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Math Note Ⅰ 第27話

 釣り銭を受け取り、大きな雪の屋根を乗せたタクシーを見送った。ガラガラと玄関の扉を開けると、久しぶりに実家の甘い匂いがした。しかし玄関以外、明かりはほとんど消えていて、奥の薄暗い部屋で母が父の枕元に座って泣いていた。母の背中は、また少し小さくなったように感じた。
「ああ、昭雄。よう帰ってきてくれた」
「父さんは」
「今は眠ってる。だども、お医者さんはそんげ長うはねえって」そう言って、母はまた泣き出した。
「英雄と時雄は」
「英雄はどこにいるかわからね。時雄にはまだ連絡がついてね」
「英雄はここにはいないの?」
「一か月前に急に出て行って、それっきり」
「酒蔵の仕事は」
「もう最近は全然やっていなかったのよ。星野さんに任せっぱなしで」
 星野さんは、父の代からうちの酒蔵を取り仕切ってくれているベテランの杜氏だ。末っ子の時雄は高校三年生で、市内にできたばかりの専門学校に進学したいと言っていたが、真ん中の英雄は高校を卒業後、父の手伝いをしながら酒蔵の仕事を学んでいた。
 しかし英雄はお世辞にも真面目と言えるような性格ではなかった。父がいるときはそれなりに働いているそぶりを見せるが、父が体調を悪くして家で休むことが多くなってからは、英雄はほとんど酒蔵にいなかったようだ。
「昭雄、どんげしたらいいんだろうか…」
「まず、落ち着いてお父さんの側にいよう。今何かできるわけじゃないから」
「そうね。お茶でも淹れるわね」
 母は立ち上がり、台所に向かった。
 
 私も手持ち無沙汰になり、階段を上がって昔使っていた自分の部屋に行った。二階は暖房が入っていないため冷蔵庫のように寒く暗かったが、右手の記憶が柱にあるスイッチを探り当て、明かりをつけた。少し埃のにおいがする机の上には、白いノートがあった。高校時代の数学のノートか。いや、私のものではないようだ。英雄か時雄のものか。
 外で風が吹いて、笛のような音を立てている。隙間風は感じなかったが、ノートが勝手にパラパラとめくれた。

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〈問〉1辺の長さが4の正四面体ABCDの体積を求めよ。
 
〈解〉辺CDの中点をMとすると、三平方の定理より、
  BM$${=2\sqrt{3}}$$
 よって、△BCD$${=4・2\sqrt{3}・\dfrac{1}{2}=4\sqrt{3}}$$

 また、△ABH、△ACH、△ADHはそれぞれ直角三角形で、
 AHは共通、AB=AC=ADより、斜辺と他の一辺がそれぞれ等しいから
  △ABH≡△ACH≡△ADH
 である。
 よって、BH=CH=DHであるから、Hは△BCDの外接円の中心である。

 △BCDについて、正弦定理より、
 $${\dfrac{4}{\sin{60^\circ}}=}$$2BH, BH$${=2÷\dfrac{\sqrt{3}}{2}=\dfrac{4}{\sqrt{3}}}$$
 △ABHにおいて、三平方の定理より
 AH$${=\sqrt{4^2-\Big( \dfrac{4}{\sqrt{3}}\Big)^2}=\sqrt{\dfrac{32}{3}}=\dfrac{4\sqrt{6}}{3}}$$
 正四面体ABCDの体積を $${V}$$とすると、
 $${V=\dfrac{1}{3}}$$・△BCD・AH
  $${=\dfrac{1}{3}・4\sqrt{3}・\dfrac{4\sqrt{6}}{3}=\dfrac{16\sqrt{2}}{3}}$$

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 高校時代は数学が一番好きだった。この問題の場合は、「体積を求める」という目的に対して、三角錐の体積といえば「(底面積)×(高さ)×$${\dfrac{1}{3}}$$」だから、まず、底面積と高さを求めようという方針が立てられる。底面積は中学生でも求められるが、高さを表すAHという線分はどのような位置にあるのか、それはなぜか、ということを示し、そこから高さを求め、最終的に体積が求められる。
 この問題文は一行で書かれているが、数学の問題は得てしてシンプルだ。そこから想像を働かせ、何を求めるのか、どう求めるのか、それはなぜ正しいのかなど、論理を積み上げて目的地にたどり着く。有名な難問にもなれば、そこに至るまでの足跡は、何百ページにも及ぶという。私はその想像力の豊かさと根気強さを尊敬するとともに、多くの想像をかき立てるシンプルな一行の問題のもつエネルギーに感動する。芭蕉の句が、十七文字からその世界を豊かに想像させるのに似ている。
 
 ……そうか。
 
『両親が今、困難な状況にある』――問題はとてもシンプルだ。
 そして私はこの問題にどう立ち向かうのか。
 長男の私に大学の自由な時間と東京での就職を許してくれた父、私をここまで育ててくれた母にはとても感謝している。方針はいろいろあるのかもしれないが、今の私にはこの方法しか思い付かない。
 あとは想像力を発揮して根気強く取り組むだけだ。それが正しかったかどうかはあとで証明すればいい。高校時代のあの先生も言っていた。「まずはペンを動かせ」と。
 
 明かりを消し、階段を降りると、和室の座卓の二つの湯呑から湯気が立っていた。母が煎餅の入った缶を持ってきて、私に勧めた。
 お茶を飲み、煎餅を一枚口に入れ、目を閉じて、バリバリと嚙み砕く音と香ばしい醤油の味に意識を集中した。もう一度、お茶を飲んで、ふうっと溜息をついた。
「俺、銀行辞めて家に戻ってくるよ。酒蔵は俺が継ぐ」
「昭雄……」
「心配しんでええ。母さんと酒蔵は俺が守るすけ」
 
 父はその二日後、静かに旅立った。
 あの時、私は――


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