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友人に子供ができた

私と10年以上の付き合いになるその男は、生後わずか1週間の、無防備な、小さな命を腕に抱いて、穏やかな寝顔を見つめている。

慈愛に満ちたその表情を眺めながら、私は遠い昔のことを思い出していた。

私とその男(仮にSとしよう)が、大学3年生だったころ、よく行っていた焼き鳥屋で、Sは憔悴しきった様子で、私に、非常に深刻な調子で打ち明けた。

「実は童貞を捨てたんだ......」

Sはあのとき、どうして、あんなに落ち込んでいたんだっけ?

Sは私が大学に入学してはじめて出来た友達だった。そのとき、県外の大学に進学した私は、勉学に打ち込むつもりなど毛頭なく、ただ自分のオタクとしての人生を充実させること、その一点においてのみ燃えていた。

つまるところ『げんしけん』のような大学生活が送りたかったのだ。そのために、まずオタクの友人をつくろうと思った。そして、同じ学部のSに私は目をつけた。

そのころのSの髪型は、鳥の巣のように盛り上がっていて、縮れた髪の毛が豊かに生えていた。大きなレンズの眼鏡をかけ、目は細く、いわゆるキツネ目だった。表情は硬く、全身に緊張感がみなぎっていた。まるでマルクス・レーニン主義の過激派学生運動の活動家のようなその風貌に私は好感を覚えた。

Sは全身から他人を拒むオーラを放っていたが、空気を読む能力が壊れていて、イケイケだった大学1年生のころの私はお構いなしに話しかけ続けた。果たして、Sは私に心を許してくれるようになった。たぶん、Sが好きな映画を私が知っている、知っているどころか見たことがある、というのが大きかったんだと思う。

その映画は、今では性加害疑惑がかけられ全く名前を聞かなくなった園子温監督の『愛のむきだし』という作品だった。Sは、まさか愛のむきだしを知ってる人がいるなんて......と顔をほころばせた。聞くところによると、中学から邦画を好んで見続けていた映画オタクだったが、周囲と見ている映画の種類そのものが違ったため、これまで映画の話を誰かとしたことがなく、感想をあれこれと言い合えるような友人という存在に大きな憧れを抱き続けていたらしい。

Sと私は友人になった。そして、友人になってすぐに分かったが、Sは私が当初外見から一方的に想像した、マルクス・レーニン主義の過激派学生運動の活動家、という人間像とは全く異なる性格をしていた。

Sは穏やかで、嘘がつけず、思ったことがすぐに表情にあらわれた。こんな人間がいるのかと驚くほど、優しく、素直な男だった。しかし、口下手だった。口下手な関西人だった。そのため、どのコミュニティに属してもSはイジられ役になるのが常だった。

そしてSには強い結婚願望があった。最愛の妻、愛する我が子、あたたかい家庭、夏にはソーメン、冬には鍋を囲む、貧しいながらも楽しい我が家......その実現こそSの夢だった。私には全く結婚願望も子供がほしいという気持ちもないのでSの願望の強さを不思議に思った。もしかしたらSが母子家庭で育ったことに関係があるのかもしれないが、はっきりと確認したことはない。

とにかく、あたたかい家庭をつくるためには、まず生涯を共に歩む伴侶が必要である。そのため、Sは大学生活を通して恋人づくりに打ち込んでいた。しかし、私はSが大学で彼女をつくったという話はついぞ聞いたことがない。Sはモテなかった。私が言えたことではないが、特に容姿に優れているわけでもなく、口下手で、なおかつイジられ役で、しかもSが入った大学寮では上級生にタチの悪い酒の呑ませ方をさせられて、数多もの伝説(当然悪い意味で)を残していた。

何度私はSの失恋話を聞いただろう? 時に彼は寮の下級生女子に執拗に言い寄ったあげくストーカー扱いをされた。そしてこれは社会人になってからの話だが、恋愛映画を観て、気持ちが一方的に盛り上がった挙句、その当時好きだった女性の職場へ行き(高速道路で30分くらいかけて)、愛の告白をして見事に撃沈するということもあった(この件はSが観た映画にちなみ「パンチドランク・ラブ事件」と呼ばれている、私の中で)。何度私は失意の底に沈んだSに慰めの声をかけただろう?

