見出し画像

深津十一『私のシロちゃん』

拝啓
 F様、初めてお手紙を差し上げます。私はM市在住の一読者で後藤昭一と申します。
 過日、文芸季報の秋号に掲載されていた読み切り短編「私のシロちゃん」を拝読し、深い感銘を受けました。その思いをお伝えしたく、慣れない筆をとった次第であります。
 主人公の老女は最後まで名前が出されないままでしたが、読み進めるうちに我が家のご近所にお住まいの小森裕子さんという女性が頭に浮かび、気がつけば「老女」と書かれている箇所を「裕子さん」と心の中で読み替えておりました。ご近所の裕子さんは主人公の老女と同じく七十代半ばで、長男夫婦との関係があまりうまくいっていないという点も同じでした。それ以外にも主人公の老女と裕子さんの境遇には重なる部分が多くあり、御作を裕子さんの物語として読まずにはおられませんでした。
 さてここからは拙い感想です。小説の冒頭で、「膝の上でおとなしく頭を撫でられているシロちゃんは、いつもぴんと耳を立てています」とあり、私は子どもの頃に飼っていたチヨという名の白い雌猫を思い浮かべながら読んでおりました。しかしながらさらに読み進めると、「シロちゃんのくるりと巻いた尾が」「散歩に連れていってやれない」「どんなときでも吠えることはありません」と書かれており、そこでようやくシロちゃんは猫ではなく犬であることに気がつきました。
 それにしても紛らわしい。犬であるなら最初にそう書けば良いのではなかろうか。どこをどう読んでもシロちゃんの毛並みの感触や抱き心地、大きさ、重さしかわからない。なぜか外見に関することが一切書かれていない。いや、引っかかるのはそれだけではない。そもそもいくらおとなしいとはいえ、ほとんど一日中老女の膝の上で過ごす犬などいるだろうか。
 などと再び首をひねりだしたあたりで、シロちゃんが本物の犬ではなく、犬のぬいぐるみであることが明かされました。
 正直に申しますと、このとき私は少し腹を立てていました。このFという作家は、こんなまわりくどいやり方で読者をだましてなにが楽しいのだろうか、と。
(失礼な書き方になってしまいましたことをお許しください)
 たまたま近くにいた高校生の孫にそのことを話しますと、ああこのFさんはミステリー作家だからねと当たり前のように受け流されました。孫が言うには、ミステリー小説というものは、だまされることを楽しむために読むものなのだそうです。私は、ミステリー小説とは殺人事件の犯人当てをする小説のことだと思っておりましたので、裕子さんの日常が淡々と綴られる「私のシロちゃん」がミステリー小説だとは考えもしませんでした。でも孫の言うように、だまされたくて読むのがミステリー小説というのであれば、「私のシロちゃん」という題名にも大きな意味があったということが、今ならよくわかります。
 そして読者をだます仕掛けはこれで終わりではなかったのです。本当の驚きは最後に準備されておりました。いや、見事にだまされました。最後の一行を読んだ直後はなんのことだかよくわからなかったのですが、少し時間をおいてその意味が理解できたとたんに、これまでに見えていた世界がすべて反転し、あちらこちらで引っかかっていた違和感の正体がすべて明らかになり、なるほどそういうことだったのかと深い納得が得られました。それと同時になんとも複雑な読後感がやってまいりました。
 その余韻に、私は文学を感じた次第です。
 感想は以上となります。
 読み違いや勘違いをしているかもしれませんが、できるだけ言葉を飾らずに、思うままを書かせていただきました。
 F様におかれましてはますますの活躍を願っております。

                                敬具
                             後藤昭一拝

* * *

   後藤 昭一様

 お手紙ありがとうございます。
 いただいた感想の中あった「その余韻に、私は文学を感じた次第です」の一文がとてもうれしくて、この部分だけでも十回以上読み返してしまいました。「私のシロちゃん」を書いて良かったとしみじみ思った次第です。もし後藤様からお手紙をいただかなければ、このような感想を持っていただいた方がおられたことを知らないままでいるところでした。感想の内容もさることながら、それを手紙にしたためて送って下さったことに深く感謝いたします。
 以下、蛇足となりますが、いくつかお伝えしたいことを書かせていただきます。しばしお付き合いいただければ幸いです。
 後藤様のお手紙にありますように、冒頭部分ではシロちゃんを猫だと思わせるような書きぶりとしています。さらにはシロちゃんが犬だと判明した後も、ぬいぐるみの犬であることをしばらく伏せています。これは後藤様のお孫さんも触れておられたように、読者をだます(誤読を誘う)という狙いがあってのことでした。ですがこの狙いは、あくまでも手段であって、だますこと自体が目的ではなかったのです。
 今作が純粋なミステリー小説であれば、読者の方には「ああ、だまされた」「まんまとやられた」と思っていただければ一定の目的を達したことになります。しかしながら「私のシロちゃん」は、いわゆるミステリー小説ではありません。「読者をだます」というミステリー的な手法を使った純文学――のつもりで書いた小説です。
 これは私の持論なのですが、およそ小説というものには、必ず謎があり、それが先へ先へと読者を誘う牽引力の源となっています。「この登場人物は何者なのか」「なぜこんな行動をとるのか」「誰がやったのか」「過去には何があったのか」「今何が起きているのか」「どうすればこんなことができるのか」等々の要素を一つも含まない小説などあるでしょうか。「味方だと思っていたのに敵だった」「嫌なやつだと思っていたが良いやつだった」「嫌われていると思っていたが本当は慕われていた」「Aだと思っていたことが実はBだった」といっただまし要素の展開もしかりです。つまり、謎やだましの要素があるものをミステリーとするならば、すべての小説はミステリーであると言っても過言ではないのです!
 申しわけありません。少し力が入りすぎました。
 世間的には、私はミステリー作家として認知されており、私自身もその自覚を持って小説を書いています。そんな私に、純文学系の文芸誌である文芸季報さんが、短編を一つ書いてみませんかと声をかけて下さったのです。あの文芸季報に私の小説が掲載されるのです。ならばきっちりと「文学した」小説を書いてやろうではないかと気合いも入るわけです。ですが、ミステリー作家である私に求められているのは、ありきたりな純文学ではないはずです。私が書くべきは「ミステリー作家が本気で純文学に挑戦したらこうなった」的な小説でしょう。たとえるなら「フレンチのシェフが本気で取り組んだ和食がこれだ!」といった感じ、といえば伝わるでしょうか。
 文芸季報が発売となり、「私のシロちゃん」はどのように読まれたのだろうかと気をもんでいるところに一通の手紙が届きました。手紙の最後に見つけた「その余韻に、私は文学を感じた次第です」の一文に、ああ、この方には伝わっている。書いて良かった――と、なったわけであります。
 やはり蛇足でした。いや実にお恥ずかしい限りです。
 これ以上恥をさらさぬよう、このあたりで退散いたします。お孫さんによろしくとお伝えください。
                             F拝

