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Math Note Ⅰ 第30話

30  分散と標準偏差――いつも気にかけて

「なあ馬場、いっしょに野球をやらないか」
 体育館の裏でタバコを吸っている俺を目ざとく見つけ、岡崎は笑って話しかけてきた。
「なんで俺なんだよ。あっちいけ」
「今野球部員が八人しかいなくてピンチなんだ」
「知るかよ、そんなこと」俺はタバコを捨て、靴の裏で揉み消した。
「お前の足が速いことは授業で知っている。頼む、力を貸してくれ」
岡崎は中一の不良に向かって深々と頭を下げた。
 
 何かおかしくないか。あの時の俺はそう思った。
 
 
「失礼します。岡崎先生、お久しぶりです」
「おーお、馬場か。元気に、してたか」岡崎先生はかすれた声でゆっくりと言った。
「はい。もう高校三年生になりました。東京の大学に進学を考えています」
「そうか、そうか」岡崎先生は顔を皺くちゃにして笑った。
「将来は先生みたいな体育の教師になるつもりです」
 岡崎先生は黙って微笑んだ。
「中学の時は本当にお世話になりました。岡崎先生がいなければ、俺――」言葉が喉につっかえて出てこない。涙がぽたぽたと膝の上に落ちた。
 
 いくつもの機械と管が先生をベッドに縛り付けている。昨日、中学の時の同級生から電話をもらった。岡崎先生は県立病院に入院しているらしい、もしかしたら――。
 俺が中学生のころ、岡崎先生は三十代だと聞いた。今、目の前にいるこの人は、髪が抜け落ち、皮膚は黒ずんで、体はやせ細り、腕の血管が皮膚の上に浮き出ている。
 
「馬場、ちゃんと、勉強しているか」岡崎先生は横たわった姿勢のままゆっくりと言った。
「はい」涙をぬぐって短く返事をした。
「勉強は、楽しいか」
「はい。難しく感じる時もありますが、俺には目標がありますので頑張れます」
「そうか。そうか」岡崎先生は噛みしめるように言い、にっこりと笑った。
 
 岡崎先生は終始笑顔を作って、泣いている俺を励まし続けた。何かがおかしい。そう思ったが、それが何なのかはわからなかった。
 握手をして、うまく言葉が出せないまま病室を出た。薄暗い階段を駆け下りた。
 
 一階にたどり着いたところで、一冊の白いノートが落ちていた。誰のものかわからないが、数学のノートらしい。パラパラとめくってみると、ぼんやりと光ったようなページがあったので、そこを開いてみた。
 
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分散標準偏差
 
 $${n}$$個のデータ $${x_1}$$,$${x_2}$$,……,$${x_n}$$ の平均値を$${\overline{x}}$$ とする。このとき、

 分散   $${s^2=\dfrac{1}{n} \{ (x_1-\overline{x})^2+(x_2-\overline{x})^2 +……+(x_n-\overline{x})^2\}}$$

 標準偏差 $${s=\sqrt{\dfrac{1}{n}\{ (x_1-\overline{x})^2+(x_2-\overline{x})^2 +……+(x_n-\overline{x})^2\}}}$$

 
〈例①〉 5つのデータ 1,4, 6, 9, 10 について
 平均値は  $${\dfrac{1+4+6+9+10}{5}=6}$$
 偏差は $${-5}$$,$${-2}$$,$${0}$$,$${3}$$,$${4}$$
 偏差の2乗は $${25}$$,$${4}$$,$${0}$$,$${9}$$,$${16}$$ 
 分散は $${\dfrac{25+4+0+9+16}{5}=10.8}$$
 標準偏差は $${\sqrt{10.8}\fallingdotseq 3.29}$$

 〈例②〉5つのデータ 4,5, 6, 7, 8 について
 平均値は  $${\dfrac{4+5+6+7+8}{5}=6}$$
 偏差は $${-2}$$,$${-1}$$,$${0}$$,$${1}$$,$${2}$$
 偏差の2乗は $${4}$$,$${1}$$,$${0}$$,$${1}$$,$${4}$$ 
 分散は $${\dfrac{4+1+0+1+4}{5}=2}$$
 標準偏差は $${\sqrt{2}\fallingdotseq 1.41}$$


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 上の例の①と②では、どちらもデータは5つあり、平均値は6だ。しかし、明らかに①のほうがデータの散らばり具合は大きいのはわかる。これをどのように数学的に表すことができるか。
 データの散らばり具合が大きいほど、平均との差は大きくなるから、それぞれの値と平均との差(偏差という)を計算してみればいいのではないかと考える。①と②では、それぞれの値の平均値からの偏差には違いがあるが、この偏差の平均を計算するとどちらも $${0}$$ になってしまう。これでは、データの集まりとしての①と②の違いがわからない。
 そこで次に、この偏差を2乗したものを考える。これらの平均をとると、①では $${10.8}$$、②では $${2}$$ となり、明らかに①のほうが大きい。これで、散らばり具合を表すことができそうだ。この「『偏差の2乗』の平均値」を分散と呼ぶ。
 こうして散らばり具合を表す指標は完成したが、この分散は元のデータと単位が異なる。たとえば①、②のデータが長さ(cm)を表しているなら、分散は式を2乗しているので、単位は「cm$${^2}$$ 」になってしまう。そこで、分散の値の平方根をとって単位をそろえたものを標準偏差と呼ぶ。
 散らばり具合を知るだけなら分散でも十分だが、さらに単位のことまで配慮が行き届いているのが標準偏差なんだ。
 
……そうか。
 
 中一の時、俺は学校の先生たちに疎まれていた。今から考えればそれは当然だ。言うことを聞かずに悪態をつき、酒を飲み、タバコを吸い、授業中も教室にいなかった。俺が間違っていたのであって、先生たちが間違っていたんじゃない。しかし、岡崎先生はそんな俺にも足が速いという長所を認め、一人の人間として大切に扱ってくれた。さっきも、本当は先生のほうが辛くて苦しいはずなのに、俺のほうが先生から励まされていた。
 岡崎先生はいつも俺のことを気にかけてくれていた。逆じゃないか。俺がもっと岡崎先生にしなくてはいけないことがたくさんあるのに。
 
 階段を急いで駆け上がる。ちゃんとお礼を言わないと。ちゃんと謝らないと。信じたくないが、チャンスは今しかないかもしれない。
 
 息を切らして病室にたどり着いたとき、不安を掻き立てるような複数の機械音が部屋に鳴り響き、岡崎先生のベッドを医師と看護師が何人かで取り囲んでいた。中に入ることができない。
 
 神様、どうか先生を――。

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