面影のかたち -『レキシントンの幽霊』に寄せて-
散歩コースにしている武蔵国分寺公園の池に、時折カワセミが飛んでくる。たいていは池のまわりの木立に潜んでいるのでそのあたりを眼で探ると、さっと目の端を横切って飛び去っていく。その速さに目は追いつかず、鮮やかな青とオレンジの色が視野の隅に残るだけだ。「はっきりと翡翠(かわせみ)色にとびにけり」。中村草田男の句では、ひらがなだけの世界に漢字の色だけが鮮烈に浮かび上がる。カワセミは色の残像を人の心に残していく鳥だ。
食べ物屋で出された料理の盛り付けがあまりに美しく、つい写真に撮ってSNSに流してしまう。けれど、写真はそれを「思い出」として見る人に伝えるわけではない。皿の上の料理の美は、箸をつけたとたんに目の前から消え去る。その消失の瞬間があるからこそ、イメージは思い出として残像として、個人の記憶に刻まれる。
山本耀司は服を作るときに、「作り込まずに15%くらいあえて手を抜く」と言っている。そうすることの理由として、このデザイナーは人のイメージについての独特の考えを述べている。「人の印象を語る時に、物静かだとか偉そうだとか面影をかたるでしょう。その面影を作るのにファッションが大事な手助けをするのだと思うのです」。去った後の記憶として残る映像に、かえって着る人自身の確かな姿が現れるということだろう。
小林秀雄は『無常という事』の中でこんなことを言っている。「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その理由をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである」。ディテールを削ぎ取られた残像のようなものだけが、はっきりと思い出の形を作る。そんな逆説的な心の働きが人にはあるということだ。過ぎたものを追いかける。そんな影のような記憶を追う気持ちがある限り、残像はのっぴきならない形となって、心にとどまるのだろう。
草野なつか監督の『夢の涯てまで』という短編映画を見た。画家のヒロインが仕事場で絵を描いている背後に、その作業を見つめている若い男性がいる。彼女が彼の存在に対する気遣いを全く示さないので、彼が既にこの世にいないことは観客に知れるわけだが、映画の最後近くにはっと胸を衝かれる場面がある。ヒロインが部屋に置かれた椅子を何ともいえない表情でじっと見つめているのだ。恐らく生前の彼が常にそこに座っていたであろう椅子を見る、その眼差しの強さによって、観客はそこに彼女の見ているはずの残像を確かに感じとる。
村上春樹の『レキシントンの幽霊』という短編がある。主人公の小説家がボストンの富裕な友人の旅行の留守番として、友人宅で数日を過ごす。その最初の晩にその屋敷に幽霊が出るという話だ。主人公が二階の寝室で寝ていると夜中に階下の居間から、大勢の人たちがパーティをしているような声や音楽が聞こえてくる。その群衆が誰なのか確かめようと階下に降りる主人公は、居間の扉の前で立ち止まる。その喧騒が幽霊たちの立てているものだと気づき、彼は居間の扉を開けるのを止めて寝室に戻る。彼が居間に入っていかなかったのは、しかしどうやら恐怖のせいだけではない。「もちろん怖かった。でもそこには怖さを越えた何か(何かに傍点)があるような気がした。それは妙に深く、茫漠としたものだった。」
この小説が村上の敬愛するスティーブン・キングのホーンテッドハウス(お化け屋敷)ものの傑作『シャイニング』の換骨奪胎であることは明らかだ。ホテルのホールで主人公(映画版ではジャック・ニコルソンが演じる)が過去の亡霊たちのパーティに遭遇するという場面が、そのまま借用されている。ただ、両作の違いは、『シャイニング』の主人公が幽霊たちのパーティの会場に踏み込んでいくところだ。亡霊たちとの交わりで起動した狂気が殺人鬼を誕生させるという、キング的ホラーストーリーがそこから立ち上がってくる。
村上春樹の小説は、当然そういったホラーの文脈に入ってはいかない。件の夜の出来事のしばらく後に友人が主人公に語る思い出話は、この短篇の主題を浮かび上がらせる。友人の両親はボストンの古き良き時代の社交界の中心にいた華やかな人物たちで、息子は彼らにこのうえない尊敬と愛情を抱き続けていたという。その母が亡くなったとき、父は三週間、昏々と眠り続けた。さらに父を亡くした友人も、同じように二週間を際限なく眠り続けたというのだ。「眠りの世界が僕にとってのほんとうの世界で、現実の世界はむなしい仮初めの世界に過ぎなかった。-中略- 母が亡くなったときに父が感じていたはずのことを、僕はそこでようやく理解することができたというわけさ。僕の言っていることはわかるかな?つまりある種のものごとは、別のかたちをとるんだ。それは別のかたちをとらずにはいられないんだ。」
作者が友人宅に出現した幽霊たちを実際の姿として描かなかった理由はここにあるだろう。もはや生きる意味を見いだせなくなるほどの大きな喪失に、人は捉われることがある。彼をかろうじてこの世界に止まらせるのは、消え去った映像にほかならない。消滅していることに存在する理由があるという映像。それはときにある種の強い救済の力を、持つことがあるのだ。
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