* * *

 拝啓
 F様、ご丁寧な返信をいただきありがとうございます。私の拙い感想がF様のお仕事に少しでもお役に立てたのであれば幸いであります。
 ミステリー小説といえば殺人事件の犯人当てというイメージしか持っていなかったのですが、F様からのお手紙を読み、「謎」がミステリー小説の肝であることを得心いたしました。さらには日常生活の中でふと感じるような疑問でさえ、ミステリー作家の手にかかれば立派な「謎」になるということを知り、これまであまり縁のなかったミステリー小説に俄然興味が湧いた次第であります。
 高校生の孫に、F様のミステリー小説を読むなら最初は何が良いだろうかと尋ねたところ、「へっぽこ探偵vs擬態人間」を強く勧めてきました。さっそく駅前の書店に出向き、店頭にはなかったため取り寄せを依頼し、三日前に到着。それから丸二日をかけて昨日読み終えました。
 コミカルなタイトルからは想像もつかない重厚な内容でした。擬態という現象(?)にこのような意味があったとは知らず、これまで気にも留めていなかった身の回りのあれこれについて、あらためて考えるきっかけとなりました。くわしい感想はまた後日、別便にて送らせていただきます。
 それにしましても、F様の頭の中はどのような仕組みになっているのかと、感心するやら呆れるやら。ちょっと頼りない探偵の藤松君は、一見ぼんやりしているようではありますが、普通の人が気づかない些細なことに疑問を持ち、そこから事件の真相にまでたどり着くのですからたいしたものです。そんな藤松君の活躍を思いつかれるるF先生は、現実の事件もたちどころに解明してしまうのではないかと愚考いたしました。
 ここであらためましてF様にご相談があります。
 数日前のことになるのですが、裕子さんが大切に育てているプランターの花が枯れてしまうという出来事がありました。裕子さんの話によれば、その花はパンジーだったそうで、プランターいっぱいに咲きそろった直後、急に萎れだして、最後には全部が茶色くなり枯れてしまったのだそうです。
 花も生き物なのだから枯れることもあるだろう。私はさほど深刻にはとらえずにいたのですが、どうやら誰かが花に小便をかけていたらしいと聞き、なんとひどいことをするやつがいるものよと血圧が一気に上がってしまいました。裕子さんには警察に相談してはどうかと提案しましたが、そんなに大げさなことではありませんからとおっしゃいます。
 ですが裕子さんにとってプランターの花は、老女のかわいがっていたシロちゃんと同じくらい大切な存在なのであります。そのことをよく知っているだけに、私は小便をかけた犯人をつきとめて裕子さんに謝罪させたいのです。ですが私には何からどう手をつけて良いものやら見当がつきません。
 そこでF様にご助言をいただきたいのです。
 立ち小便犯を突き止めるために私にできることは何かありませんでしょうか。もちろん、小説の中の事件を解決することとはまったくの別物であることは重々承知しております。私自身、藤松君のような行動力も持ち合わせておりませんし、助っ人のシンちゃんもいません。ただ、このまま何もせずにいるのはどうにも落ちつかないのです。何かをやってみて、それで駄目ならあきらめます。でもその何かが何なのかがわかりません。
 どうかアドバイスを賜りますようよろしくお願いいたします。

