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Math Note Ⅰ 第24話

24  三角形を解く――総動員する

 他には誰もいないので自分の机の周りだけ照明をつけて仕事をしていたが、急にフロアすべての照明がついた。
「あれ、田中さん。今日はどうしたんですか」
「いや、ちょっとやっておきたいことがあって。それより、部長こそ日曜日なのにどうしたんです」
「私もちょっとやっておきたいことがあったんです」
 加藤部長は笑って、俺の机より奥にある自分の席に座った。
「もしかして、部長は毎週日曜日ご出勤されてるんですか」
「いや、毎週って程でもないんですが」
「部長もご苦労なさってるんですね」
「田中さんこそ、いろいろ辛い思いをされてるのではないですか」
「まあ、でも自分の責任ですから」俺は苦笑いした。
「実は私も昔、全然売れない時期があったんです。同時に妻とも険悪になって、あわや家庭崩壊となるところでした」
「えっ?」思わず聞き返した。「そのとき、部長はどうされたんです?」
「ははは。特に何か魔法があるわけではありませんでした。ただがむしゃらにやっただけです」
「そうですか」
 少し安心し、少し落胆した。魔法がないことにも、部長の精神論的な解決法にも。
 
 しばらくお互い無言でそれぞれのパソコンに向かい合った。
 
 今日出勤したのは明日朝からすぐに営業に出られるようにするためだ。顧客リストをプリントアウトして、まだちゃんと担当者と関係ができていない店舗を洗い出し、もう一度全部回ってみるつもりだ。
 マーカーを取ろうとして机の右の抽斗を開けた。黄色のマーカーとピンクのマーカー、どちらにするか。しばらく迷って、無難に黄色のマーカーを手に取った。
 マーカーに気を取られていたが、文房具と一緒に、見覚えのある白いノートが入っていた。これは、家の冷蔵庫に入れておいたはずのあのノートでは……どういうことだ?
 思わずノートをパラパラとめくると、ほんの少し明るく光っているように見えるページがあったので、そこを開いた。
 
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〈問〉△ABCにおいて,$${b=2}$$,$${c=\sqrt{3}+1}$$,$${A=60^\circ}$$ のとき,
 $${a}$$,$${B}$$,$${C}$$ を求めよ。

〈解〉余弦定理より
 $${a^2=(\sqrt{3}+1)^2+2^2-2(\sqrt{3}+1)・2・\cos{60^\circ}}$$
  $${=4+2\sqrt{3}+4-2\sqrt{3}-2}$$
  $${=6}$$
 $${a>0}$$より、$${a=\sqrt{6}}$$
 また、正弦定理より
 $${\dfrac{\sqrt{6}}{\sin{60^\circ}}=\dfrac{2}{\sin{B}}}$$
 $${ \sin{B}=\dfrac{2}{\sqrt{6}}・\dfrac{\sqrt{3}}{2}=\dfrac{1}{\sqrt{2}} }$$
 $${A=60^\circ}$$ より、$${0^\circ<B<120^\circ}$$ だから、$${B=45^\circ}$$  
 よって、
 $${C=180^\circ-(A+B)=180^\circ-(60^\circ+45^\circ)=75^\circ}$$  

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 これはいわゆる「三角形を解く」という問題だ。三角形の3つの辺と3つの角を合わせた6個の要素のうち3つが与えられていて、残りの3つを求めるというのが目標だ。求め方は必ずしも一通りではなく、いろいろな解法が考えられるのもおもしろい。例えば、解答の6行目では $${B}$$ を求める際に正弦定理を使っているが、余弦定理を用いて解いてもいい。
 また、解答のように正弦定理で $${B}$$ を求めようとすると、$${\sin{B}=\dfrac{1}{\sqrt{2}}}$$ と出てくるが、本来ならばそのような $${B}$$ は、$${45^\circ}$$ と $${135^\circ}$$ の2つが考えられる。しかし、すでに $${A=60^\circ}$$ とわかっていることと、三角形の内角の和が $${180^\circ}$$であることから、$${B=45^\circ}$$ に絞り込むことができる。このように正弦定理、余弦定理だけでなく、今まで三角形について学んだ知識を総動員して残りの辺や角のすべてを求めていく。
 
 ……そうか。
 
 部長の言うことは正しい。うまくいかないときには何か原因があるはずだが、その原因がすぐにわかるとは限らない。だから自分のできること、持っている知識、コネクション、あらゆるものを総動員して、がむしゃらにやるしかないんだ。そうしているうちに何か突破口が見つかるかもしれない。もちろんいろいろ試しても何も見つからないかもしれないが、何もしないよりよっぽどいい。やれることを総動員して何も出なければ、それはそれで本当に次の職場を探す時だと諦めもつく。
 
「おや、数学ですか」思いに耽っていて、背後に部長が立っているのに気づかなかった。
「あ、いや、これは何でもないんです」慌ててノートを抽斗の中に直した。
「懐かしいですね。私が高校生の頃に数学を教わった先生は、関西弁を話す変わった先生でした。さっきの話の続きですが、私がどん底の時、なぜかその先生のことをふと思い出したんですよ。その先生がよく言ってたんです。『まずペンを動かせ』ってね」
 
 それは俺がまさに今思い出していたことと同じだった。

 

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