séi - watcher 009 小さな山の主と悠の記憶
小さな山の主と悠の記憶
……暑い……。
纏わりつくような熱気。少し息苦しい。
昨日は割と涼しかったから、窓は開けずに寝たんだっけか。
カーテンから透けている外の日差しは強そうだ。
窓を開けて空気を入れ替える為に先ずカーテンを開けると、日の光が目に染みた。
風は弱くもなく強くもなく、調度良い感じで吹いている。
風に乗って夏独特の緑の香りがした。
よし、今日は然の所に行こう。
お茶と和菓子を恵んでもらうのだ。
汗でベタついたシャツを着替えて、坂の上の階段を上った先の神社へと足を運んだ。
*
通学路とはちょっと違う道を通って坂を上っていくと、小さい山のような森に差し掛かる所に少し長い階段がある。
石で出来た階段で、苔が生えたりしている。
階段を上っていくと、周りの木々の途中から竹が混じってくる。
階段を上りきると、そこには幾重もの刻を感じさせる神社と、神社に寄り添うように根を張る、両手を広げても囲いきれない太さのご神木と、それらを守るような竹林がある。
竹の葉擦れの音と、透き通るような光がなんとも言えない。
考え事をする時や、ボーッとする時は大抵ここに来ている。
「おう、また来たか」
声のした方を見遣ると、緋色の髪と右目を隠す黒々とした眼帯が印象的な、作務衣を着込んだ男、然が縁側に座っていた。
「今日は何しに来たんだ?また手合わせするか?」
「いや、今日はただボーッとしに来た。いい天気だしなー。」
「いい天気なのにこんな陰気臭い所に来るのか、お前は。今時の若者にしちゃ珍しい。」
「俺は喧騒よりも静寂の方が好きなの。」
「まぁそこに座ってろ。今茶を淹れてくるよ。」
言われて然が座っていた所よりも少し横に座った。
然は人が良くて、来ると大抵お茶を淹れてくれる。
いつも淹れて貰ってばかりで申し訳ないから、たまに茶っ葉や甘味を持って行ったりする。然の好物は抹茶味だ。
俺達二人して甘党で、和洋問わずお茶と一緒に頂く。
しかし今日は家に大したものが無かったので手ぶらで来た。
「そういやバイトはどうだ?お袋さんの助けに少しはなってるか?」
お茶を淹れてきた然は、そう言いながら元居た場所に腰掛けてお茶を手渡してくれた。
「ああ、お蔭様で。相変わらず帰りは遅いけどな。前よりは疲れた顔しなくなったと思う。」
*
俺の親父は俺が小さかった時に他界している。
写真を見れば顔はわかるが、自分の記憶の中の親父像は組み立てる事さえままならない。親父が居なくなった時に、楓《かえで》っていう妹が産まれてたらしいけど、遠くに住んでる親戚が里親になって、会ったことは一度もない。
バイトの給料をもっと貯金して、そう遠くはないいつかに、母さんと一緒に会いに行きたいと思っている。俺と違っておしとやかだといいんだけどな。
母さんは遅くまで働いていて、酷い時は単身赴任もあったらしい。
小さい頃だったからよく覚えてないけれど、親戚が用事が無い時に家に来てもらったり、友達の直哉の家に泊めてもらうのが常だった。
直哉の親もそんな母さんを嫌がったりせずに良くしてくれた。
小学四年の夏のある日に、一人自転車でぐるぐると走り回っていたら、思っていたよりも遠くまで来ていたらしく、住宅街が連なる中でポツリと森か山のような所を見つけた。
少し高い所に行けば、どこからどう来たか分かるかと思って、森の入り口の脇に自転車を停めて苔の生えた石の階段を上っていった。
上って行ったら、然がまるで待ち構えていたかのように立っていた。
箒を持って、今と同じ出で立ちで。
「お、坊主、丁度いいところに来た。手伝ってけ。」
