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Math Note Ⅰ 第26話

26  内接円の半径を求める――行ったり来たり

 東京のお土産をいっぱい持った家族連れがいて、車両は賑やかだった。自分の座席を見つけ、私もお土産の入った袋を荷物棚に置いて座って一息。
 
 もう、せっかく典子に会いに行ったのに、肝心のノートを渡しそびれちゃった。鞄の中に入れて持ってきたと思ったのになぁ。
 でも、典子が案外元気で良かった。隆志さんも弘幸くんも、みんな前を向いて頑張ってるのを聞いて安心した。それがわかっただけでも、わざわざ東京に来たのは間違いではなかった。
 
 典子は昔から、私が何も言わなくても一人でどんどん自分のことをやっていく子だった。小学生の時は友達とよくケンカした話を聞いたけれど、翌日には自分から仲直りをして、その友達を家に連れてきていっしょに遊んでいた。高校も大学も就職先も、自分で決めて、自分で勉強して合格して、東京に行って住むところも探してきて、気づいたら結婚相手も決めていた。でも、ちょっと危なっかしくてほっとけないところもある。
 いや、そんな風に言いながら、私は典子の性格を羨んでいるのかもしれない。私はどちらかというと親がいろいろ世話を焼いてくれたほうだったから、典子に関わることで、自分ができなかったことを追体験しようとしているのかもしれない。今日だって典子はちゃんと考えていたし、私が行っても行かなくても状況は変わらなかった。典子の世話を焼いているように見せかけて、私は自分の寂しさを紛らわせているだけなのかな。私が早く子離れしないといけないのかも。
 
 隣の男性はガサガサとレジ袋からお弁当とビールを取り出した。お弁当のふたを開けると、焼き鳥のタレのような甘い匂いふわっと漂ってきた。私もおなかがすいてきた。でも時間がなくて買いそびれちゃった。鞄の中からお茶を取り出そうとすると、そこに白いノートが見えた。もう、なんで今頃出てくるのよ。さっきはあんなに探しても見つからなかったのに。
 ノートとお茶を取り出し、テーブルに乗せる。隣の男性がビールを開けてプシュッと泡が出た拍子に、なぜかノートがパラパラとめくれた。
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〈問〉 $${a=5}$$,$${b=6}$$,$${c=7}$$ である△ABCの内接円の半径 $${r}$$ を求めよ。
 
〈解〉△ABCの面積を$${S}$$ とする。

 余弦定理より、
 $${\cos{C}=\dfrac{5^2+6^2-7^2}{2・5・6}=\dfrac{12}{60}=\dfrac{1}{5}}$$
 $${\sin{C}>0}$$ より、
 $${\sin{C}=\sqrt{1-\cos^2{C}}}$$
  $${=\sqrt{1-\Big( \dfrac{1}{5} \Big)^2}=\sqrt{\dfrac{24}{25}}=\dfrac{2\sqrt{6}}{5}}$$
 $${\therefore}$$ $${S=\dfrac{1}{2}ab\sin{C}=\dfrac{1}{2}・5・6・\dfrac{2\sqrt{6}}{5}=6\sqrt{6}}$$  ……①

 また、面積 $${S}$$ は内接円の半径 $${r}$$ を用いて
 $${S=\dfrac{1}{2}r・(5+6+7)=9r}$$  ……②
 と表されるから、①、②より
 $${9r=6\sqrt{6}}$$ $${\therefore}$$ $${r=\dfrac{2\sqrt{6}}{3}}$$
 
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 この問題は、三角形の「内接円の半径」を求めるのが目的だけど、解答は三角形の面積を求めようとするところから始まる。
 それは、下の図のように内接円の半径と3辺の長さを使って、三角形の面積を求める公式があるからからだ。

 この問題の場合は3つの辺の長さがわかっているから、面積が先に分かれば、上の公式を使って内接円の半径を求めることができる。だからまず面積を求めようっていう発想になっている。
 
 ……だから何なのかしら。
 
「『内接円の半径』ときたら『面積』って連想できたらええね」
 隣の男性が呟いた。そして前を向いたままビールをグイっと一口飲んだ。 
 ノートを見られたのかな。私は少し驚いたが、悪い気はしなかった。
「そうですね。私、今日、娘に会いに行ってきたんです。困っているみたいだったから。でも本当は私が寂しくて娘に会いたかっただけなんじゃないかって思ってきて。……あ、ごめんなさい。私、何を話しているのかしら。関係のない話ですみません」
 自分でもなぜこんなことを言い出したのか、訳が分からなかった。
「内接円の半径から三角形の面積を求めることもできる。逆に、三角形の面積から内接円の半径を求めることもできる。『内接円の半径』と『面積』は相性がええから、お互いに行ったり来たりするんやで」
 男性はそう言って、また前を向いたまま表情を変えずお弁当を頬張った。
 
 相性が良いから、お互いに行ったり来たりする――この言葉にとても救われた気がした。
 
「ありがとうございます。……あれ、私、疲れてるのかな、本当にごめんなさい」
 慌ててハンカチを取り出し、頬をぬぐった。
 すると男性は前を向いたまま、上着の右ポケットから皺くちゃの小袋を取り出し、私のテーブルに置いた。
 
 ――それは「柿の種」だった。
 それもすごく嬉しかった。私はハンカチで目を抑えたまま、彼に何度も頭を下げた。

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