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過去の自分に感謝!

ダウン症候群の長男が生まれてから、病院探しの連続

長男が生まれて

結婚3年目に生まれた長男はダウン症だった。

里帰り出産した私に産婦人科の先生が
「大学病院で検査をしないと、はっきりは言えませんが
 お子さんはダウン症候群の疑いがあります。」
と、静かに言った。

今思うと、産婦人科の先生は確信していたとは思う。

でも、一応、検査受けてね・・・と

紹介状を持って地元大学の医学部の病院で
血液検査を受けた。

検査の結果が出た時に、大学病院の先生から
「住所地に戻ったら、小児神経医、または
 小児精神科医を探してください。」
と。

え!何その科?

自分で探すの?

ダウン症候群の場合、内臓になにかしら合併症を
持って生まれてくることが多い。

その場合、早急に治療が必要になるので
病院を紹介してもらえることがある。

しかし
長男は内臓などには全く問題が無かったので
紹介などは無く・・・・

検査の結果を聞いたその足で
自分で運転して自宅に戻ったのだが

頭の中は
「どうやってお医者さんを探すの?」
の、疑問でいっぱいだった。

よくも、事故など起こさず無事に帰ってこれたなあ。

やっと繋いでもらえた

自宅に帰ってまずやったことは
「電話帳で探す」こと。

なんて原始的!

だってさ。その頃はネットなんてそんなにね。
もう、どうすれば良いか分かんないわけ。

そして、当然みつからない。

そんな時
里帰り出産する前に依頼していた訪問保健師から
連絡があった。

訪問した保健師さんは
体重の増えない長男を見て
市の保健センターに行けるよう手配してくれた。

保健センターの健康チェックで
病院の検査の時に言われたことを伝えた。

保健師さんに
「一人で大変でしたね。」
と言われて、涙が止まらなくなった。

保健センターから専門の医師に紹介できることも
教えてくれた。

もうね、ちゃんと里帰り前に
里帰り後に保健師さんに来てもらうよう
手続きしていた自分を褒めましたよ。

出産後8か月で初めての受診

保健センターでは地域の発達センターにも繋いでもらえた。

秋生まれで里帰りから自宅に戻ったのが12月。

保健センターに行ったのは年末だったので
「冬に出かけて赤ちゃんが風邪などひくと大変なので
 暖かくなったら、専門の先生のところに行けば良いですよ。」

「とにかく、元気に春を迎えましょう。」

そして、生後8か月で専門の先生の受診ができた。

その後、先生が一度変わり
病院も統合されて移転などもあったが
20年以上その先生にお世話になっていた。

突然の担当医師からの言葉

長男はそれなりにすくすく育ち

足の骨が出来上がるのが遅くて
装具を作ったり

遠視があって眼鏡になったり

甲状腺などの値を注意深く見る必要があるので
毎年、血液検査をしたり

少しでも早く歩けるようになるために
リハビリを受けたり

頸椎の形成に問題がないか
定期的にレントゲンを撮ったり・・

今思うと本当に色々あったなあ。
(って、今でも定期的な通院は必要なのだが・・・)

そんなこんなで
20歳になり
障害年金の手続きの診断書は20年間診ていただいてきた
先生に書いてもらった。

生きていくために必須の障害年金の手続きが無事に終わって
ホッとしていたら

担当医から
「実は私はそろそろ定年となります。
 この病院は児童のための病院なので
 新しい先生への引継ぎはできません。」

「お住いの地域で精神科の先生を探してください。」

と、突然のお話し。

「引継ぎしてもらえないってなんで?」

「え?すぐにしなくちゃいけない?」

「地域の精神科?
 ダウン症としての特性を分かっている先生っているの?」

もうね。
?だらけなわけ。

障害年金の手続きは5年ごとに更新が必要で
その都度、専門の先生に診断書を書いてもらうことが必須。

まだ何回も診断書が必要なのに
「先生を探す?
 これから、また最初から?」

あまりのショックに声が出せず
その日は途方に暮れて帰宅した。

タイムリミットが近づいて

担当医の定年が来年なので
もう時間がない

昨年の受診の際に引継ぎできないことを知らされてから

地域にどんな先生がいるのか?
どうやったらスムーズに引継ぎできるのか?
他に方法は無いのか?

などを
知的障がいのある人の先輩のお母さんや
他にも同じ先生の担当になっている人のお母さんに
聞いたり
情報収集したりしていた。

実は地域の先生で診てもらうなら
この先生が良いなと思っている方がいたのだが

とにかく人気の先生で
最初に調べた時には
初診の受付をしていないということが分かった。

この先生とは
市の障害福祉の審査会や会議でご一緒したことがあり
お人柄もとても素晴らしく
ぜひ担当してもらいたいと。

でも
初診の受付をしていないのだから

どうしようもない

そんなこんなで
どうしたら・・・と思っていた時に
先輩のお母さんから

他の都の療育センターを紹介してくれた。

今行っている療育センターと同じ立場だから

「多分、ダメなんだろうな・・・」
と、思ったが
もしかして何か新しい方法が聞けるかも
とほんの小さな希望を持って
問い合わせの電話をしてみた。

長男を育てていく中で
何度も電話で
断られる経験をしているので

とにかく電話をかけるのは怖い

でも、かけなければ
何も分からない。

勇気を振り絞って電話したけど

やっぱり思ったとおり。

信じられないタイミングで

5月半ばに
今までの療育センターでの
年に1回の血液検査に行った。

案の定
「引継ぎの先生を・・・」
とのこと。

こうなると血液検査の結果を聞きに行く
2週間後までに何か動いておかなければ。

ふと思い立って
希望する先生の病院のホームページを検索してみたら

なんと

初診の受付を再開していた!!