と出会い頭に言い放ちながら箒を押し付けられた。
神社の周りは竹林になっていて、葉がこれでもかというぐらい落ちている。
「とりあえず参道の辺りをキレイにしてくれや。終わったらご褒美やるよ。」
釈然としなかったけれど、日はまだ高かったし断る理由も特に無かったので、無言で箒を握りしめる。
参道を掃き清めながら周囲を見たものの、思いの外竹が生えていて竹の葉越しに射す日の光が見えるぐらいで、少し風が吹いた程度じゃ葉の向こうの景色なんて全然見えなかった。
休日の昼間だから、俺と同じくらいの子どもの声や町の喧騒が聞こえそうなものだったが、葉擦れの音がそれらの音を掻き消しているのだろう、ひどく静かだった。
住宅街に囲まれていながら、少し切り離された世界のように思えた。
周りの様子が見えないという点ではここに来たのは失敗だったと思ったが、参道を掃き清め終わる頃には、遠いけどまたここに来てみたいと思っていた。
それに、この時はあまり感じていなかったが、今思い返してみると、なんとなくこの場所が俺を待っていたような、そんな気がする。
「終わったか。お茶淹れたからついてきな。」
ほどなくして然が顔を出してきた。
知らない人について行っちゃ駄目よ、と母さんに言い聞かされていたが、いかにも怪しい風貌なおっさんの割には怖さを感じなかったので、一応距離を取りつつ後についていった。
拝殿の右手側に社務所が建てられていて、社務所の縁側に案内された。縁側には座布団が二つ敷かれていて、そこに座っているように促されたので大人しく待つことにした。
しばらくして然がお盆の上に茶器とお茶請けのどら焼きを載せて戻ってきて、俺の隣に座った。
「さて…坊主、この辺の奴じゃねぇな。どっから来た?」
一発目からそんな質問。どちらかというと詰問されている嫌いさえあったが、見かけの割には物腰が柔らかかったのでそこまで厳しくは感じなかった。
質問しつつもお茶を湯飲みに注ぎ、どら焼きを差し出してくれた。
「八古間町《やこまちょう》の方。退屈だったから自転車であちこち走ってたらどこまで来たかわかんなくなって、高い所に行けば周りが見えるかと思ってここに来た。…いただきます。」
ぶっきらぼうに質問に答えつつ、お茶を飲んだ。
「そこそこ遠い所から来たんだな。親が心配してんじゃないか?」
「母さんは今日も遅くまでお仕事だもん。暗くなる前に帰れば大丈夫。」
「道は…覚えてないんだよな。ここに来たって事は。お前を家まで送れるほど俺も暇じゃねぇからな」
そう言って然もお茶を飲み、どら焼きにかぶりつく。
それに続いて俺もどら焼きに手を付けた。
「大体の方角が分かれば大丈夫。おじさんはここからだと大体どの辺か分かる?」
「…俺はおじさんじゃないんだがなぁ…。然だ、さん付けしないでそのまま呼んでくれて構わない。で、この神社の南東の住宅街を抜けると大通りがあって、その先に三津木駅があるんだが、駅の名前は聞いたことあるか?」
然はどら焼きを食べながら南東の方を指差して説明を始めた。
こっちもどら焼きを頬張りながら答える。
「うん、聞いた事ある。僕は野本悠。」
「悠、か。…続けるが、その駅の真逆だな。八古間町はこの神社の北西の方にある。」
「ふーん…なんとなく分かったかも…。ねぇ、然は僕が変な奴に見える?」
「ん?何でだ?そりゃ銀髪で俺みたいな目の奴は珍しいが…何も口答えせずに掃除を手伝ってくれて最近のその辺のガキよりは良い子だと思うがな。お前こそ俺が怖くないか?大抵のガキは一目で泣くか逃げるんだが。」
そこで然に眼のことを指摘されて初めて、俺と然の目が似たような色をしている事に気付いた。
「然は怖い人なの?怖い人だからここに一人でいるの?」