あの焼き鳥屋でもそうだった。「実は童貞を捨てたんだ......」と悲しげに言い、ぽつりぽつりと漏らすようにその顛末を語ったSを、私は笑わず真剣に励まし、その苦しみを労った。

ちなみになぜそのときSが落ち込んでいたか完全に思い出したので補足しますが、Sは童貞は好きな人で失いたいという高潔な愛のこころを持っていたのだが、寮の悪友と大阪旅行に行ったときに、天下にその名を轟かす飛田新地に無理矢理連れていかれ、そこで大切に鞘に収めていた童貞という剣をものの15分で失ってしまったから、という非常にしょうもない理由でした。勿体ぶってすみませんでした。

そういえば、Sという男について、思い出したことが、もう一つあった。

それは大学4年生のときにSが書いた論文のことだ。とある映画について語った論文で、詳しい内容は忘れてしまったが、大まかにその論文でSが言いたかったことをまとめると、下記の通りになる。

「しょぼい現実を生きろ」

この論文を、私と、私とSの共通の友人であるKは笑い飛ばした。そして、映画監督になるという夢を捨てたのか!とSをなじった。Sには密かに映画監督になりたいという夢があり、映画制作のノウハウを学べるスクールにも一時期通っていたのだ。

私たちに何を言われようとも、Sは穏やかに、諦めたように笑うだけだった。Sは結局、映画監督への道を捨て、塾の講師を経て、不動産の営業を今はしている。どちらも私には非常にきつい、やりたいとは思わない類の仕事のように思えるが、Sは頑張っている。頑張りすぎて、鳥の巣のようだったSの髪はすっかりと薄くなり、隙間から頭皮がのぞいている。

Sにとっては映画監督という大きな夢ではなく、あたたかな家庭という小さな幸福のほうが重要だったのだろう。

Sの恋人探しは大学卒業後、社会人になっても長らく実を結ばなかった。マッチングアプリで生まれて初めて彼女ができたが、上司がSの携帯を悪用して、Sを装って送った下ネタLINEが引き金になり、別れることになった。ディズニーランドでのデートを目前に控えたクリスマスのことだった。

Sは恋に振り回され、突き飛ばされ、そのたびに見事に倒れこんだ。しかし、再び起き上がっては、ふらふらになりながらも、砂浜から真珠を見つけるかのような果てしない努力を続けた。Sの労苦が報われる前に、結婚詐欺とかにあってSの心が壊れてしまうのではないかと思ったが、努力というのは、ある時ふと実を結ぶものだ。Sは、ついに運命の人と巡り合った。Sの妻は、Sの素直な、嘘のつけない人柄に心底惚れ込んだ。二人は結婚し、そして今、Sの腕のなかに二人の愛の結晶が、壊れないよう、大切に抱かれていた。

その姿は眩しかった。幸福という題で描かれた絵画のようだった。その光に私は焼かれそうだった。私のとなりには、大学時代、「しょぼい現実を生きろ」というSの論文を共に笑い飛ばしたKがいた。KもSのことを眩しそうに、目を細めて見ていた。Kは、無職だった。無職2年生だった。大学卒業後、大手建設会社の関連企業に就職したがドロップアウトしていた。私たちは二人で連れ立ち、Sの生まれたばかりの赤子を見にきていた。

Sの家を後にした私とKは、帰りにうどん屋に寄った。安いうどんを、私たちは無言ですすった。Sの姿に茫然自失し、言葉が出てこなかった。

そして自分は今まで何をしていたのだろうと思った。結局しょぼい現実を生きることを受け入れることができなかった私は、大学時代、一切の就職活動を放棄しアマガミにドチャクソにハマった挙句無職になり、故郷へ帰り、そしてついに止むに止まれぬ事情で超零細企業で働くことになった。そしてたまに心が壊れそうになると、大学時代の友人に会うために高い交通費を払い遠征している。

無職2年生のKも、就職活動はおろか、バイトすらせず、毎日図書館に行って本を読んだり、寺社仏閣巡りをしたり、隠居したジジイのように、日々をのらりくらりと過ごしているらしい。

あの時、「しょぼい現実を生きろ」という論文を笑い、映画監督という夢を捨てたSを責めた私とKと、そんな私たちを穏やかに見つめていたSの間に、線が引かれ、光と影に分かれてしまったようだった。あるいは、あの時から、こうなることは定めだったのか。

空になったうどんの器を見つめながら、私は「死のう」と言った。いや、言ってない。なぜなら、Sに子供ができたのは本当に素晴らしい、祝福すべきことで、その子供に会えた日に死とかなんとか、そんなことは言うべきじゃないと思ったから。

それにSにとってはこれからの日々こそが本当の戦いなのだ。これからが、彼の「父」としての人生のはじまりで、その先には私の人生には決して与えられないような大きな喜びと、想像を超えた苦しみが待ち受けているのだろう。

だから私は何も言わず、粛々とうどんの器を返却口にもどし、Kと並んで店を出た。そして私はKに「呑もう」と言った。これは本当に言った。Kは静かに、しかし厳粛に頷いた。

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