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séi - watcher 026 バイト先の常連

   バイト先の常連

 昨日の怪我に耐えながらなんとか授業を受けきった俺は、今バイト先で洗い終わった食器を片付けているところだ。
 ふと顔を上げると同時にドアが開いて、新緑の匂いと共に、緩やかなウェーブで艶のある黒髪の常連の女性が入ってきた。

「いらっしゃいませ」
 俺は食器を片付けている手を止め、いつも常連さんが座る窓際の席に行こうとした――が、常連さんは俺を目に留めてカウンターの席の方に来たから、変につんのめってしまった。

「いつもの、お願いね」
「アッサムをストレートで、ですね。かしこまりました。」

 常連さんは優しさを湛《たた》えた微笑で注文すると、少し体を傾け、頬杖をついて窓の外を眺め始めた。
 白い首筋――深緑のチュニックに引き立てられている――に沿って流れる黒髪が、窓越しの日差しで栗色に透けている。
 なんか…絵になる人だよなぁ~。
 いつもの注文だけど、いつもとは違う行動に少し訝《いぶか》りながらもそう思った。

 蒸らしが終わり、温めておいたカップにアッサムを静かに注ぐ。
「お待たせいたしました。」
 いつもとは違う距離感に動揺が出たのか、置く時にいつもより少し音を立ててしまった。うーん…五点減点。

「ありがとう、野本君。」
「え」

 この常連さんに名前を言った事があっただろうか…?
 否、名札がついているからそのくらいはわかるか。
 でも今まで名前で呼ばれた事なんて無かったし、話したとしても注文と会計の必要最小限だったような…?

「いえ、こちらこそいつも来ていただいてありがとうございます。」
 一瞬でグルグルと混乱しながらも、なんとか言葉を返した。

「ふふ、驚かせちゃったわね」
 微笑しながらそう言った常連さんは、予想以上に洞察力があるみたいだ…そんなに顔には出さなかったつもりだったのに。

「ひなちゃん、凄く嬉しそうだったわよ、良かったわね」
「え゛」
 今度こそモロに顔に出た。
 ひなの事知ってるって事は…

「あら?学校じゃあまり会わないからわからないかな?ひなちゃんの先輩の…」
「さ、佐伯先輩!?」
 全然気付かなかった…言われてみてやっとだ。
 学校でたまにひなといるところを見かけた時は制服だし、髪は今みたいに下ろしてなくて、三つ編みでまとめていたし、普段は着物っぽそう、って話を昨日したばかりだったから先入観もあった。そしてなにより眼鏡もかけていない。学校とここで見る先輩は別人に見える。

「なんか…すみません…いつも来てもらってるのに全然気付いてなくて」
「いいのよ、気兼ねなくぼ~っと出来たからね。」
「う…そうですか…。ひなが嬉しそうだったっていうのは?」
「平泳ぎの特訓よ。凄くわかりやすかったし一日で上手く泳げるようになって良かった~って、昨日メールが来たのよ。」
 ほら、と言いつつ佐伯先輩は携帯端末を取り出して、ひなが先輩に送ってきたメッセージを開いて見せてきた。
「…ブッ!」
 噴いた。
 凄いキラキラと装飾された文面が目に飛び込んできた…皆まで読まずとも雰囲気だけでその内容が目に浮かぶ。こんなに喜んでくれてるのは嬉しいけれど、先輩に知られてると思うと何だか照れくさい。

「…ひなちゃんに何か変な事してないわよね?」
 先輩は冗談めかして言ってきたが、調子を狂わされっぱなしの俺は狼狽えてしまった。
「そっ…、するわけ無いじゃないですかっ!」
 きっと何かしでかしたら先輩と杉沢に締められるに違いない…ちょっとコワい。

「あははっ、冗談で言ってみただけよ。…そういえば、ひなちゃんは野本君がここでバイトしている事は知らないの?」
 俺が狼狽えたのを見て満足したのか、佐伯先輩は話題を変えてきた。
「あぁ…あんまりバイトの事は話さないですね。掃除と皿洗いメインですし。」
 ひなは俺がバイトしてるのは知ってるけど、何処でとかどんな職種だとかは話してない。
 現状、紅茶も珈琲も淹れられるけど、並より少しはマシな程度で、マスター程の腕は無いし。
「ひなちゃんはお菓子作りが好きみたいだから、一緒にバイトすればいいのにね…」
 ――そういえば、たまにクッキーとかブラウニーとか作ってきたのを食べた気がする。
「へぇ…、でもバイトは無理なんじゃないですかね?部活もあるし…」
「ひなちゃんが居ればここも少し明るくなるんじゃない?まぁ、バイトするかしないかはひなちゃん次第よね。」
「俺は別に今のままでも…ここ、静かで落ち着きますし。」
「あら、野本君はひなちゃんが居ない方が落ち着くの?」
「別にそういう意味で言ったんじゃ…あんまり俺を弄らないでくださいよ~」
「うふふ、ごめんなさいね、狼狽えてるのが可愛いからつい、ね。」
 ちょっと意地悪く笑いながら佐伯先輩が謝ってきたところで店の入口のドアが開いて、また別の常連さんがやってきた。
「いらっしゃいませ。…先輩、ゆっくりしていってください」
 言って別の常連さんのオーダーを受けに行く。
 うん、行ってらっしゃい、と背中に先輩の声が掛かった。