                                敬具
                             後藤昭一拝

* * *

   後藤 昭一様

 お手紙ありがとうございます。
 先の返信では、小説における「謎」の役割について熱く語りすぎてしまい、呆れられてしまったのではないかと心配しておりました。ですが後藤様にほどよく受け止めていただき、私の言いたかったことが伝わったようで安心いたしました。
 さて、ここからは後藤様からのご依頼の件です。
 まずはとんでもない災難に遭われた裕子さんにお見舞いを申し上げます。それにしても大切に育てていた花に立ち小便とは――お話をうかがっただけでも身の毛がよだちます。後藤様が憤りを覚えられ、犯人に謝罪させたいと思われるのも無理はありません。私がお役に立てるかどうかはわかりませんが、できうる範囲で協力させていただきたいと思います。
 今後やるべきことについてご提案させていただく前に、いくつか確認をさせてください。
 裕子さんが、プランターの花が枯れたのは立ち小便のせいだと思われた理由の一つは、尿の臭いがしたからだろうと思われます。ただし、プランターが屋内やベランダ等に置かれていた場合、尿臭がしたとしても立ち小便と結びつけることはありません。つまりプランターが置かれていたのは、見知らぬ他人に立ち小便されてもおかしくないような場所、たとえば敷地と道路の境界あたりではありませんか。
(ここから先は、プランターの置き場所に関する推測が正しいという前提で書きます。この推測が間違っている場合は、プランターが置かれていた場所をあらためてお知らせください)
 私はパンジーの栽培方法や特性について詳しくはは知らないので、断言はできませんが、おそらく一度きりの立ち小便で全滅することはないと思われます。つまり、プランターへの立ち小便は何度も繰り返し行われたと考えるのが妥当でしょう。
 しかしながら現在の日本では、山の中でもない限り、立ち小便などできません。何かの事情でトイレが見つからず、切羽詰まったあげくに仕方なくという状況であればやってしまうかもしれませんが、仮にそういった場合でも一度きりのことで、花が枯れてしまうまで何度もくり返すことはないでしょう。それにわざわざプランターを狙いはしません。
 ではどういう状況であれば、花が枯れるまで立ち小便が行われるのか。
 時間帯としては夜でしょう。人目にもつきにくいですし、仮に見られても暗がりの中での行為は誤魔化しがききます。
 次にどういう人物の仕業かを考えます。
 一つは、裕子さんに恨みを持つ者です。つまりは嫌がらせです。このケースはやや深刻です。嫌がらせはエスカレートする可能性があります。そういう兆候が少しでも見えた場合は、警察に相談することをお勧めします。
 もう一つ考えられるのは、しらふではない人物――酔っ払いです。
 先のお手紙で、後藤様には「へっぽこ探偵vs擬態人間」を駅前の書店にて購入いただいたとありました。書店があるような駅前ということは、そこそこ賑わっており、居酒屋などもあるのではないでしょうか。そこで飲んだ人物なのか、あるいは終電で帰ってきた酔客かはわかりませんが、駅前から家に帰る途中に裕子さんの家があり、ちょうどそのあたりで尿意をもよおし――というパターンです。このケースでは、犯人は一人だけでなく、複数の人物という可能性もあります。
 さて、いかがでしょうか。私としては酔っ払いの立ち小便という可能性が高いと考えるのですが、裕子さんのご自宅は、駅前から続くメイン通りに面していたりするでしょうか。
 ここまでの私の推測が的外れで、裕子さんのご自宅が全く違うロケーションにあるなら、その詳細をお知らせください。もしも裕子さんのご自宅の前を、酔っ払いが往来してもおかしくはないというロケーションである場合は次にお進みください。
 いよいよ犯人の割り出しです。
 裕子さん宅に対して、道路を挟んだお向かいにある家――正面が理想的ですがその両隣も一応候補に入れましょう――に防犯カメラが設置されていないでしょうか。
 もうおわかりですね。防犯カメラが設置されていれば道路を挟んだ向かいの家――裕子さん宅までが映っている可能性があります。事情をお話しして、録画されている過去の映像を確認させていただくのです。映像の確認ができた場合はその結果をお知らせください。防犯カメラの設置がなければ別な手を考えましょう。
 今、私からご提案できるのは以上です。
                             F拝

* * *

 拝啓
 F様、判明しました。
 犬でした。オスの柴犬が小便をかけていました。
 それにしても驚きました。F様がお手紙の中で推測されていたことは、ほとんどそのまま当たっていたのです。
 今さらながら思い出してみると、F様へのご相談の手紙では、裕子さん宅のことやプランターの置き場所について何もお知らせしていませんでした。立ち小便の犯人を突き止めたいのでご協力をとお願いしておきながら、推理に必要となる情報を何も書いていなかったのです。
 そんないい加減な手紙であったにもかかわらず、立ち小便という情報だけから、裕子さん宅の様子をほぼ正確に言い当てられ、さらにはお向かいの家の防犯カメラがある可能性にまで言及されました(本当に防犯カメラが設置されていました)。そして幸運にもカメラの撮影範囲内にプランターが置かれていたのです。
 その防犯カメラは過去十日間の映像を残しておけるもので、返事をいただいたその日のうちに事情を話して確認させてもらったところ、残っていた映像の最初の二日分に、一匹の柴犬が片脚を上げてプランターに小便をかけている様子が録画されておったのです。映像を確認するのがあと二日遅ければ何も映っていないところでした。
「プランターに小便をかけたのは人間ではありませんでした。犬でした。確認できた二日間とも午後十一時過ぎという時間帯でした。小便をするときは片脚上げのポースで、しっぽがくるっと巻いておりましたから、おそらくオスの柴犬でしょう」
 そのように裕子さんにお伝えしたところ、そうだったのですかと、納得されたご様子でした。
 毎日同じ所におしっこをするのは犬の習性ですから仕方がないことです。そもそも公道にはみ出すような形でプランターを置いていたのが悪かったのですとおっしゃって、今後は気をつけますと、なぜか私に謝られてしまいました。
 これらの言動からもわかっていただけると思うのですが、裕子さんは上品かつ謙虚な方なのです。
 私からの報告は以上となります。
 この度は適切なご助言をいただきありがとうございました。

