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Math Note Ⅰ 第20話

20  三角比の相互関係――特別な関係

「お父さん、話を聞いて!」
「お前と話すことなど何もない。今すぐ出ていけ」
「お義父さん――」
「お前は私に話しかける資格すらない。この愚か者め」
「……」
「昭雄さん、典子たちもせっかく東京から会いに来てくれたんだから」
「私は頼んでいない」
「お父さん、私たちは真剣に結婚を考えているの」
「勝手にすればいい。さあ、早く出ていけ」
「わかったわ!勝手にする。私もあなたを父親と思わない」
「典子!待ちなさい」
 
 獣を捕まえる罠のように体を跳ね起こして目が覚めた。全身汗でびっしょりだ。隣で典子は静かに眠っている。夜中の三時……夢か。
 時々十八年前のことが頭によみがえる。結局あの時、俺は何もできなかった。準備していたたくさんの言葉は一つも言えなかった。あの不甲斐なさを思い出すと、今でも本当に自分が嫌になる。
 
 喉がカラカラに乾いていた。典子を起こさないようにそっとベッドから抜け出し、階段を下りて何か飲み物を探して冷蔵庫を開けた。麦茶と、オレンジジュース、そして、どこかで見た白いノートが入っていた。なぜ?
 
 麦茶にするか、オレンジジュースにするかしばらく迷ったが、結局無難に麦茶にすることにした。
 冷えたノートと麦茶を冷蔵庫から出して、テーブルに置く。麦茶をコップに注ぎ、椅子に座って適当なページを開いた。
 
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〈三角比の相互関係〉
 
  1.$${\tan \theta = \dfrac{\sin \theta}{\cos \theta}}$$
  2.$${\sin^2 \theta + \cos^2 \theta = 1 }$$
  3.$${1+\tan ^2\theta = \dfrac{1}{\cos ^2\theta}}$$
 
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 これは「三角比の相互関係」と呼ばれる公式だ。サイン、コサイン、タンジェントの三つにはそれぞれに特別な関係性がある。
 なぜこのような式が成り立つのかについては、下の図のような直角三角形で、三角比の定義($${\sin \theta=\dfrac{y}{r}}$$,$${\cos \theta=\dfrac{x}{r}}$$,$${\tan \theta=\dfrac{y}{x}}$$)と、中学校で学ぶ三平方の定理とを用いれば、簡単に証明できる。

 また、三角比のうち一つの値がわかれば、これらの公式を用いて残りの二つの値も求めることができる。たとえば、$${\sin \theta = \dfrac{3}{5}}$$ とわかっている場合には、二番目の公式を使えば $${\cos \theta}$$ を求めることができるし、その値を一番目の式に代入すれば、$${\tan \theta}$$ も求めることができる。
 
 ……ああ、そうだったのか。
 
 典子と両親の間には、長い時間をかけて築かれた特別な関係性があったんだ。俺は他人のくせに何も考えず三人の間に土足で入り込もうとした。典子の父親が言ったように、俺にはその資格はなかった。厳格な川上家の敷居を跨いで挨拶をする資格を得たかったのなら、丁寧に時間をかけて手順を踏むべきだった。典子の両親の立場になって考えれば、段取りを踏んで、結婚式もちゃんと挙げて、近所や親戚にも祝福されて、典子を立派に送り出してやりたかっただろう。あの時の俺は、誠意をもって謝る、殴られる覚悟があるなどと耳障りの良い事を言いながら、結局のところは自分の都合しか考えずに両親の夢をぶち壊して、それを認めさせようとしていただけだった。俺は本当に馬鹿だ。
 
 そうか。仕事も同じなんだ。得意先やそこで働く人たちの都合や利益も考えず、俺はいつも自分の成績を上げることばかり考えて商品を売り込もうとしていた。俺の都合ばかりを押し付けているから、今までコミュニケーションがうまくいってなかったんじゃないか。
 ああ、俺は本当に馬鹿だ。

 …… 

 いや違う、俺は本当に馬鹿「だった」。これから俺は生まれ変わるんだ。今の俺にはもう、典子と弘幸と三人の特別な関係があるんだから。
 
 理由はないが、麦茶といっしょにノートも冷蔵庫のもとの位置に戻した。ノートもそれを望んでいるんじゃないかと思った。

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