見出し画像

【短編】くにのために

 ある年の八月、東京は神保町の飯田橋駅前にさあっと一筋の風が吹き、軍服姿の青年が現れた。青白い顔で、目は血走り、日の丸に「報國」と書かれたはちまきを飛行帽の上に巻いている。あどけなさが残る青年にはあまりにもミスマッチな格好だった。時勢にまったくそぐわない、なんとも異様な格好だが、周囲の人々は彼を気にかける様子もない。青年は驚いたように大きく目を見開いたあと、不思議そうな顔をしながら、ゆっくりと人の波を追い始めた。

 青年は交差点にさしかかった。ちょうどそこになにやら大声で叫ぶ集団がやってきた。彼らは「戦争反対!」や「自衛隊廃止!」などとリズミカルに叫んでいる。青年は無感情にその様子を眺めていた。集団の周りには何人かの警察官がいた。警察官は彼らの列を乱さぬように動いていたが、何かの弾みで一人の手が集団のうちの一人の体に触れてしまった。たちまち集団の一部と警察官達は揉み合いになった。彼らは警察官にたいして、「国家の犬め!」だの「俺たちの平和のためのデモを邪魔するのか!」だのと叫びながら殴りかかった。青年は顔をしかめてその様子を見ていたが、集団の中から
「俺たちは、これ以上哀れな戦争の犠牲者を出さないために行動してるんだ!」
という声が聞こえた途端、青年は悲しそうな顔になり、交差点から足早に離れていった。

 青年は靖国神社にやってきた。ラッパの音色が響いていた。懐かしい響きだったと見えて、青年の顔は少しほころんだ。青年は昔を懐かしむように大村益次郎像を眺め、ラッパの響きに吸い寄せられるように鳥居をくぐった。
 鳥居をくぐった先には、青年と同じような軍服姿で、「大日本報国会」とかかれた襷を掛けた5人ほどの男たちが並んでいた。ラッパを持った男を先頭に、最後尾の男は「英霊のための慰霊行軍」と書かれたのぼりを持っている。先ほどまでの青年の顔は何かを期待するかのようだったが、男達のでっぷりとたるんだ腹をみて、また曇ってしまった。そのとき、先頭の男が口を開いた。酒に焼けた喉をがなりたて、
「小隊、まえー進め!」
と号令をかけると、ラッパを吹き鳴らし、足を大げさにあげて前に歩き始めた。おおいに得意げな彼を先頭に、集団はわらわらと本殿に進んでいった。青年は正視に耐えず、一目散に益次郎像の横を駆け抜けていった。

 靖国から逃げ出した青年は、いつのまにかとても静かな公園にたどり着いていた。川岸にあるそこには、軍服姿の男も大声で叫ぶ集団もいなかった。いくつかあるベンチの一つには、一人の老婆と、孫娘だろうか、いつつほどの少女が仲睦まじく座っていた。中心の六角形のお堂を挟んで反対側のベンチのそばでは、白いTシャツ姿の老人が黙々と草をむしっている。先ほどまで泣きそうな顔をしていた青年は、息を落ち着かせながら老婆たちの隣のベンチに腰掛けた。青年が静かな空気に耳を傾けていると、孫娘が老婆に話しかけているのが聞こえてきた。
「おばあちゃん、おなかがすいたよ。」
「そうかい。じゃあお昼にしようか。」
老婆はそう言うと鞄の中からアルミホイルに包まれたおにぎりを取り出し、半分に割って少女に手渡した。
手渡された少女が早速かぶりつこうとすると、
「まだだめ。きちんと手を拭かなきゃね。」
老婆は鞄から濡れたタオルを取り出し、少女の手を念入りに拭いてやった。反対側の老人を見ると、手を休めて、むしった草の入ったゴミ袋をぼんやりと眺めていた。彼らの様子をじっと見つめていた青年は、ふと中央のお堂に目をやった。ゆっくりと立ち上がった青年はお堂に近づき、そばの石碑を見つめた。石碑には「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」と書かれている。青年はそれをまじまじと見つめていた。しばらく後、青年はいささか興奮したように石碑を両の手で掴んだ。さらに振り返っておにぎりを分け合う少女と老婆を見た。ぼんやりと自らの成果を眺める白いTシャツ姿の老人を見た。彼らを見つめる青年の頬は紅潮し、唇にはうっすらと笑みさえ浮かんでいた。

「これだ。」


 青年はたしかにそうつぶやくと、飛行帽をかぶり直し、はちまきをきつく締めた。その目はあたたかく、決意に満ちていた。そして、一筋の優しい風が吹いた。それは青々とした木の葉を揺らし、心地よい音をもたらした。軍服姿の青年の影は跡形もなく消え、一本の飛行機雲が青空を渡っていた。


                               了

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?