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櫻田智也『ハマナス』

 通りの海側には、傷んだトタン屋根の家がならんでいる。通りの山側には、一段高くなった歩道と緑地をはさんで若い町ができはじめていた。
 緑地には、まだ防風林と呼べない小さな松の木が等間隔で植えられていて、通りの海側と山側の境界に立つ衛兵のようだと感じることがある。
 観光地として栄え、観光地として寂れつつあった街で、東側の地区は札幌のベッドタウンとして再興の途にあった。その動きのなか、古い商店は次々とシャッターを閉じた。
 この喫茶店にも立ち退きの話があった。海沿いに大型の商業施設をつくる計画のためだった。通りには当時まだ十軒の店が営業していた。抵抗していた仲間がひとり抜けふたり抜け、ついに最後の一軒となったとき、計画が立ち消えになった。未知のウィルスによる感染症が、再開発に冷たい水を差したのだ。それから一年が経ったいまも、ほかの九軒はシャッターをおろしたままだった。
 彼女が店を訪ねてきたのは、九月九日の午後四時をまわった頃だった。ドアベルが静かな音を立てたが、窓から吹き込む風のせいだと思い、コーヒーを淹れる手をとめなかった。
「あの、すみません」
 女性の呼びかけにケトルを傾けたまま振り返り、この日の一杯目は幾分薄くできあがった。
「いらっしゃいませ」
 女性は淡いブルーの不織布マスクをつけていた。夏を惜しむように同じ色のブラウス。丈の長いスカートはキャメル色で、もう秋を迎えている。
「すみません。客じゃないんです」
 マスクでくぐもっているが、若いとわかる声だった。
「田村一彦(かずひこ)さんでしょうか」
「ええ、そうです」
「川嶋みつきといいます。お話があってきました」
 ほんの数秒みつめ合う時間があった。驚きはもう過ぎ去っていた。名前を聞く前に、彼女が誰か気づいていた。服に見憶えがあった。母親のものを着てきたのだ。そして瞳にも、母親の面影が宿っている。
「座ってください」
 彼女は砂浜に面した窓際の席に、カウンターに背を向けて腰掛けた。その背中をみながらマスクをつけ、手とカップを消毒しコーヒーを淹れる。察した彼女が振り向き、やけに大人びた調子で「おかまいなく」といった。それでも、はこばれてきたコーヒーをあらためて断ることはなかった。
「どうして病室にハマナスだったのか、やっとその理由(わけ)がわかりました」
 窓の外に目を向けながら彼女がいった。カウンターに戻ろうとして立ちどまり、少しだけ迷って、彼女の横顔をみつめながら、結局向かいの席に腰をおろした。
「ここに咲いていたハマナスだったんですね」
 窓のすぐそばにハマナスがある。群生というほどではない。いまは花を落とし、実が色づきはじめていた。
「砂浜の向こうに生えていたものから何株かもってきて植えてみたら、うまく根づいてくれて――」
 その説明を遮るように、彼女がこちらを向いた。
「わたし一度だけ、田村さんにお会いしたことがあります」
 一瞬はぐらかそうと思い、やめた。
「病院の廊下で」
 正直にそうこたえると、彼女が大きく息を吸い込むのにあわせて、ブルーのマスクが凹んだ。
「憶えてるんですか」
「早紀(さき)の病室に、ハマナスを置いた帰りだった」
「わたしは十三歳でした」
「この七年で、顔立ちが少し変わった」
「マスクをしてるのにわかるんですか?」
「目のあたりが早紀に似てきた」
「てきとうなこといわないでください」
 彼女はマスクをはずさず、したがってコーヒーに口をつけなかった。
「申し訳ない。いい加減な性格なんだ」
「そして無神経です。わたしの前で母親を、平気で名前で呼ぶなんて」
 たしかにと思った。苦笑でやり過ごせる雰囲気ではなかった。しかたなく目を逸らし、薄曇りの空と、それに似た色の砂浜を、ハマナス越しに眺めた。灰色の裂け目に、海の青が重い。
 早紀が突然この店にやってきたのは七年前の七月だった。よく晴れて暑い日の、陽が落ちかけた時間だった。店の入口の前に立っている女性の姿に気づいてドアを開けると、帽子の下から照れたような、それでいてふてぶてしいような笑顔が覗いた。
 学生時代に付き合い、別れ、それから一度も会っていなかった。姓が川嶋に変わっていることさえ知らずにいた。