え!うそ!
いま?
マジ?

ということで
慌てて初診の受付のフォームに入力

質問数の多いフォームでびっくりしたが
私が先生を知っていることは
忘れずに入力した。

もうこうなったら使える縁は何でも使う!!
くらいの気概だった。←これ大事。

「お返事には7日から10日かかります。」
だったのに

なんと3日後に電話が!!!

受けてくれるって~
嬉しい~

もう、小躍りです。

縁がつながって

分からいないことだらけの子育て

長男は第一子

長男を授かるまでに
実はいろんなことがあった

最初の妊娠の流産
卵巣嚢腫の手術
排卵誘発剤の副作用
腎盂炎での入院
生理不順

だから
子どもが産めるのかどうかも
とても不安だった。

もちろん長男の妊娠が分かった時は
夫も両親も大喜びで

だけど、生まれてくるまでも
とにかくつわりがひどかったり
切迫流産の疑いもあったり

そんなこんなだったから生まれてきたときは
本当に
本当に嬉しかった。

その後、産婦人科で
告知を受ける訳だけど

そもそも
初めての子育てで右往左往しているのに
「ダウン症です。」
って言われても
どうしたら良いのか分からない日々が続いた。

その頃に書いていた子育て日記には
私の神経質ぶりが書かれている。

あの頃の私に言ってあげたい

「大丈夫。ちゃんと育てられるよ。」
って。

疑問に思ったら自分で確かめたい

地域の発達センターの療育にも通ったり
療育センターのグループ指導にも行ったり

長男が1,2歳の頃は
1か月の内の10日以上を
療育のための通院やら通園などに費やしていた。

すると
私の中でのちょっとした違和感が
疑問や疑念に変わり
それがどんどん大きくなっていった。

知的障がいがあると

諦めないといけない?
選択肢が少なくて当たり前?
障がいの世界の中だけで生きていくの?

そんな時
通っている地域の発達センターの職員募集が
目に入った。

応募資格に
「保育士」
と、書かれているのを見た瞬間

何の根拠もなく
直感で
「保育士の資格を取ろう!」
と、決意。

当時は長女の妊娠中で
妊娠8か月

でも、迷いは無かった
すぐに通信教育の教材を申し込んで
勉強を開始した。

普段はわりと熟慮するタイプだと思うんだけど
「やる!」
となったら行動の速い私。

そして
真実は自分で知りたい!
という考え。

長女を出産してからも
「どうせ授乳で起きるし。」
と、夜も授乳の時にも勉強していた。

いやー若かった。
今じゃ絶対!!できませんね。
勢いってすごい。

2年がかりですべての科目に合格!
実技試験も習っていたピアノが役に立ち
音楽と言語(読み聞かせ)で乗り切った。

自分にできることがあるなら、少しでもやりたい

長女も生まれて二人の子育てでバタバタとした毎日を過ごしていたら

所属している親の会の先輩お母さんから
「組織がNPO法人になって、
 会計が分かる人を探しているんだけど
 やってくれない?」
と、声がかかった。

私が会計事務所に勤務していたことを知り
非常勤職員で働いてくれないかという打診だった。

長女が保育園に入れるかどうか微妙だったので
ちょっと迷ったが
やってみることにした。

この経験は私にとって
この後の人生を大きく変えて行くことになった。

細かいことは今後、おいおい書いていくけど
ざっくり言うと
この何年か後に、この法人の理事長をやらせていただくことになり

その流れで
市の障害福祉に関する審査会の委員となり
(委員になるには保育士の資格が役立った!!
 これも凄くない?
 人生無駄は無いのよ~)

今回、初診受付をしてくれた先生とも
出会うことになったのだ。

そんなことになるなんて
当時は何も思っていない

何か私ができることがあるなら
何かお役にたてるなら

そんな気持ちだけだったから。

人生の選択の場面で心がけていたこと

諦めない

何か解決できない事柄が起きたときに
諦めるのが嫌いな私

とにかくどこかに解決する方法は無いかと
調べるし
聞くし
納得が行くまでやる

ある意味しつこい。

男尊女卑の父の影響もあって
自力でなんとかしたい!と
考える癖がついていたんだと思う。

そういえば
好きな人ができると自分からアプローチしてたなあ
あ、それは関係ない?

気持ちを伝えずに諦めることって無かった
だから、当たって砕けちゃう。
あ、今の話には関係ない?

まあ、後悔したくないんだな。

だから、少しでも可能性があるなら
やってみたい。

これまでの経験や実績で今の自分がある

今回の長男の病院探しで本当に実感した。

その時その瞬間に
「これが良い」と思って
選択してきたことで

経験や実績が積みあがって
様々な場面に広がりができていたということ。

選択している瞬間には
こんな未来があるとは思ってもいない。

小さい時から
死ぬときには
「私はすべてやり切った。
 後悔はない。
 良い人生だった。」
と、言いたいと思ってきた。

そういう意味では
自分の望んだ人生を送れているのだと思う。

まあ、まだ全てを終わるまでには
20年以上あるからね。

まだまだ、経験積んでこ~





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