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立ち止まり、振り返ること-瞬間の価値観たちと向き合う- #自分にとって大切なこと

 昔から気が向いた時に日記を書いている。正直にいうと毎日ではないので「日記」という言葉が正しいか自信はないが、もう10年くらい日記を書き溜めている。

うちに秘めた、内面の事情をたくさん書いているので、本音を言うと人に見られたくない。けれど、さらに本音を言うと「そんな自分を知ってほしい」という気持ちもある。この気持ち同士が対立し、どうやって日記を書こうか葛藤したのを今でも覚えている。

最終的にブログに書くのは気が引けると思い、悩んだ末の妥協点としてmixiに今でも日記を書いている。私の読み通り、この日記を読んでいる人はもはや誰もいないのだが、たまにつく友人からの足跡を見て、ああまだmixiやっているんだなという仲間意識を密かに感じるのが好きだ。

この前、ふと10年間の日記を読み返してみた。すると面白いことに、文体が歳をとるごとに変わっていることに気づく。2010年の浪人時代に書いた日記には、「(><)」みたいな顔文字を多用していたり、ガラケーからiPhoneに変えた当時は「😅」とか「💦」という絵文字を多用していたりする。今や「おっさん絵文字」と揶揄される種類であるが、揶揄していた側の自分もたくさん使っていたんだなとしみじみする。

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文字の量も、今では2000文字くらいを平均して書いているが、当初書き始めた時はせいぜい300文字〜500文字くらい。でも、大学2〜3年くらいから、多分ゼミが始まったくらいの時期だろうけど、分量と使う単語が変化していることに気づいた。見返すと同じ人が書いたのか、と我ながら思うくらいであった。

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自分でも気づかないうちに、経験や思い出とともにボキャブラリーや表現も積み重なって変化していることに気づく。自分の中では、「自分は自分」と、根幹の部分は変化していないと思っていたが、文章に残していくと、振り返った時に自分自身が大きく変化していることに気づく。

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2011年くらいの日記を見返すと、「国連職員になりたい」と書いてあった。フィリピンに渡航してスラム街をみたことをきっかけに、英語を極め、大学院留学して開発学を学び、国連職員になって世界の貧困を解決したい。と書いてあった。

職業以外にも、ベースを弾けるようになりたい、日本一周したい、世界の国々を旅したい、などといった言葉も書いてあった。面白いもので、毎年毎年目標を書いており、その情熱をしっかりと書き記していたのである。

だけど、これらの夢達は、10年たったあとも実現されていない。その瞬間は興味があったものの、別の経験を積んだり、人との出会いであったりした結果、そういった選択とは無縁の「イベントプロデューサー」という仕事についている。

この気持ちの移り変わりはなんだろう。なんで自分は今国連職員になっていないのだろう。

多分、その瞬間はとてつもなく興味があったと思う。本気で国連職員を目指して英語も勉強したし、開発学の本も読み漁った。多文化共生社会に関心があり、マレーシアなどたくさんの人種が1つの国に住む国を訪問し、インターンをしたこともあった。

でも、今は全く違う仕事をしている。

結論からいうと、今の選択肢に全くの後悔はない。仕事は前向きに楽しめているし、やりたいと思ったことは仕事以外の時間に実現している。

ただ、時間が過ぎていく中で価値観はしっかり変わるのだなとしみじみ思う。時間が経つごとに少しずつ、価値観は変わっていく。いろんな経験をする中で、自分でも気づかないレベルで変わっていく。本当に同じ自分なのか、と思うほどである。

そうなるときっと、今思っていることも、同じ条件下で将来できるとは限らないかもしれない。たくさん時間があった大学時代とは異なる社会人生活の中では、できることは限られている。

であれば、今考えているやりたいことは、今の環境・条件だからこそ考えうる、今の自分のとって一番興味のある出来事なのかもしれない。人生という長いスパンでみた時には、きっと瞬間レベルの、今しかできないほんの一瞬の気持ちなのだろう。

そう思った時に、今の興味関心ごとにいかに向き合い、情熱を注ぐのか。きっと価値観は変わる。価値観が変わること自体は、ネガティブなことではない。ただ、自分の中で消えゆく価値観もあるということを、日記を読んで思い出した。

国連に行きたい。こうした「過去の興味関心」に、当時向き合っていたらどうなっていたのだろうか。悲観的ではなく、可能性を考えると少しワクワクする。全ての事柄が地続きで続いていくほど、人生は綺麗なものではない。でも、振り返った時に、関心を持ったきっかけだったり、変化して今にいたるきっかけを考えることが楽しい。

過去から現在にかけての価値観の変化にどう向き合うか。やりたいこと、関心ごとは、まるで焚き火のようだと思う。アイデア、やる気という薪をくべ、行動という火をつける。そして、心の中に炎が灯る。

けれど、時間が立つにつれて 炎はどんどん小さくなっていく。新たに薪を足さなければならないが、そうしない限り燃え尽きてしまう。

この灰が白く残る。この燃えかすとなった灰に対して、どう向き合うのか。私は、ああ、消えてしまった、という虚しさを感じるよりも、その跡を見て、確かに燃えた瞬間はあったこと。そして、薪をくべられなかった理由を大切にしたい。

そして、その灰を捨てるのではなく、新たな薪を育てる肥料にしたい。大事なのは、その価値観があったことを認めること。そして、変化を楽しむことなのではないかと思う。

そんなことを考えながら、これからも引き続きだれもログインしていないmixiに日記を書いていく。数年後の自分がこれを読んで、変わらないなと思うのか、変わったなと思うのか。未来の自分がどう思うか、今からとても興味深い。

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