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失われたカッパを求めて 8

私はとっさに窓から離れた。
布団に隠れようとふりかえりかけて、そんなことをしている場合ではないと気づき、あわてて窓のそばに近づいた。駐車場をみおろすと、すでにそこに人影はなかったが、くらがりのなかでたしかに特徴的なモツゴマルの濡れた足跡が確認された。足跡はこちらにまっすぐにむかってきていた。
コツン。と窓をたたく音がした。みると紙でくるんだ小石が窓の外のちいさなバルコニーに落ちていた。息が乱れた。
しかし、その紙は私をさらに深い混乱に陥れた。
「逃げろ」
と、くしゃくしゃの紙には汚い字で書いてあった。そしてこの汚い字には覚えがあった。
そう、モツゴマルの字なのだ。

攻め込んでくるモツゴマルが逃げろという。
私の理性は混乱を極めていた。山火事に追われて辿り着いたのが切り立った断崖絶壁だったというような感じがした。なによりも奇妙だったのは、逃げろというモツゴマルに何か確かな優しさのようなものを感じていた自分自身である。
私はモツゴマルの優しい部分をあえて想起しないようにしていた。しかしモツゴマルがあの夏の私の支えになっていたこともまた確かなのだ。

学校に私の居場所はなかった。
私は容貌が優れないのでそれをみんなからからかわれることも少なくなく、幼い自尊心はいつも傷つけられていた。家に帰ると、両親は優しくはあったが、その指示のひとつひとつには、どこか管理への意志が感じられた。そして、両親もまた私の美しくはない容貌を滑稽なだしものを見るような目で確かめることがあった。
私は毎夜、風呂にはいったときは、鏡をみながら、ここがもっとへっこんでいれば、ここがもっと大きければ、と両手でぐいぐいと顔面をおして変形させようとしたものだった。

モツゴマルは私に容貌の点で劣等感を抱かせなかった。
いつも私の座る場所にタオルをかけてくれ、冷たい清水をいっぱい飲ませてくれた。それからその剽げた顔でおかしなことをいったり、私の知らない物語をしてくれたりした。川魚の焼き方を教えてくれた。おいしい野いちごのなる場所を教えてくれた。水面をどこまでも跳ねていく水切りのやり方を教えてくれた。
「兄ちゃんだったらよかったのに」
魚取りをするモツゴマルの背中にむけた私のあのときのつぶやきは本心ではあったのだ。
しかしモツゴマルはおそるべき速度で豹変した。優しいモツゴマルと残虐なモツゴマルが入れ替わり立ち替わり、私の情緒を混乱させた。

「逃げろ」と書かれた紙を見た。
どういうわけか、ほんとうに逃げなければならない気がしてきた。ここにいてはまずいような、なにか決定的な失敗を犯してしまいそうだった。
私はモツゴマルと正面からでくわすおそれは考慮しながらも、いてもたってもいられず、とにかく病室を出ようとした。
そのとき、がらりとドアが開いた。

「おや。おトイレかな? 体調は大丈夫かい?」
見回りにきたカウンセリングの先生がそこにいた。

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