてくれたの。そしたら、普段大人数で飲むより少人数を好む鳥羽さんが「おい、スタッフとバンドメンバー全員呼べ」って言うの。その時は、珍しいなぁと思っただけなんだけど、翌日他の人から「それはな、店を閉めたら他の客が来ないから売り上げが自分たちの分しかないだろ。だから人数を増やしてその分お店にお金を払うために呼んだんだよ」って聞いて、あ〜、大人の粋な計らいというか、気持ちには気持ちで返すやり方、カッコいいなぁって思った。

当然仕事でも、当時は毎年紅白にも出てたし、普通は新卒1年目の小僧が生で見られない景色を見せてもらえたし、沢山の貴重な経験をさせてもらった。その時に可愛がってもらっていた山川豊さんはもちろん、山本譲二さん、香西かおりさん、宇崎竜童さん、吉幾三さんとか、沢山の人に今でも声をかけてもらえる。ついこないだも収録の空き時間に山本譲二さんの楽屋で2人でずっと将棋をさせてもらってた。


それにしても、せっかちな人だったなぁ。まぁ、自分もそこそこせっかちな性格なのでよかったけど。最近は歳を重ねてかなり落ち着いたけど、当時はね、浴槽のお湯が10センチにも満たないくらいしか溜まってないのに入ったり、喫茶店に入って1分くらいしても店員さんが来ないと店を出ちゃったり、飛行機で預けた荷物が出てくるのを待てなくて1人で先に行っちゃったり、メイクを落とすのはおしぼりで拭くだけだったり、お酒を飲んでて合間にトイレに行く時、便器の前にたどり着く前にはあれがすでに露出していて、立ち止まると同時に放出されてた。

かつての漁師時代の昔話とかを含めて、言えない話とかたくさん聞かせてくれたし。2人で飯を食ってる時は、聞いたらそんな話もしてくれた。今でも心の親父と思ってる。そんな鳥羽さんから学んだこと、鳥羽さんのそばに居ることができたから得たもの、その立場にいたからこそ感じることができたこと、会えた人、見えたもの。弟弟子にあたる走祐介さんが内弟子からデビューするまでの一連を走さんを通じて、歌手になろうとする人がどんな気持ちでどんな考えをして、どんな覚悟で過ごしているかを近い所で見させてもらえたのも、歌手に対する心の成長に繋がったと思う。

それぞれ歌手になるきっかけとか経緯とか違うから一概には言えないけど、当時の船村先生の付き人をしていた走裕介さんと村木弾さんの姿を見られたことで、無名でも第一線で必死で歌手として活動している人、具体的に頑張っている人へのリスペクトの気持ちに繋がったと思っている。

SNSを機械的じゃなくて、熱量のあるものとして発信しようとしたのも、もしかしたらこの頃に芽生えた感情が根底にあるのかもしれないなぁ。知らんけど♪