「ん~、まぁ当たらずとも遠からずかなぁ。一人でいるのはここが好きだからだよ。」
どこか遠い目をして柔く笑った表情は、怖い人にはとても見えなくて、逆に安堵した。
「僕もここは初めてだけど好き。でもまた来れるかなぁ…。」
「来ようと思えば来れるさ。…ただ夜は来ない方がいい。この辺りは物騒だからな。」
「そっかぁ。じゃあ休みの日の明るい時だったらいつでも来ていい?」
「おう、それなら構わねぇぞ。いつでも来い。」
言って然はゴツゴツした掌で俺の頭をグリグリと撫でた。
なんだか父親にそうされているような感じで嬉しかった。
その日はやっぱり母さんの帰りが遅くて寂しかったけれど、いつもより少しだけ温かかった気がした。
それからは毎週のように然の所へ通った。
家からここまでは遠かったけれど、二、三回来るともう道もほぼ覚えていた。
掃除を手伝ったり、組み手の真似事をしたり、縁側でお茶を飲みながら学校での出来事や仲良しの直哉の事を話したりした。
その度に一緒に笑ったり、たまに叱られたりして、然が父さんだったらなぁ…なんて思っていた。
でも、もちろん然にばかり時間を割いていた訳じゃなくて、世話になっている直哉の親の手伝いや、自宅では出来る限り掃除をしたり、洗濯物が山盛りになったのを片付けたりした。
そんな生活も続けば、家事も大体は出来るようになった。
中学二年の冬休みの頃に引越しをした。
「一緒に卒業したかったのにーっ!」と言いながら、直哉は泣いてくれた。
そんなに遠くに行くわけじゃないから泣く事もないだろう、と少し困りもしたが。
前は八古間町の方だったが、今度の家は三津木駅の近くで、然の所からそう遠くない場所だった。
前より少し手狭な感じにはなったけれど、親子二人で暮らす分には充分だった。
それでも母さんが大変そうなのは相変わらずで、少しでも助けになれたらと思い、働く所はないかと然に相談したが、
「今は体力をつけておくんだな、高校生になったら紹介してやるよ。」
と言われたので、然と組み手をしたり、家でストレッチや筋トレをしたり、走り込んだりもした。
そして高校生になって、然から喫茶店で作法と茶の淹れ方を勉強して来い、と言われ、駅と住宅街の境にある喫茶店を紹介された。
建物の様式こそ違えど、どことなく然の神社と似た雰囲気で、抵抗なく働き始められた。
週に二~四回のペースで働いていて、少しは美味しくお茶を淹れられるようになったと思う。
*
「今度来た時は俺がお茶を淹れてもいい?」
「おう、お手並み拝見させてもらおうか」
笑顔で湯呑を傾ける。
初めて然と会った時から、もう五年以上の月日が流れている。
身体は以前と比べたら大分大きくなって然と変わらなくなったんだが、それでも然にはとてもじゃないが敵う気はしない。
いつか然を超えたいと思うが、本当にそんな日が来るのだろうか…とも思う。
否、いつまでも自分の師で在り続けて欲しい、というのが本音だろう。
力だけじゃなくて、考え方とかあらゆる面でまだまだ俺は足りない部分が多いと思う。
だから今でも学校での事は然に話すし、先生の言う事が理解出来ない時は、然に訊くと何となく先生が言わんとしていた事が理解できた。
今でも喧嘩の絶えない身で、先生にもよく呼び出される。
いつもこの容姿に難癖付けられて喧嘩に発展するのだ。
で、俺の性分的に売られたもんの売られっぱなしはとても気に喰わないのである。
でも、俺から手を出した事は無い。
口で遇《あしら》っても効かない奴とか、先日みたいに凶器を持ってる奴は別だけど。
だって危険な目に遭う前に危険を排除するって至極当然ではないだろーか?
