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41-船井幸雄と中矢伸一

 うちの奥さんが2020年の11月に伊勢神宮に行って、それ以来様子がちょっとおかしいのだが、まあこの人は元々ちょっとおかしかったので、僕にとっては普通と言えば普通だけど、11月の18日にも一緒に食事に行きましょうと言われ、僕は「回転寿司なんかどう?」と言ったが、奥さんの独断でサイゼリアに行くことになった。この時に限らずうちの奥さんはサイゼリアでデキャンタのワインを飲むとチャネリング状態になる。この時もサイゼリアでデキャンタの赤ワインを飲みながら、延々一時間くらい説教をくらった。

 説教の内容は支離滅裂で、あまり文章にはできないのだが、要は「あなたは生きたいの、死にたいの」という二者択一を迫る内容だった。「まあ、生きたいね」と言うと、パチパチパチと拍手され、とりあえず合格だったようだった。家に帰ってからも、今年発売された新酒の日本酒を飲まされ、いいかげんつきあいきれなくて先に眠っていたら、なんとか奥さんも寝たようだった。

 僕は午前3時半くらいに目が覚めてしまい、眠れなくて1時間くらいネットを見たりしてベッドに戻ると奥さんが起きてきて、「フナイユキオって誰?」と、突然聞いてきた。どうも奥さんの夢に出てきたらしい。船井幸雄さんのことかなと思い、「有名な経営コンサルタントだった人で、スピリチュアルに関する本もたくさん出している人だよ」と教えると、「その人が、どうも、伊勢神宮からついて来たらしい」と言うのだ。

 詳しく聞くと夢とはちょっと違って、霊界通信のようなもので、真っ暗な闇の世界を船井さんが彷徨っていて、なんだか奥さんの周りだけが明るかったので、引き寄せられるように近寄ってきたらしい。奥さんは船井幸雄さんのことは全く知らなかったようだ。当然もう亡くなっている人だということも知らなかった。名前だけ聞いて演歌歌手かなんかだと思ったらしい。

 船井さんには何か解決したいことが残っているそうで、奥さんにはどうにもできないので、とりあえず霊能師匠の山村さんのところへ行ってくださいと言おうと思ったそうだが、僕は度々山村さんに丸投げするのはあまり良くないんじゃないかと言った。つい先頃もアマテラスとニニギノミコトを山村さんのところへ送り込んだばかりだったので。

 そもそもアマテラスとニニギが来た、なんて言うこと自体、畏れ多いことなのだが、うちの奥さんがそうだと言っているので、そうだったのですと言うしかないのだ。その時のお礼というか、アマテラスのお導きによって、今回奥さんは伊勢神宮に行くことができたそうだ。

 というわけで船井幸雄さんだが、奥さんも反省し、山村さんには頼らず、霊界に向かって、「誰か船井さんを迎えに来てくれませんか?」と呼びかけたら、赤鬼が来てくれたそうだ。赤鬼はとても怖い顔をしていたが、別れ際にはにこやかにウインクしたらしい。この時に船井さんを迎えに来てくれた赤鬼というのが、どうも奥さんのお父さん方のおじいさんだったらしいのだ。奥さんは夢の中の霊界通信でこの事実を知ったそうだ。僕も今の僕として生まれる前には、霊界で鬼をやっていたらしいのだが、つくづく鬼と縁のある家系のようだ。

 後になって思い出したのだが、僕が前世というものに興味を持ち出したきっかけが、船井幸雄さんの本を読んだことだった。だからむしろ奥さんよりは僕の方が、船井幸雄さんには近しいはずなのだ。船井さんは人の形はしておらず、人魂のようなものとして現れ、「フナイユキオ」という言葉が奥さんの頭に浮かんだので、名前がわかったらしい。

 それからしばらくしてうちの奥さんがウィキペディアで「日月神示」という項目を見ていた。「日月神示」はさすがに知らない方も多いと思うのだが、これは大本教という、日本宗教史上最大のカルト宗教と言われている教団の末端の組織に降ろされた、神からの予言と言われている奇書だ。

 日月神示や大本教や出口王仁三郎については、それだけで膨大なページがかかるくらい複雑怪奇な話なので、ここでは省略するが、うちの奥さんの頭の中に「ヒツキシンジ」という言葉が繰り返し浮かんできて、「なんだろう、人の名前かな?」と思ってググッたら「日月神示」のページにたどりついたそうなのだ。

 ちなみに僕と「日月神示」の歴史は深く、時は30年ほど前にさかのぼる。その頃僕は東京の江東区の豊洲に住んでいて、勤めていた東映CMを退職し、無職で失業保険をもらいながら、近所の公民館のような小さな図書館の
今で言う「スピリチュアル」の棚の本を手当たり次第に借りて読んでいた。
その中に船井幸雄さんの著作と中矢伸一さんの著作があったのだ。

 船井幸雄さんの本に書いてあった前世というものが存在するという話と、
中矢伸一さんの本で紹介されていた出口王仁三郎についての話に、とても興味を持ったのだが、日月神示の話まで行ってしまうと僕のキャパシティを超えていた。

