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Math Note Ⅰ エピローグ

32 エピローグ

 「弘幸」「あのさ――」
 隆志と弘幸が同時に話しかけようとして、気まずい沈黙。久しぶりに三人揃った夕食の時間。
「先にどうぞ」「どうした」もう一度二人が同時に話したので、私は思わず噴き出した。
「もう、二人とも何やってんのよ。はい、じゃあお父さんからどうぞ」仕方なく交通整理を買って出ることにした。
「え、ああ。では――」隆志は咳払いをして改まって背筋を伸ばしたので、もう一度吹き出してしまった。もう、息子相手に何してんのよ。でもそういうところが隆志らしい。
「弘幸、お母さんから話は聞いたようだが、大学のことは心配しなくていいから、しっかり勉強に集中しろよ」
「お父さんこそ、僕のこと心配しなくていいよ。大学は自分で何とかなりそうだから」
「え?」「どういうこと?」次は隆志と私が同時になった。
「国公立大学を目指すことにした。それから、奨学金のことも調べた。大学に入ったら勉強しながらバイトもできるし、自分の力で大学には通えると思う」
「お前……」隆志は言葉に詰まったようだった。私もしばらく何も言えなかった。
「だから心配しなくていいよ。成績はまだまだこれからだけど、今本気で頑張ってるんだ。お父さんは仕事に集中して」
 隆志は天井を見上げてしばらくじっとしていた。何かが零れ落ちないように我慢してバランスを保っている孤独な大道芸人のようだった。そして、また弘幸に向き直って不器用に口角を上げた。
「ありがとう、弘幸」ふぅーっと長めの息を吐きだして、隆志は続けた。「いや、本当に済まない。子どもにそこまで気を遣わせてしまって、俺は父親失格だ」
 最後はカレー皿に視線が落ちた。
「そんなことないよ。最近友達や先生と話をして、今まで自分がどれだけ恵まれていたかということがよくわかった。もっと苦労してる人はいっぱいいる」
 私も思わず自分のカレー皿を見てしまった。また少しの沈黙。
「ありがとう、弘幸。でもな、父さんも今の仕事をこれからも続けられそうなんだ」
「え?」「そうなの?」今度は弘幸と私が同時。
「ああ。最近仕事の調子が良くなってな。急に注文が入り始めたんだ。会社でもちょっと驚かれている」
「なんで?」
「自分でもわからない。いや、わかったんだ。俺も自分に、それにお客さんにも甘えていたことに気づいたんだ。そう気づいて、違う目線でもう一度同じ仕事をしてみたら、だんだん状況が変わってきた」
 また少し休憩。三人とも予想外のことが多すぎて、お互いゆっくり咀嚼する時間が必要だ。
「それじゃあ、あとはペンを動かすだけだね」
「え?」「なんで知ってるの?」隆志と私。
「数学の先生の口癖なんだ」

 その後、隆志も弘幸も、そして私も、関西弁を話す初老の教師に数学を教わった(または教わっている)ということが明らかになった。でも、あの数学の先生は、私たちが習った時もすでに定年間際のような年齢だったと思うし、第一、隆志と私は同い年だけど、高校時代、隆志は千葉に、私は新潟にいた。私たち三人が同時に同じ教師に習うということは可能なのだろうか。
 たまたまよく似た関西弁の教師がいたのかもしれない。または、関西の数学教師のコミュニティーでは「ペンを動かせ」が一種の合言葉のようになっているのかもしれない。あるいは、数学を長い間教えていると、みんな同じ境地にたどり着くのかもしれない。
 そのうち、私たちはそのことについて考えるのをやめて、各自のペンを動かすことにした。

 隆志と弘幸が二人ともあんなに前を向いて話してたから黙っておくことに決めたけど、実は私も二人に切り出そうとしていたことがある。
 
 この前母が来てこのリビングで話をしたとき、母は「何かの足しにして」と鞄からきれいな刺しゅう入りの緑色の巾着袋を取り出し、私にそっと差し出した。袋のひもを緩めると、中には銀行通帳とカードと印鑑が入っていた。私はこんなものは受け取れないと強く断ったが、その通帳は名義が私の名前になっていて、私が生まれた時から父が私の将来のために少しずつ貯金するよう母に依頼していたということだった。それから、本当はこれを私が結婚したときに渡すつもりだったがそれができなかった、そして、母がその日家を出るとき、私に渡すように父が母にこれを預けた、と母は言った。
 父が本当にそんなことをしたのかどうかはわからなかったけど、あの時は決定的な解決策があったわけではなかったので、万が一の時のために受け取ることにした。もちろんできることなら使わないで返すつもりだった。
 母を見送った後あらためて通帳を確認してみると、弘幸が大学に通うどころか、将来弘幸が結婚式を挙げて豪華なハネムーンに行けるくらいの預金残高が記載されていた。日付を見ると、父と母は私が隆志と結婚してからもずっと、私のために毎月同じ額の預金を続けてくれていたことが分かった。

 母はまだ帰宅途中だろうが、私はすぐに父に電話をした。これまでの非礼を謝り、涙と鼻水でぐずぐずになりながら力を振り絞って嗚咽交じりで感謝の気持ちを伝えた。誰もいなくてよかった。その間、受話器の向こうからは何も聞こえなかったが、父が黙って聞いてくれているのが分かった。

「用は済んだか」父はぶっきらぼうに言った。
「うん」私は鼻をすすりながら答えた。
「そうか。では切るぞ」 
 ゆっくりと静かに電話が切れた。最後の父の声はとても優しく耳に残った。

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