そんな風に口走ったらやっぱり怒られた。
先生曰く、どんな時も手を出しちゃいかん!と。
一回馬鹿正直に手を出さないでみた事もあった。
気が付いたら保健室のベッドの上で、先生は今度は、何でやり返さなかったんだ!?と。
いやー、アンタが手を出しちゃいかんと言うから出さなかったんだけどな~と内心思いつつ、あぁ、この先生は不器用で教えるのがヘタクソなんだ、と気付いた。
だったら然の方がよく知ってる。
自然とそういう方向に思考が流れていった。
その時の事を然に話したら、開口一発目が「お前は馬鹿かっ!」だった。
「先生が言いたかったのは『必要以上の手を出すな』って事だ。お前はゴキブリ一匹退治するのにミサイルを使うか?使わないだろ?お前の場合は相手が売ってくる喧嘩を懲らしめようとする以上に、相手を再起不能なまでに懲らしめている。
まあもっと簡単に言えば殺しにかかっている、だな。
前にも喧嘩で殺しかけた事があっただろう?それがいけないんだ。
お前が今いる所は必要最低限の力で阻止すれば十分、無駄に力を振るったってこっちが疲れるだけだ。
大いに力を振るっていいのは大事なものを守る時だ。それ以外はあまり手を出すな。出すとしても加減を考えろ。それだけだ。」
そう然が教えてくれたから、喧嘩をしても相手を殺しかけるような事は無くなった。
物事の善い悪いだけじゃなく、どうして善いのか、悪いのかをちゃんと教えてくれる。
だから俺も納得してちゃんと理解できた。今思えば何でそんな簡単な事に思い至らなかったんだろうと、自分の愚鈍さに呆れてしまう。
然は本当に父さんみたいな存在だ。
父さんがいたらきっとこんな感じなんだろうな、とよく思う。
*
そういえば明日はひなに平泳ぎの特訓をするわけだけども、教え方ってのがイマイチわからない。よし、ちょっと訊いてみよう。
「なぁ、然は泳ぎ方って教えた事あるか?」
「泳ぎ方?…無い事は無いけどな。何でだ?」
然は湯飲みをほぼ逆さまに傾けて、急須に手を伸ばしながら訊き返してきた。
「いやー、同じクラスの奴に平泳ぎの特訓をする事になってさ~。俺だったら教えるの上手そうとか言われたけど、実際どう教えたらいいかわかんないんだよなぁ、俺。」
そう、ぶっちゃけ人に何かを教えた事なんて今まで全く無い気がする。
「まあ水泳だしな~、理屈こねるよりは実際にやってみた方が早いだろうな。お前に組み手教えた時も真似から入っただろ?」
「あ~…そうだなぁ。」
「ひとつひとつの動作をちゃんと教えて、それから泳いだ方がいいだろう。平泳ぎはひと掻きひと蹴りがちゃんと出来ないと駄目だからな。先ずは手の動きから入って、それから足だな。」
「うん、そういえば足の動かし方がわかんないって言ってた。」
「そうか、なら足を重点的に教えてやればいい。平泳ぎの足の動きは別に水中じゃなくても練習は出来るが、慣れるまでは水をちゃんと掻けてるか感覚を掴む為に水中で練習するといい。」
「なるほど~、なんとなくイメージ出来た。」
「そうか。その子の上達ぶりを見ればお前がどれだけ教えられたか分かる訳だ。…で、その子は女の子か?彼女か?デートか?」
意地悪そうに笑って、重ねて突拍子も無い事を訊いてきた。
「はぁ!?何でそこでそんな単語が出てくる訳!?」
「だぁ~~っておめぇったら嫌に嬉しそうだもんなぁ~。そらピンとくるって。」
然はケラケラと笑いながら俺を茶化している…。
なんか凄くムカツクー。
「…俺そんなにニヤけてた?」
「あぁ。最近になってちょっとずつトゲが取れてきてる感じがするしな~。一昔前と比べたら大分表情も明るいしな。」
一昔前――喧嘩が絶えなくて、相手を殺しかけた頃の事を言っているのだろう。
「俺ってそんなに荒んでたか?」
「荒んでたってもんじゃねぇよ、あん時ゃ殺人犯みたいな目ぇしてたぜ?…その娘に感謝しなきゃな。」
茶化した表情が一転して穏やかな表情に変わった。
久しぶりにグリグリと頭を撫でられる。何か、照れくさい。
「言っとくけど、別に彼女でもねぇし、そんな風に思った事もねぇよ。向こうから勝手に寄ってくるだけだよ。」
溜息混じりに答えた俺に、然はやれやれといった体でぽんぽんと軽く俺の頭を叩く。
「そうかいそうかい。…特訓が終わって気が向いたらこっちに連れてこいよ、どんな娘か話してみたい。」
「…うん、気が向いたら連れてく。」
素っ気なく言って、湯飲みに残ったお茶をぐっと一気に飲み干す。
申し訳なさそうに然が急須を向けてきたので、もう一杯お茶を飲む事にした。
*
――それからまた少し他愛の無い事を話して、帰る事にした。
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