                                敬具
                             後藤昭一拝

* * *

   後藤 昭一様

 一連の顛末について、ご報告いただきありがとうございます。
 うかつにも犬という発想はまったく浮かびませんでした。立ち小便といえば酔っ払いだろうと安易に結びつけてしまったのは、ミステリー作家としてお恥ずかしい限りです。唯一の救いは防犯カメラについて言及できたことぐらいでしょうか。
 それにしましても、夜間の不鮮明であろう映像から、犬の種類や性別まで特定されたのはすごいことだと思います。いつかへっぽこ探偵の藤松君と勝負していただきたいです。
 花が枯れてしまったことに対する責任の所在としてはうやむやにならざるを得ませんが、裕子さんが納得され、後藤様のもやもやも解消されたのであれば何よりであります。
 季節の変わり目には体調を崩す方が多いようです。風邪など召されませんようご自愛ください。

                             F拝

* * *

 F先生、はじめまして。
 ぼくは後藤昭一の孫で、後藤和哉といいます。
 祖父がF先生にファンレターを出したと知って驚き、しばらくしてF先生から直筆の返事が届いたと聞いてあ然としてしまいました。
 おそらくこれまで一度もミステリーなんか読んだことのない祖父が、現役のミステリー作家さんと手紙をやり取りしているなんてシュールすぎます。それになんだかズルいと思ってしまいました。
 祖父はぼくにF先生のことやミステリーのことをあれこれ聞いてくるのですが、少しピントのずれた質問が多く、この調子だとF先生に変なこと書くんじゃないかと心配になって、祖父が出す手紙は、二通目から事前に目を通すようになりました。またF先生からの返信も全部読ませていただいています。
 祖父の手紙の内容は、思っていたよりもちゃんとしていて、F先生とのやりとりにちぐはぐな感じはなく、これなら大丈夫だなと安心していました。
 ですが、祖父の書いた一番最近の手紙がちょっと気になり、祖父の行動にもなにやら不自然なものを感じたので、F先生に相談させていただこうと思ってこの手紙を書いています。
 これまでの祖父からの手紙で、F先生もなんとなく察しておられるのではないかと思うのですが、祖父は小森裕子さんに気があるようです。母はあまり良くは思っていないみたいですが、二人とも今は独り身なので、別にいいんじゃないかなとぼくは思っています。すべてに枯れてしまって老け込むよりはずっといいです。小森裕子さんへのそういう想いもあり、今回の立ちション騒動を知ったときの祖父の怒りようは相当なものでした。
 祖父が書いていたように、小森裕子さんが大切に育てていたパンジーが全部枯れてしまったというのは本当で、プランターの土を嗅いでみると尿の臭いがしたというのもその通りです。手紙には書いていませんでしたが、プランターの土は小森裕子さんの家の庭に捨てられており、祖父はわざわざその臭いを嗅ぎに行って確かめています。その後F先生からアドバイスをいただき、小森裕子さん宅のお向かいの家を訪ね、事情を話して防犯カメラの映像を確認させてもらっています。
 問題はここから先です。
 防犯カメラの映像にはプランターに小便ををかける犬が映っていたと祖父は言っています。
 ぼくはその映像を見ていませんが、犬が映っていたというのはたぶん本当でしょう。F先生の「酔っ払いの立ち小便ではないか」という推測にはとても説得力がありました。それをくつがえすような「犬」という発想を、祖父がゼロから思いつくのは無理だと思うからです。
 なので祖父は防犯カメラの映像でたぶん犬を見ています。ですが見えすぎているとも思うのです。
 片脚上げのポーズでおしっこをしていたのでオス。
 しっぽががくるっと巻いていたので柴犬。
 どちらもそれらしい説明ですが、夜間の防犯カメラの片隅の映像で本当にそこまで詳しく確認できるものでしょうか。
 さらに疑問に思うのは、うちの近所でこれまで一度も野良犬を見たことがないし、野良犬がいるという噂を聞いたこともないということです。映っていたのが野良犬ではなく飼い犬だとするなら、どこの犬なのか、なぜ夜中にうろついていたのかということが気にかかります。
 疑問に思うことはまだあります。小森裕子さんに、おしっこをかけた犬の種類や性別、さらにはカメラに映っていた時刻まで教える必要はあったのかということです。別に教えても問題はないと思いますが、やけにくわしく伝えたんだなと思ったのです。
 そしてこれが一番気になることなのですが、今日、祖父はまた小森裕子さんを訪ね、「今後は犬が小便をかけることはないから、またプランターで花を育てても大丈夫ですよ」と言ったそうなのです。
 何を根拠にそんなことが言えるのでしょうか。
 たんなる気休めでしょうか。
 それとも祖父は何かの手を打ったのでしょうか。
 あれこれと考える中で、ぼくはとても嫌な想像をしてしまいました。
 祖父は、小森裕子さんが大切に育てていた花を枯らしてしまった犬のことが許せなかった。防犯カメラの映像をヒントにして執念で犬を探し出し、もう二度と悪さができないように殺してしまった。
 まさかとは思います。でも、そのまさかを考えてしまうのです。
 F先生、ぼくの心配は杞憂というやつでしょうか。
 それともあり得る可能性の一つでしょうか。
 祖父は今、とても上機嫌です。これほどまでにおだやかな表情で毎日を過ごす祖父を見るのは初めてです。
 ぼくは何をするべきでしょうか。
 それとも何もしないままでいる方がよいのでしょうか。
 どうかアドバイスをお願いします。