「佐々木くんから聞いたの。一彦が海のそばで喫茶店をやってるって」
 早紀は大学の同窓の名をだした。親友とまではいかないが、腐れ縁で連絡をとりつづけている佐々木には、たしかに開店の通知を送っていた。だが、早紀と佐々木につながりがあったことは意外だった。
「気持ちいい店」
 早紀は途中のテーブルに網の手提げを置き、その上に蓋のように帽子をのせ、奥のカウンターへ向かった。
「ここに住んでるの?」
「二階が自宅になってる」
「銀行やめちゃうなんて、思い切ったね」
「四十歳を前にして、冒険してみたくなった」
「札幌のほうが暑いと思ったのに、そうでもない」
 スツールに腰掛けた彼女の背筋に沿って、ブラウスが汗で濃い青に変わっていた。
「ねえ、ひと晩だけ泊めて」
 浮いた彼女の足先で揺れていたサンダルが、パタンと音をたてて床に落ちた。
 背中の青がいっそう深くなり、どこか遠くで雷鳴が聞こえた――ような気がした。
 十四年ぶりに抱いた早紀はむかしの早紀のようでもあるし、まったくちがう女性のようでもあった。
「十三歳の娘がいるの」
 荒い息を吐き終えた早紀の身体は冷たく、湿ったベッドのなかで脚を絡ませ、互いの熱を交換した。
「別れてすぐに結婚したわけだ」
「結婚すると決めたから別れた」
「佐々木とは、ずっと連絡を?」
「ううん、たまたま会っただけ」
 腕の輪を抜けてベッドからおりた早紀が、二階の寝室の窓から砂浜をみた。あとにつづいて横に立つ。月は隠れていたが、夜遊びにでた若者の花火が、ときおり波を照らしだした。
「ごめんなさい」
 早紀が呟く。
「あのとき、ちゃんとお別れをいえなかった」
 二十歳から付き合いはじめ六年が経った頃だった。早紀は結婚を考えていた。その気持ちをわかっていながら未来を提示せずにいたことで、ふたりの関係は次第に軋んだ。仕事を理由に会わない時間が増えたが、そのことに早紀が慣れてしまったように感じると、それはそれで苛立ちの種となった。
ある夜、どこか空々しく、そして無責任に交わったあと、机の上に無造作に置かれていた早紀の日記を読んだ。そこに裏切りが綴られていた。
――なに勝手に読んでるの。
 早紀は起きていた。こちらに背を向け、寝たふりをしていた。
――そういうことされたら、もうおしまい。
 なにも言い返さなかった。どこかでほっとしたのかもしれない。それが最後の夜になった。
「むかしのことだ」
 別れをいわなかったのは早紀のほうではない。逃げたのは早紀ではない。
「結婚相手は、日記にでてきた男?」
「そう」
 あの夜、日記は読まれるために机にあったのだろう。
「やさしい人だった」
「別れたのか?」
「死んだの。去年交通事故で。即死だったそうよ」
「……すまない」
「べつにあやまることじゃない」
「どうして今日ここに」
「だから、ちゃんとお別れをいいたくて」
 早紀が薄手のカーテンを身体に巻いた。
「不思議ね。あんなに若かったのに、自分には時間がないと感じていた。生き急ぐ必要なんて、いま思えばどこにもなかったのに」
「後悔してるのか」
 早紀は首を横に振った。
「あなたとの別れを、あんな形のままで終わらせておくのが、急に許せなくなっただけ」
 追ってきた過去の亡霊に責め立てられる。齢を重ねれば誰にでもあることだ。
 早紀はふたたび砂浜に視線を向けた。ロケット花火の打ちあがる音と嬌声。
「ねえ、ハマナスって綺麗な花が咲くのね」
「こんなに暗くちゃみえないだろう」
「店に入る前にみたの。わたし、その砂浜を何往復もしたんだよ。あなたは、ぜんぜん気づかなくって」
「そりゃ気づかないよ」
「何本か切って、もって帰ろうかな」
「棘がある。おれが切るよ」
「そう。忘れずにお願いね」
 微笑んだ早紀の人差し指がこちらにのびてきて鼻の頭に触れた。そこから唇を経て顎の先までを、すっと縦になぞる。
 あまりになつかしい感触に、胸の中心を疼痛が駆けた。
「あなたのこのライン、独特なのよね」
 学生時代にも、早紀はよく、そういった。
「おかしな形か?」
「ううん。すてきな、いい形」
 腕の輪のなかに戻ってきた早紀の姿は、翌朝目を覚ましたときには、もう消えていた。
 夜を待って佐々木に電話をかけた。彼は札幌の大学病院で内科医をしていた。
 早紀本人から聞いた――と嘘をついた。佐々木はその嘘に気づかなかった。
