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読むに値しない
by りょうや
先程迄の雨音が止み陽が差し込んできたので少しの気晴らしにでもなればと思い駄文を綴るとする。
有り難いことにこれが初稿となるため何か気の利いたことでも、書こうと思ったが偉そうに語れる程の実績も経験も無い。電車の端の席にただ座りスマホを弄るってしまう発想の狭さに嘆いたり、足の置き場に困惑してしまう行き場の無さに落胆するくらいしか書き得ない。
そんなことで、時間を潰しても仕方ないと言いつつもその仕方の無さが無性に好きだったりもする。
かの学者は言った。「無駄を愛せ」と。
何かを思い出そうとするとき実績や結果というよりも改札口の喧騒やsafariの検索履歴、空腹を捉えるおでん屋の匂いの方が身近に感じられうる。
それらは、人前に晒してしまえば風化されてしまい彩りを失う。それどころか、日常や普通に焦点を当てた垢のつきまくったものの域に収斂されるだろう。
エリック・ドルフィーが音楽について述べたと同じようにそれらは空気の中に消えていって二度と戻りはしない。
それらが、残されていたとしてそこには価値はつかない。かつて失われた何かがそこにあったからこそ、ノスタルジーや美しさといったロマンティシズムが付随されうるのであろう。
ヘンリー・ダーガーの作品が人々に称賛されたのは、死の直前まで陽の目を浴びることが無かったからである。1万5千ページにも渡る「非現実の王国で」は、そういった物語があったからこそ人々の琴線に響いたのであろう。もしも、制作直後に有名になっていたのであれば物語は別のものへと書き換えられていたのであろう。そこには、ノスタルジーやロマンティシズムは感じ得ることができないのであろう。
作品そのものよりもむしろ、作品の物語性こそが魅了させたのであろう。
では、もっと魅了させうるものは何であろう。
それは、誰の目にも触れず意味付けさえもされなかったものたちである。
無価値、無意味、無秩序な事物。
それらに、立ち留まって腰を据えてみる年も私達には必要なのかもしれない。
短くなった鉛筆に思いを偲ばせながら指を休めんとする。
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