* * *

   後藤 和哉様

 お手紙ありがとうございます。
 最初に、昭一様への私の助言が発端となり、お孫さんの和哉様にご心配をおかけしていることをお詫びいたします。
 今回のことで、昭一様の言動に対して和哉様が抱かれた疑問や懸念は、どれもなるほどと思うことばかりです。その中でも、昭一様が「今後、犬が小便をかけることはない」と明言されたことについて、和哉様がその根拠は何かと考えた末にたどり着かれた結論(嫌な想像)はショッキングな内容でした。
 でも安心してください。
 和哉様の心配は杞憂です。
 花を枯らしたのがアブラムシなどの害虫であったなら、ほとんどの人がためらいなく駆除するでしょう。では花を枯らしたのがアブラムシではなく犬だった場合、ほとんどの人はためらいなく犬を殺すでしょうか。もちろん殺しません。可能性はゼロではありませんが、そんなことで犬を殺す人はまずいないのです。もちろん昭一様も殺さない側の人です。これまで手紙のやり取りだけでしか昭一様のことを存じ上げない私でも、それぐらいのことはわかります。
 なのでこの点に関しては、今一度、冷静に考えていただければと思います。
 では実際には何があったのでしょうか。
 先入観を排除し、もう一度最初から考えるために、和哉様が抱かれている疑問や懸念を整理してみます。

〇夜間の防犯カメラの片隅の映像で、片脚上げのポーズや巻いた尾の状態まで確認できるのか。
〇花に小便をかけたのは野良犬なのか飼い犬なのか、飼い犬ならなぜ夜中にうろついていたのか。
〇小森裕子さんに、花に小便をかけた犬の種類や性別、さらには防犯カメラに映っていた詳細な時刻まで教える必要はあったのか。
〇何を根拠に「今後は犬が小便をかけることはないから、またプランターで花を育てても大丈夫ですよ」と言えるのか。

 これらの疑問や懸念をすっきりさせれば、和哉様の不安感は解消されるはずです。
 実を申しますと、これまでの昭一様とのやり取りから、私にはおおよその見当がついているのです。ですが、それはあくまでも「おおよそ」であり、ここでその詳細をお知らせするには推測の裏付けとなる情報が足りません。
 そこで和哉様に確認していただきたいことが二つあります。

〈確認事項 その一〉
 犬のマーキングを撮影していた防犯カメラの性能について。
 たとえば夜間に柴犬と判別できるほどの映像が残せるのか。また、小森裕子さん宅の前に置かれていたプランターは映像のどのあたりに映るのか等。
 これらのことについて、小森裕子さん宅のお向かいの家を訪ねて、夜間に撮影された映像を確認していただけないでしょうか。先方は、昭一様からの依頼で映像の確認に協力してくださった方なので、孫の和哉さんは昭一様の代理ということにして、「その後、犬は来ていないかを確認するためにもう一度だけ映像を見せてください」とお願いすれば、協力いただけるのではないかと思います。

〈確認事項 その二〉
 昭一様がお持ちの文芸誌「文芸季報」の秋号に掲載されている拙作「私のシロちゃん」に登場する老女と、小森裕子さんとの間にある共通点および相違点。(家族構成を中心にできるだけくわしく)
 昭一様からいただいた最初のお手紙に、以下のような記述がありました。
『ご近所の裕子さんは主人公の老女と同じく七十代半ばで、長男夫婦との関係があまりうまくいっていないという点も同じでした。それ以外にも主人公の老女と裕子さんの境遇には重なる部分が多くあり、裕子さんの物語として読まずにはおられませんでした』
 この文面で、曖昧な書かれ方をしている「あまりうまくいっていない」「重なる部分が多くあり」について、もう少し具体的な状況を知りたいのです。昭一様に直接聞くことができれば一番よいのでしょうが、それが難しいようであれば、他の方からの又聞き、伝聞、噂といったものでも大丈夫です。
 その他、些細なことでもかまいませんので、ご存知のことがあればお知らせください。

 確認いただきたいことは以上です。
 お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。

                             F拝

* * *

 F先生、突然の面倒な相談事に対して、とてもていねいなお返事をありがとうございます。
 ぼくが暴走気味に心配していた最悪の状況は杞憂だと明言していただき、それだけで気持ちがぐっと楽になりました。言われてみればもっともなことで、祖父が犬を殺したのではないかと考えてしまったこと、今は恥ずかしく、祖父に対しては申し訳なく思っています。
 以下に、ご依頼のあった確認事項について報告します。

〈確認事項 その一〉
 防犯カメラの性能は想像していた以上に優秀でした。
 まず、犬が映っていたのと同じ時刻の午後十一時過ぎに、小森裕子さんの家の前を歩きました。
(小森裕子さんの家の前には、また何かの花が植えられたプランターが置かれていました。祖父は小森裕子さんに信用されているということがよくわかりました)
 その翌日、お向かいの家(橋田さんというお宅です)を訪ね、F先生のアドバイス通りの台詞で、防犯カメラの映像を見せていただくようお願いしました。橋田さんの奥さんには、快く「どうぞ」言っていただき、録画された映像を専用のモニターで再生してくださいました。
 映像はモノクロでしたが、解像度はとても高く、ぼくが着ていたトレーナーの背中にある小さなロゴや、ぼく自身の目鼻立ちまではっきりと確認できました。これはカメラの性能がよいことと、小森裕子さん宅の門柱の脇にある外灯の光がちょうどいい感じでプランターの周辺を照らしているためです。
 以上のことから、犬が片脚を上げて小便をする様子や、しっぽの巻き具合が確認できたことは間違いありません。