 カウンターから少し離れたテーブル席の、いつもと同じソファに掛けたこの常連さんは、いつも何か本を読んでいる人で、時々煙草のようなものを銜えるんだけれど、火を点けているのを見た事が無い。
 齢は多分俺よりは上だと思うけれど、ハーフっぽくてよくわからない。髪は俺と似たような白っぽいショートヘアーだけど、この人の方が癖も無いし高級そうな感じがする…。
 アイスブルーの切れ長の目が、三日月とかナイフを連想させる。

「…今日はニルギリで。」
「ニルギリですね、かしこまりました。」
 この人はアッサムかニルギリのどちらかを注文する。なんとなく雰囲気がピリッとしている時はニルギリな気がする。
 そしていまだにこの人の性別がわからない…多分、男…?
 声は玲瓏《れいろう》だけど高くはないし…色々謎が多い人だ。
 手にしている本を開いて読み始めたのを横目に見ながら踵を返し、ニルギリを淹れるべくカウンターへと戻る。

 カウンターに戻ると、先輩も本を読み進めていた。
「ねぇ、野本君はよく本読むの?」
 読書の姿勢はそのままに、視線だけこちらに向けて佐伯先輩は訊いてきた。
「んー、毎日ではないですけど。先輩ほど読んではいないと思います。」
「でも結構難しそうな本読んでたわよね…お医者さんにでもなるの?」
「えぇっ、俺が医者とか…有り得ないですよ~」
 あれだ…喧嘩の時に使えるように、人体の急所とか腱の位置とかを覚えるのに見てたやつだ…こんな理由だなんて知れたらちょっと恥ずかしい…。
「先輩は何読んでるんですか?」
「ん~?これ?ジェームズ・ロリンズの『ユダの覚醒』。ん~、簡単に言うとインディ・ジョーンズみたいなお話かしら。謎と歴史と科学を上手いこと構成してて、アクションシーンも映画を読んでるみたいで面白いの。」
「へぇ…先輩ってそういうのが好きなんですね、女子って恋愛小説読んでるものと思ってました。」
「まあ、それも読まなくはないけど、そういうのは漫画の方がいいかな~。ジェームズ・ロリンズは執筆が速いから、シリーズも結構長くて。面白いから気にならないんだけど、ずっと読み続けちゃうから、ここでお茶を飲む間だけ、って決めてるの。」
「その本の面白さも然る事ながら、先輩の集中力も凄いんですね。せっかくお茶淹れたんですから、飲むの忘れないでくださいよ。」
「あら、言うわね、野本君。でも貴方が淹れる紅茶、深みがあるのに苦くなくて甘みを感じるの、冷めないうちに頂くわ。」
 言って先輩はカップを傾けると、幸せそうに頬を緩めた。
 ニルギリの蒸らしも程良く、給仕《きゅうじ》に向かった。

「ごちそうさま」
 先輩の声に顔を上げると、本を閉じて飲み終わったカップとポットをカウンター上に置こうとしているところだった。
「あ、恐れ入ります。」
 会計を済ませ、ドアを開ける。暑くはないけれど、少しぬるい空気が吹き込んで、佐伯先輩は眉根を寄せた。
「わ~、まだ涼しくなってないわね…」
「これから梅雨本番で、どんどん暑くなりますもんね…」
 言いながら店内がぬるくならないようにドアを閉める。
「私、冬の方が好きだわ…せめて陽が落ちれば少しマシなのに」
「夜道の女性の一人歩きは危ないですよ。今バイト上がれるなら送っていきたいところですけど…陽が落ちる前に帰ってください」
「あら、紳士なのね。でも送ってもらっちゃったらひなちゃんにヤキモチ焼かれちゃうかも?なんてね。それじゃ、また明日」
「気を付けて。いつもありがとうございます。」
 一礼して、先輩が見えなくなるまで見送る。
 曲がり角の直前、先輩が振り返って少しはにかんだように手を振ってきたから、つられて俺も手を振った。
 …先輩、いつも私服で来てるって事は、家はここと学校から近いんだろうか…?と考えながら店に戻る。

 佐伯先輩に出したティーカップを洗っていると、裏口から然が顔を出してきた。
「悠、調子はどうだ?」
「ん、今常連さんが一人帰ったとこ。」
 そうか、と然は首を伸ばしてホールを見渡す。
 ちら、ともう一人の常連さんがこっちを見たが、すぐ本に目を落とした。
「あの常連さんが帰ったら上がっていいぞ。マスターはもうそろそろ買い出しから帰ってくるから。」
 言って然はすぐに戻っていった。
「はーい」
 もう少し然が来るのが早ければ、昨日ひなが話してた佐伯先輩と会えたのになぁ、と思いながらカップを拭き棚へ片付けた。

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