 緩和ケアを受けていて、余命は数か月だと教えてくれた。
 ひと晩の外出許可を与えたのは自分だとも。
 一週間後、ハマナスの花束を手に病院を訪ねた。早紀は怒った。ひどく怒った。「もうこないと約束して」といった。あの夜は「ルール違反だった」と。
 病室をでると、廊下の少し先に少女が立っていた。
 目と目が合った。近づくと、脇をすり抜けて早紀の部屋のほうへ駆けていった。
 あの少女が、七年の時を経て、いま目の前にいる。
「早紀は……お母さんはみつかったのか?」
「いいえ。七年前に病院をでていったきりです」
 再会の翌々月のことだった。早紀は病院から姿を消した。
 余命わずかな入院患者の失踪。地元ではそれなりに大きなニュースとなった。
 佐々木は責任を問われ大学病院をやめ、いまは道東の小さな町で診療所を営んでいる。風の噂にそう聞いた。
「あれから君は?」
「叔父の……母の弟夫婦にお世話になりました。母の病気がわかった時点で、そういう約束を」
「どうして今日ここに」
 七年前、早紀に訊いたのと同じ質問をする。
「ある業者から、わたしの下宿先に母の日記が届いたからです。なくなっていた、いちばん新しい一冊が」
「下宿ということは、いま君は……」
「叔父の家をでて旭川の大学で学んでいます」
「そこに直接日記が届いた?」
「費用についての説明が添えられていました。母から預かっていた七年分の保管料、保管品の発送料、わたしの居住地の調査のための費用の明細と、実際にかかった興信所の調査費の明細。その差額が残金として、金券と切手で同梱されていました。契約の日付は母がいなくなるひと月前」
 風に窓がカタカタと鳴り、彼女は一瞬だけ外に視線を向けた。
「もし調査の過程でわたしの死亡が確認された場合、日記は中身をあらためず速やかに焼却すること――という条件を、母は付けていたそうです」
 ハマナスの葉が、ざあと騒いだ。波が、高くなっている。
「日記には、入院中にある人に会いにでかけたこと。その一週間後にその人が病院を訪ねてきたことが書かれていました。最後の日付は失踪の前々日。おそらく前日には、業者のもとへ日記を発送したんだと思います」
「最後のページには、なにが」
「みつきを愛しています――というメッセージと、建物の写真が」
 彼女は一枚の写真をバッグからとりだし、割れ物でも扱うような手つきでテーブルに置いた。写真の隅にテープの痕が残っていた。写っているのは、海側からみた、この店の外観だった。
「よく、うちだとわかったね」
「ネットでいくらでも検索できます。マスクをしていない店主の顔だって、いくらでも」
「そうか」
 呟いて、マスクの上から無精ひげを撫でた。
「母の死期が近いことは知っていました。わたしはひとりになるのだと、そう覚悟していました。覚悟しようとしていました。でも、いくら結果は同じだからといって、あれほど整理のつかない別れはありません。もうすぐ死ぬはずの母が、死といっしょに消えてしまった」
 彼女の声が、怒気と湿気を孕んだ。
「母はここにきた。ちがいますか」
 こたえを待たず、彼女はつづけた。
「母は死の間際、娘のわたしではなく、むかしの恋人を選んだ。あなたと最期の時間を迎えることを選んだ。母の病状は深刻でした。もう生きているはずがない。けれどこの七年、母は生死がわからないままの行方不明者でした。そのあいだ、わたしは叔父夫婦の家で、宙ぶらりんのまま生きてきた」
 彼女は背を硬く丸め、顎を引いた。マスクの向こうに、きつく噛まれた唇がみえるようだった。
「母と叔父は仲が悪かった。祖父の遺産を相続する際に亀裂が決定的になり、ほぼ絶縁状態にあった。それでも、わたしの世話を頼めるのは叔父しかいなかった。母は相当な額を養育費として叔父に渡しました。それがあったから、叔父はわたしの面倒を渋々みてくれた。育ててもらった叔父夫婦を憎んではいません。けれど愛情のない家で暮らす日々は、とてもつらかった」
 ブルーのマスクが、彼女の息で鼓動を打つ。
「行方不明から七年が経って、とうとう今年、失踪宣告の申し立てをします。受理されれば、母はようやく法律上の死者になる。わたしは母の遺産を相続し、あの家からでることができる。学費も生活費も自分で払い、好きなことをやれるようになる。母を葬ってわたしは自由になる。そのタイミングで、あの日記が届いた。バカにしていると思いました。いまさら愛しているといわれて、はいそうですかと受け入れられますか。恋人の店の写真をみせられて、幸せだったねお母さんと喜んであげられますか」