〈確認事項 その二〉
 まず「私のシロちゃん」を読みました。
 これ、すごい作品ですね。
 物語は主人公の老女が膝に抱えたシロちゃんに語りかける場面から始まりますが、その描写からシロちゃんは猫なんだなと思いました。ところがその先を読み進めると猫ではなく犬だとわかります(くるりと巻いた尻尾と書かれていて、今回の犬を思い出しドキッとしました)。続けて読んでいくと、シロちゃんは本物の犬ではなく、ぬいぐるみの柴犬だということが明かされます。
(次々と読者の予想を裏切っていく展開はF先生の小説に共通の醍醐味です)
 シロちゃんがぬいぐるみの柴犬だと判明したところで、それは同居している長男のお嫁さんからの誕生日プレゼントだったということが示されます。
「お義母さん、このワンちゃんは柴犬で、名前はシロっていうんですよ」
 思いもかけないプレゼントに、最初、老女は驚きます。結婚当初からお嫁さんとの相性が悪く、何かというと口論になるぎくしゃくした関係だったのですから当然です。
 このプレゼントをきっかけに二人の間にいさかいが起こることはなくなるのですが、なぜか老女の心境の変化については書かれないまま話は続きます(実は冒頭からずっと心理描写がなかったことは読み返して初めて気づきました)。
 老女はシロちゃんを本物の犬、あるいは孫であるかのように可愛がります。足元がおぼつかなくほとんど外に出かけることはないのですが、来客があったときには必ずシロちゃんを胸に抱いて応対し、「シロちゃんっていうんですよ」と紹介するほどです。それを聞いた訪問者はなぜかみな戸惑ったような反応を示します。
 このあたりでようやくぼくは何かおかしいぞと気づくことができました。そしてきっとまた仕掛けがあるんだろうなと思いながら読み進めますが、老女がシロちゃんをとても大事にしていて、人に会うたびに「シロちゃんっていうんですよ」と紹介するというエピソードが繰り返し語られるばかりです。
 これはミステリーではないのだから、このまま良い話として終わるのかなと思ったところで視点が一人の訪問者のものに替わり、意外な事実が判明します。
 老女は盲目だったのです。
 もしかしてと思って最初から読み返しました。
 音や匂い、手触り、暑さ寒さなどの描写はあるのに、視覚による描写は一切ありません。最初はシロちゃんのことをその毛並みの感触やぴんと立った耳の感じから猫ではないかと思わせ、さらに「吠えない」「散歩に連れていってやれない」という老女の独り言で、猫ではなく犬だったと軌道修正し、最後には取れかけた尻尾の修繕場面でぬいぐるみだということが判明します。
 なるほど情報の出し方自体も伏線だったのか。
 などと感心しながら続きを読むと、そこには、「シロちゃんは黒い柴犬だった」という衝撃の事実が書かれているではないですか。
 えっ、白じゃなくて黒だったのか。
 黒いのにどうしてシロちゃんっていう名前なんだ?
 またまた読み返しです。
「お義母さん、このワンちゃんは柴犬で、名前はシロっていうんですよ」
 そうだった。名前をつけたのは老女自身ではなくて長男のお嫁さんだった。
 ぼくにはそれがどういうことなのかすぐにはわかりませんでしたが、しばらく考えて、あっと声を出してしまいました。
 人に会うたびに、「シロちゃんっていうんですよ」と、胸に抱えた黒い犬のぬいぐるみを紹介する盲目の老女。少しとまどいながら「可愛いですね」と返す客。その様子をにこやかな表情を浮かべながら見ているお嫁さん。
 ここまでの微笑ましい展開がくるりと裏返しになり、どろどろとした風景に塗り替えられてしまいました。
 でもこれで終わりではなかったのです。
 近所の主婦たちが井戸端会議をしているところに、おぼつかない足取りの老女がやってきます。もちろん胸にはシロちゃんを抱えています。
「あら、お久しぶりですね」
 主婦の一人が老女に声をかけ、老女は話の輪の中に入ります。誰かが「かわいいぬいぐるみですね」とほめます。老女はいつものように「シロちゃんっていうんですよ」と紹介します。
 黒なのにシロ? そうか目が見えないから――
 色が違ってますよと言うべきか、黙っておくべきか。
 主婦たちの間に微妙な空気が流れたところで老女が重ねて言います。
「嫁からの誕生日プレゼントなんですよ。名前も嫁がつけてくれたんですよ」
 そして老女が柔らかな笑みを浮かべたところで物語は終わります。
 背中がざわざわしました。
 老女は全部知っていたんですね。
 その上で自然体のまま毎日を過ごし、黒い犬のぬいぐるみをシロちゃんと呼ぶ自分を多くの人に印象づけ、最後にそう仕向けたお嫁さんの仕打ちを近所の主婦たちが集まっている場で暴露する。その直後に浮かべた微笑みが怖いです。
 このあと二人の関係はどうなったのでしょう。それが書かれていないからこそすごく余韻が残ります。
 すいません。
 確認事項の報告をするつもりだったのに長々と感想を書いてしまいました。
 仕切り直してここからは確認事項の報告です。
 作中の老女と小森裕子さんの共通点と相違点については、祖父に聞けばくわしくわかるだろうとは思ったのですが、小森裕子さんへの思い入れが強いため、偏った見方をしている可能性があり、情報源としてはふさわしくないと判断しました。
 祖父を除外すると、あとは母ぐらいしか思いつきません。ダメもとで聞いてみたところ、意外にも小森裕子さんのことをよく知っていました。祖父が小森裕子さんのことであれこれ動き回っているのが気に入らないという理由に加えて、どうやら近所の奥さんたちの間でいろいろ噂になっていて自然と情報が入ってくるみたいです。
 というわけで、以下は母から聞いた話です。
 まず共通点としては、小森裕子さんは今年七十四歳で、作中の老女(七十代半ば)と年齢がほぼ同じぐらいだと思われます。また長男のお嫁さんとは結婚当初から折り合いが悪く、その長男はお嫁さんに頭が上がらないという感じだそうで、この点も老女の状況とよく似ています。こう書くと、お嫁さんがきつい人のように感じられるかもしれませんが、うちの母を含めた近所の奥さんたちは「小森さんとこの大奥さんは変わってるからねえ。お嫁さんも大変よね」などと話しているらしく、どちらかというとお嫁さんの肩を持つ人が多いようです。これはみなさんがお嫁さんに近い立場にあることが影響していそうなので、あまり参考にはならないかもしれません。うちの母も亡き祖母とはあまり仲良くなかったと聞いています。
 次に相違点です。
 小森裕子さんは視力に問題はなく、耳も手足も特に不自由なところはないそうです。
 長男夫婦とは最初同居しておられたそうですが、現在は別居されています。結婚後間もなくお嫁さんが同居は嫌だと強く訴えられ、長男さんは悩んだあげく、同じ町内にある古い一軒家を借り、夫婦でそちらに引っ越したそうです。同居されていたのは半年ほどで、以来十五年、小森裕子さんは一人暮らしをされています。
 その他には次のようなことを聞きました。
 長男夫婦に子どもはいません。長男さんは銀行に勤務されており、帰宅は深夜になることが多いそうです。また、長男さんは週に二回、安否確認をかねて小森裕子さんの様子をうかがいに実家に立ち寄るそうです。この長男さんと小森裕子さんとの親子関係は良好で、また長男さん夫婦の仲も良いそうです。うまくいっていないのは、小森裕子さんとお嫁さんとの間だけのようです。
 母に聞いてわかったことは以上です。
 どうぞよろしくお願いいたします。