 それでそれらの煩雑な情報を一旦「保留」にして、東京から福岡に引っ越し、前の奥さんと結婚して離婚し、今の奥さんと再婚して熊本に引っ越したというのが大体のあらましだ。その過程に霊能師匠の山村さんとの出会いもある。そして数日前に奥さんが伊勢神宮に行って、奥さん経由で「フナイユキオ」と「ヒツキシンジ」という30年も前の僕の歴史が掘り起こされたのだ。

 実は僕と「日月神示」の浅からぬ因縁は、10年ほど前に念力社長のプロダクションで働いていた時にも一度浮上していて、その社長が持って来たインチキスピリチュアルのような仕事で、英国の霊能者のジュード・カリヴァンさんと中矢伸一さんが「日月神示」の発祥の地、麻賀多神社を訪ねるというビデオの編集を担当するという形で関ったのだ。

 そのビデオの撮影素材を見ていて、「あれ、この人中矢伸一じゃん」と気付いたのである。でもその時も社長の出す念力に耐え切れず、その会社を強引に円満退社して今に至るのである。そしてまた今、うちの奥さんを通じて「日月神示」である。逃げても逃げても逃げきれない「逃げちゃダメ」なんだ。写真はその時に僕が編集したインチキ臭いDVDのジャケット、デザインは僕ではありません。ちなみにこのDVDは「☆日月神示 発祥 麻賀多神社編」というタイトルでYouTubeにもあがっています。

 このDVDは、あの「オーラの泉」で有名な江原さんも通ったという、イギリスのSAGB(英国スピリチュアリスト協会)出身の、霊能者の女性(多分イギリス人)のジュード・カリヴァンさんを、ある出版社が日本に招いて、日本のパワースポットを何カ所か訪問させ、その様子を本としても出版するしDVDとしても販売するという企画で、僕の担当は、撮影済みのDVD用の映像を、編集してまとめるという仕事だった。これは、以前にも書いた、強い念力を出す社長の会社にいた時に担当した仕事で、やはりその社長はそういう世界とつながりがあったので、このような仕事も回ってきていたのであった。

 その撮影素材の中で、ジュード・カリヴァンさんは、ナビゲーター兼通訳の中矢伸一さんの案内で、千葉県にある麻賀多神社を訪問していた。その神社はあまり有名ではないが、大本教と深い関係のある神社である。その本殿の前でジュード・カリヴァンさんが「今回の訪問においては、カラスがとても重要な役割を持っています。」と言った。

 確かに日本ではカラスは神様の使いとされており、その神社にもカラスがいるようで、画面に映ってはいないが、時々遠くからカラスの鳴き声が聞こえていた。中矢伸一さんは、「え、カラスがですか、本当ですか?」と、
ちょっと意外というような口調で聞き返した。すると、その質問に答えるかのようなタイミングで、これまでにないくらい大きなカラスの声が「カァー」と入ってきたのである。

 ジュード・カリヴァンさんは「ほらね、カラスがそうだと答えているでしょう?」という感じの表情をして笑った。僕も、このタイミングとこのボリュームでカラスの声が入ってくるというのは、ちょっと偶然とは思えないと感じたし、このDVDの素材の中で、カラスがそのように鳴いたのはこの時一度だけであった。

 そのことを社長に指摘すると、実はこのDVDは、そんなわかりやすいところだけではなく、あちこちに「見る人が見たら見える」ものが写っている、ということであった。この社長は撮影現場にも同行していて、現場では色々なものが「見えて」いたそうなのだが、僕が画面上で気付いたのは、その神社の御神木に、明らかに人の顔の形をした、コブというか、ウロのようなものがあったことだけである。しかしそれは、「自然にできたもの」と言えば
言えないこともないものであった。

 ただ、そういうわかりやすい、誰にでも見えるものだけではなくて、他にも色々なものが写っているので、そういうものを「見る」能力を持っている人が見ればすごいDVDになっているらしかった。例えばカラスのことで言えば、撮影の時、神社の鳥居の上にカラス天狗が座っていて、撮影クルーを見下ろしていたそうなのだが、「まるでデビルマンみたいだったぞ」と念力社長が言っていた。

 結局そのDVDが発売される前に僕はその会社を辞めたので、そのDVDの反響がどのくらいだったかは知らないのだが、検索しようとしても、ジュード・カリヴァンさんの名前も、出版社の名前も当時は忘れてしまったので、見つけることはできなかった。

 ちなみにジュード・カリヴァンさんの来日に合わせて、ジュード・カリヴァンさんに色々相談できるという、予約制のスピリチュアルカウンセリングというものも行われていたようなのだが、たしか「30分で5万円」くらいの、法外な料金のものだったので、全体的に胡散臭い企画であったことを追記しておく。ただ、カラスの鳴き声のボリュームとタイミングだけは、あれを偶然と言ってしまえば、どんなものでも「偶然」の一言で拒絶することができるので、そこだけは一線を引いておきたいと思ったのである。


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