「そうじゃない」
「なにがそうじゃないんですか!」
「たしかに君のお母さんは酷いことをした。娘の気持ちを考えれば、到底やるべきことではなかった。だが早紀の精神状態はふつうではなかった」
「母親を名前で呼ばないで!」
「彼女の病気は、末期においてしばしば意識の混濁をもたらす。鎮痛のため服用していたモルヒネの影響もあったかもしれない。彼女は正常な判断ができなくなっていた。ひとり残される君の将来を案じ、その不安だけに囚われていた。君のお母さんがここにきたのは、ぼくと過ごすためなんかじゃない。すべて君のためだった。少なくとも、君のためだと信じていた」
「どこがわたしのためなんですか」
「行方不明から七年経てば、申し立てによって失踪宣告がなされ、法律上の死亡者と認められるようになる。君がさっきいったとおりだ。君のお母さんは、そうなるために姿を消した。あのまま病院で死ねば、その時点で君が遺産を相続することになる。しかし君はまだ十三歳の未成年だった。彼女が心配したのは弟が―― 君の叔父さんが、そのことを利用して遺産に触れようとする可能性だった。だから彼女は、死なないという方法によって娘の財産を守ろうとした。行方不明になり遺体が発見されなければ、彼女はあと七年生きていられる。君は二十歳になる」
「そんな……」
 二度目にここを訪ねてきた早紀は、もう別人のようだった。
 ――ルール違反しちゃった。
 ただ目だけが、らんらんと輝いていた。
 ――お願い。あの子のためなの。
 早紀は自分の計画を語り、協力を迫ってきた。
 ――あなたは断れないはずよ。
 狂気とひとことで片づけるのは簡単だ。だが狂気こそが、ほかの関係には生まれ得ない、親子の情愛の本質なのではないか。
「ここにきて三日目。彼女は痛みに耐えられず、自ら命を絶った」
「お母さんは……自殺を?」
「ぼくは彼女の遺体を隠した。七年経つまで決してみつかってはならない。どんなに立ち退きの要求があっても、応じるわけにはいかなった」
「お母さんは、いったいどこに」
 問われて窓の外に目をやる。つられて、みつきも横を向く。すぐに彼女の眉があがった。
「……移植した……ハマナス……」
「植物があれば、いたずらに掘り返されることもないだろうと思った。それに、綺麗な花が咲く」
 みつきの目から涙がこぼれたのがわかった。マスクの一部が、ほんの少し濃い青に変わっていた。
「申し訳なかった。何度も打ち明けにいこうと思った。でもぼくは早紀の遺志を、たとえそれが間違ったものだとしても、無碍にすることはできなかった。一度承知した以上、ぼくの勝手で放棄するわけにいかなかった」
 死者を都合よくつかった言い訳だ。
「今日でぼくの役目は終わった」
「終わったらどうするんですか」
「お母さんを君に返す。ぼくは警察にいく」
「解放されるつもりですか」
 彼女はまだ外をみていた。
「自分だけ楽になっておしまいですか」
 波が遠くでザンと鳴った。
「縛られつづけてください。この場所に」
 ――あなたは断れないはずよ。
 早紀の言葉がよみがえる。
 みつきがマスクをとり、ゆっくりとこちらをみた。
 あの頃はまだ気づかなかった。鼻の頭から、唇を経て顎の先までの、特徴的なライン。
「すっかり冷めたみたい」
 それでもまだ、コーヒーは甘い香りをたてつづけていた。


(了)

スペーサー

櫻田智也(さくらだ・ともや)
一九七七年北海道生まれ。埼玉大学大学院修士課程修了。二〇一三年「サーチライトと誘蛾灯」で第十回ミステリーズ!新人賞を受賞。著書に受賞作を含む短編集『サーチライトと誘蛾灯』(東京創元社)。「火事と標本」が二〇一八年第七十一回日本推理作家協会賞短編部門候補に選ばれる。近作は二〇二〇年刊行、『蝉かえる』(東京創元社)。
そのほかの作品に『ベスト本格ミステリ 2015』(講談社ノベルス)所収の「緑の女」。「ミステリーズ!」(東京創元社)Vol.69に「追憶の轍」。

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