* * *

   後藤 和哉様

 確認事項の報告を受け取りました。
 あわせて「私のシロちゃん」の感想までいただき恐縮です。
 ミステリ書きの悪い癖で、伏線重視の構成に加え二度三度と状況を反転させるなど、読みにくいものになってしまったのではないかと危惧していたのですが、昭一様に続き和哉様にも好意的な感想をいただき、そこそこ読めるものになっていたのだなと安堵いたしました。自作への感想というのは本当に嬉しいものですね。ありがとうございました。
 さて、本題に入りましょう。
 とてもくわしい報告をいただきましたので、和哉様の疑問にはほぼすべてお答えできると思います。ただし、それらはあくまでも私個人の推測です。そこをご理解の上、以下をお読みください。

 まずは和哉様の疑問を再度確認しておきます。

〇夜間の防犯カメラの片隅の映像で、片脚上げのポーズや巻いた尾の状態まで確認できるのか。
〇花に小便をかけたのは野良犬なのか飼い犬なのか、飼い犬ならなぜ夜中にうろついていたのか。
〇小森裕子さんに、花に小便をかけた犬の種類や性別、さらには防犯カメラに映っていた詳細な時刻まで教える必要はあったのか。
〇何を根拠に「今後は犬が小便をかけることはないから、またプランターで花を育てても大丈夫ですよ」と言えるのか。
(一つ目の疑問は和哉様自身によって解決済みですが、今回の推測に関連する重要なポイントであるため、省かずに記載しています)

