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第3回 中小IT出身の私がなぜプロジェクトマネージャになれたのか?(挫折編)

こんにちは!
株式会社クリエイションラボの平澤です。

前回は分業化が進んでいるがために、上流領域と下流領域間にとてつもない壁があることを説明させて頂きました。

それを読んで、先行きに不安を感じた方もおられるのではないでしょうか?

でも、心配はございません。
2次請・3次請の立場にいた私がPMとして働けている訳ですから。

では、小さなシステム会社出身の私がなぜ大規模プロジェクトも担うPMになれたのか?
今回より2編に分けて解説させて頂きたいと思います。

・未経験からのスタート
今でこそPMとして働いている私ですが、実は異業種からの未経験スタートでした。

そんな未経験の私をお雇い頂けたのは小さなシステム会社でして、テストデータの作成業務から開始したのです。

尚、IT未経験者が就ける定番業務はテスター・コーダー・サポートでありますが、これらの業務は根気がいるため、かなりの比率で離脱してしまいます。

私は最初の会社がブラックだったので(笑)続けられましたが、これらの職制は単純作業ゆえにスキルが身につかず、いわゆる「潰しがきかない」状態に陥ります。

生き残れたとしても次へ進む段階において、設計や構築といった経験がないため、クライアントに職務経歴書ではじかれるといったジレンマを経験した方も多いのではないでしょうか?
かくいう私も、鬱々とした状態で過ごしていた次第です。

・窮状を脱出するため一度目の転機
そんな窮状を脱したい一心にて、周囲に相談をしまくった所、先輩から東京の支店長に繋いで頂きました。そしてすぐ支店長にも相談した所、「なら東京来るか?」となり、急遽転勤が決まったのです。

そうしたことで、窮状脱出策の一点目は
「物事を抱え込まず、周囲に相談する」です。

「…何だ、そんなこと?」と思われるかもしれませんが、以外にできない方が多いのです。

日本人特有というべきか、相談する=弱い自分を見せる→恥 みたいな感情を抱き、心の中に抱えてしまう。読者にも、ギクッとされる方がおられるのではないでしょうか?

私はこうして、周囲に相談したことで状況を変えられました。
シンプルなことですが、皆さまも心の片隅に置いて頂けますと幸いです。

・背水の陣で臨んだ日々
晴れて転勤となりましたが、上京後、すぐにネットワークの運用保守業務に就くことができたのです。そこは設計もやらせて頂けたため、これは幸いであり、状況を変えた甲斐があったというものでした。

ただし、ここで再び壁が…

皆さんは「わからないがわからない」 みたいな感覚はお分かりでしょうか?
要するに、専門用語に囲まれて意味が分からないし、どの様に勉強したらよいかわからない。人に聞くにも何て聞いたらよいか分からない。

業務初期においてこの状況に陥る方は多いと思いますが、私もそうでした。とはいえ抱えても状況は変わらない。
ですので、私はどうしたかというと、とにかく周囲に聞きまくりました。当然邪険に扱う方もおられましたが、そこで引いては成長もできない。だから恥も外聞もなく聞きまくったのです。

こうして得た情報は自身として咀嚼して、とにかく実践。そして習得した知識を他の方へフィードバックし、スキルをより強固なものとしていきました。

シンプルなことですが、分からないことは自分で調べるよりも先に聞く。
調べることは確かに重要ですが、調べると数十分かかるものが聞けば数分で済みます。その方が合理的だと思いませんか?

そして重要なのは、得た情報を他の方にもフィードバックし、共有する。
この行動が重要で、フィードバックすることで自身のおさらいにもなり、得た知識が確固たるものとなるのです。

以上にて、窮状脱出策の二点目は
「成長を意識するならとにかく聞く。そしてフィードバックする」です。

ここからは私の話となりますが…
私自身起業した上で、ITのことは理解できておりますが、経営に関する知識はそこまで豊富にありません。当然ですが、起業自体が初の経験なので。

そのため今でも心掛けていることは、分からないことは各分野のプロに恥も外聞もなく聞いて、その上で実践して、理解したら後進にフィードバックする。このシンプルなタスクを繰り返すことで、この年齢になった段階においても成長を実感できているのです。

皆さんもこのシンプルな取り組み、いかがでしょうか?

・二度目の転機、そして退職
こうして貧乏脱出を目標にがむしゃらに過ごしていた私でしたが、職務経歴書の貯金ができたため、その福利として30代で転職活動を始められたのです。

30代前半は転職に有利な年代でありましたため、おかげ様で五社内定を頂きました。結果としてかなり熱心に誘って頂いた独立系SIへ転職したのですが、またまた壁にぶちあたります。

私としてはマネジメント志向を強く持っていたため、裁量を任される会社に転職したつもりでした。

が、実際はマネジメント系の業務はそれほどなく、任される業務は大手SIや情報サービス会社から委託されたシステム構築(手を動かす方)であったり、運用保守といったものでした。
※1次請と説明されておりましたが、実質は2次請ですね。

こうして希望とかけ離れた毎日を繰り返し、それでも腐らず過ごしていたのですが、ついに限界を迎え退職となってしまいます。

・人生最大の危機
この苦い経験から、あくまでマネジメント領域を目指すため、コンサルティング会社やマネジメント特化の会社に応募を繰り返しました。

でも結果は大惨敗。。。

提出したレジュメも全然通らず、応募先からお断りの日々。
無職期間が長引き、貯金も減り、食事も喉を通らない日々。

30代前半時の転職活動が順調だったため、退職後も「まあすぐ見つかるでしょ」という甘い感覚で臨み、完全に裏に嵌ったのです。

まさに人生最大の危機!!

と…
字数の関係で今回はここまでとなりますが、次回は危機的状況に陥った私がどの様な経緯で起死回生できたのか。
そして本題である「なぜ、PMになれたのか」についてご説明させて頂きたいと思います。

それでは皆さま、お読み頂きありがとうございました。
次回もお会いできることを楽しみにしております。


■自己紹介
株式会社クリエイションラボ
代表取締役社長 平澤 富輝

エンジニア歴28年。
インフラのエンジニアとしてキャリアをスタート。内資/外資、業種を問わず多くのお客様先でプリセールスやフロントSE、プロジェクトリーダーからプロジェクトマネージャを歴任し、大中小、百以上の案件やプロジェクトに携わる。

会社員時代は最終的に30名を束ねるグループリーダーも担い、その長い経験の中でマネジメント人材育成の重要性を感じ取り、その裾野拡大を志して独立する。
「エンジニアとは才能でなく、学ぶ姿勢と少しのセンス」が持論。

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