 これらの疑問にお答えできそうな状況を考えてみました。

 その人は、終電の二本前の電車で帰宅する夫を駅で出迎えるために、夜の十時五十分過ぎに家を出ます。駅までは歩いて十分ほどの距離ですが、真っ直ぐ駅には向かわずに少し遠回りをします。出迎えは飼い犬の散歩をかねているからです。
 その日はふと思い立って、あの家に立ち寄ってみることにしました。万が一にもあの女とは顔を合わせたくないので、昼間は絶対に近づかないようにしているのですが、夜もこの時間ならもう寝てしまっているでしょう。
 大通から住宅街に入り十五分ほど歩いた先にその家はあります。その人は家の前に立ち門柱の表札に冷ややかな目を向けました。家屋は古くなってはいますがそこそこの庭もあり、交通の便もよく、それでいて閑静な住宅街の中という好立地にあります。本来なら自分たちが住み暮らしているはずの家です。その人は自分たちの貧相な借家暮らしを再認識し、胸の奥から湧き上がってきたどす黒い怒りに両手を小刻みに震わせました。
 その右手で持つ犬のリードがぐいと引かれました。足元に目をやると、飼い犬が片脚を上げプランターに小便をかけようとしています。「こらっ」と叱りつけそうになったのを喉の奥でぐっとこらえました。プランターにはあの女が大切に育てている花が咲きそろっていたからです。
 たっぷりとかけてやればいい。
 その人は周囲に誰もいないことを確認すると、飼い犬の行為を邪魔しないようにリードをゆるく持ち直しました。
 次の日も、犬の散歩をかねた夫の出迎えは同じルートが選ばれました。家を出てから二十分、あの家の前の昨夜と同じ位置で立ち止まり、飼い犬をさりげなくプランターの方へと誘導します。犬は周囲のアスファルトに鼻を寄せひとしきり匂いを嗅ぐと、片脚を上げてプランターの花に向かって小便をかけはじめます。
 さらに次の日も、その次の日も――
「そういえば、母さんの育てていたパンジーが全部枯れてしまったらしい」
 休日の遅い朝食のあと、朝刊を読んでいた夫がぽつりとそう告げました。
「花を育てるのは得意だったんだがな」
「最近、朝晩が冷えるからじゃないの。寒さに強い花にすればいいのよ」
「なるほどな。今度そう伝えておくよ」
 この話題はこれで終わり、夫は再び朝刊に目を落としました。
 しばらくしたらまたあのルートで様子を見に行こう。もちろん深夜に、犬を連れて。
 その人は夫に気づかれないようにそっと顔を伏せ、冷たい笑みを浮かべました。
 数日後、夫の出迎えのときにまたあの家の前を通ってみましたが、プランターは置かれていませんでした。もしかしたら花が枯れた原因が誰かの小便だと気づいて、通りに面した場所にプランターを置くことをやめたのかもしれません。なんだつまらないと思いましたが、あの女の楽しみを一つ奪ってやったのだからそれでよし、とその人は自分を納得させました。
 次の週末、休日の遅い朝食を食べながら夫がにこにこと笑いながら話しかけてきました。
「前に話した母さんの花が枯れた件だけどな、いろいろわかったらしい」
 あれから十日以上経っている。今になってそれをどうのこうの言い出すなんて、やっぱりあの女はちょっとおかしい。
 その人は心の中で嘲りながら、「あら、そう」と気のない相づちを打ちました。
「ご近所の後藤さんが気の毒がっていろいろ調べてくれたそうだ。花が枯れたのは寒かったからじゃなくて、誰かに小便をかけられたせいらしいんだがね、それを知った後藤さんが腹を立てて、あれこれ調べてくれたんだと。そうしたらお向かいの橋田さんが設置している防犯カメラに一部始終が映っていたらしい」
 その人は思わず「えっ」と声を出してしまいました。
「小便をかけたのは人間じゃなくて、犬だったんだって。カメラには二晩続けてその様子が映っていて、二回とも午後十一時過ぎだったそうだ。犬が小便をするときは片脚上げのポースだったのでオス、しっぽがくるっと巻いてたからおそらく柴犬でしょうって、後藤さんはやけに詳しく教えてくれたんだとさ」
 その人は、夫の口からいつ自分のことが語られるかと身を固くして話を聞いていましたが、いつまでたっても犬を連れていた人間のことには触れません。
「最近の防犯カメラは高性能なんだね。夜なのに犬の種類までわかってしまうんだからなあ」
 夫の話しぶりや表情から、飼い主に関することは何も知らないように思われました。後藤さんというお節介な人物は、わざと飼い主のことを伝えなかったのでしょう。
「その後藤さんがね、『今後は犬が小便をかけることはないから、またプランターで花を育てても大丈夫ですよ』って言ってくれたそうなんだが、なんでそんなことがわかるんだろうな。まさか犬を見つけて、『また悪さをしてもすぐにばれるんだぞ。カメラに全部映ってるんだからな』とか言って脅したわけでもあるまいになあ」
 夫は首をひねりながら、「まあ、そういうわけで、母さんはまたプランターで花を育てるそうだ」と言って、テーブルの上の朝刊に手を伸ばしました。
 その人は怖れと憎しみの入り混じった目で夫の横顔をにらみつけました。

 以上、和哉様の疑問に対する私なりの回答を小説風に書いてみました。
 くり返しますが、すべて私の想像です。会話部分などはほとんど妄想レベルです。
(あたかもそんな台詞が実際に交わされたかのように書いてしまうのは小説書きの悪い癖です)
 そしてこの妄想小説には一つ大きな弱点があります。小森裕子さんの長男夫婦が柴犬を飼っているというもっとも大事な設定の裏付けが取れていないということです。
 そこでお願いがあります。小森裕子さんの長男夫婦が、実際に柴犬を飼っているかどうかを確認していただけないでしょうか。柴犬を飼っていなかった場合、今回の回答はまったくの見当外れということになります(一からの出直しです)。柴犬を飼っていた場合は、概ね私の推測が当たっていると考えてもらっても大丈夫だと思います。
 ご報告をお待ちしております。

                             F拝

* * *

 F先生へ
 確認しました。小森裕子さんの長男夫婦宅では本当に柴犬が飼われていました。こっそりのぞいた庭先に「黒い柴犬」がいるのを見た瞬間、両腕に鳥肌が立ちました。いただいた小説風の回答は大正解でした。
 家に帰って、さっそくF先生にこのことを報告しようと手紙を書きかけたとき、ふと思いました。
 小森裕子さんは当然この犬のことを知っているはずだよな、と。
 だとすれば、柴犬がマーキングをする様子が防犯カメラに映っていたという祖父の報告を受けたとき、長男夫婦が飼っている柴犬のことをまず思い浮かべたのではないだろうか。いや、それ以前の、パンジーが枯れた原因が小便だとわかった時点(祖父に話をするよりも前)で、すでに……。
 ぼくは祖父から文芸季報を借りて、「私のシロちゃん」を読み返しました。
 そして想像してしまったのです。
 祖父が「今後は犬が小便をかけることはないから、またプランターで花を育てても大丈夫ですよ」と告げたとき、小林裕子さんが柔らかな笑みを浮かべるのを。
 すいません、変なことを書いてしまいました。
 新作の執筆、がんばってください。

 追伸
 祖父はその後も元気にやっています。F先生に送るのだと言って、「へっぽこ探偵vs擬態人間」の感想を書いているみたいです。そのうち、また長い手紙が届くと思いますが、お時間のあるときに目を通してやってください。

                             後藤和哉


深津十一(ふかつ・じゅういち)
一九六三年京都府生まれ。第十一回このミステリーがすごい!大賞優秀賞受賞作『「童石」をめぐる奇妙な物語』(宝島社)でデビュー。他の著書に『花工房ノンノの秘密 死をささやく青い花』(宝島社文庫)、『 デス・サイン 死神のいる教室』(宝島社文庫)、『デス・ミッション』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など。近作に『秘仏探偵の鑑定紀行』(宝島社文庫)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?