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私のスキな戦国武将 〜山中鹿之介〜

私は戦国時代、戦国武将がスキです。

ネット上のあやふやな情報と、
おぼろげな自己流解釈で、
私のスキな武将について語ります。

内容に関しては正確性を欠くことを、
あらかじめご了承ください。

今回は、
戦国トップクラスのドM武将、
山中鹿之助(山中幸盛)さんの、
ご紹介です。

鹿之助さんは、
今で言う島根県を中心とした、
山陰地方の有力大名、
尼子家の家臣でした。

鹿之助さんが活躍するのは、
尼子家にとって、苦悩の時代。

長く山陰地方で隆盛を誇っていた
尼子家が、だんだんと傾いてしまって。

最終的に、毛利家に滅ぼされるという、
そんな時代でした。

たくさんの尼子家臣が、
毛利家に寝返ったり、
滅ぼされたりするなかで。

何度も、何度も。
負けても、負けても。
めげずに、戦いつづけたのが、
この山中鹿之助さんでした。

座右の銘が、願わくば、
『我に七難八苦を与えたまえ』。

月に願ったそうです。。。

ドMでしょう?
望みが、モロに。

そして運命は、まさに、
鹿之助さんの望んだ通りの、
七難八苦を与えてくれました。

ゾクゾクしますね🤤✨
(ヘンタイ)

尼子家は、信長や秀吉が活躍する、
戦国時代真っ盛りには、
もう滅亡していました。

毛利家に滅ぼされたんです。

今の島根県の、
月山富田(がっさんとだ)城を
本拠地としていましたが。

毛利家にどんどん攻められ続け、
1566年、当時の尼子家当主、
尼子義久がついに、
毛利家に降伏しました。

当時の毛利家当主は、
有名な、毛利元就。

毛利家はこのあたりの時代が、
最盛期で、その毛利家も、その後、
織田家の豊臣秀吉に攻められます。

まぁそれは、また、あとで。

この尼子家滅亡の際の当主、
尼子義久は、毛利家内でひっそりと、
生き続けたらしいです。

殺さずに、生かしてくれたんですね。
そのほうが、不要な恨みもかわないし、
その後の領地運営にもいいらしく。

生かされた尼子家臣の山中鹿之助達も、
ひっそりと余生を過ごす、
という選択肢もあったように思えます。

でも結局、鹿之助達、
それら尼子遺臣は、流浪の民となります。

殺されなかっただけ、
マシだとは思うんですが。

それでも、
主家復興をあきらめなかったのが、
この鹿之助さん。

その尼子義久のはとこ(またいとこ)を、
探し出して、尼子家再興の当主として
担ぎあげます。

そのはとこは、尼子勝久といい、
京都の東福寺で僧をしていたそうです。
(あ、、そう)
(やったな)

これも、よくよく考えたら、
どうかと思いますがね。

尼子家の勢力は滅亡したとはいえ、
当主の尼子義久は生存してますからね。

まぁ、そこは、おいといて。

いったん、滅亡された主家を、
再興させるってのは、
ものすごい労力の要ることだと思います。

想像しただけでも、すごいなぁって、
思うんですね。

実際、山中鹿之助さんは、
戦闘も、ものすごく強くて、
『山陰の麒麟児』なんて別名も、
ついたくらいだそうです。

かぶっていた冑にも特徴があり、
鹿の角と三日月が、
装飾されていたそうです。

そこから、鹿之助、
の別名がついて定着したんですね。
(本名は幸盛)

なんだかんだで、その、
探し出した尼子家の末裔の、
尼子勝久という人。

勝久自身も、担ぎ上げられるのに、
まんざらでもなかったようです。

尼子勝久を担いで、
奔走する山中鹿之助とその仲間達。
いろんな工作や戦闘を続けて。

一時期、もとの本拠地、
月山富田城を包囲し、
あわよくば奪えるかも!?
くらいの時期も、あったみたいです。

でも、結局は、
うまく行かなかった。

鹿之助は、さいごのほうでは、
紆余曲折あったなかで。

織田家の中国地方征伐軍の、
羽柴(豊臣)秀吉に協力してもらい、
兵庫県の上月(こうづき)城に入りました。

ここでも、やはり毛利軍が攻撃してきて、
なんとか秀吉に助けをもらおうとします。

しかし、秀吉には秀吉の事情もあり、
優先順位の問題で、形としては
見捨てられたような形になり、
またもや毛利家に負けてしまいました。

これが1578年。
尼子義久の尼子家が滅亡してから12年後、
二度目の滅亡を迎えました。

勝久は自害。
鹿之助は、またもや捕らえられます。

しかし、鹿之助はまだ、
絶対にあきらめない、という心持ち、
だったようです。

山中鹿之助と直接、戦い続けてきたのは、
毛利陣営では、毛利元就の次男、
吉川元春でした。

吉川元春も、山陰地方では、
トップレベルの戦闘力を誇る武将で、
山陰地方の攻略を担当していました。

鹿之助としては、いつも、
この元春にやられ続けていたので、
元春に対する恨みの積み重なり方も、
尋常ではなかったはず。

毛利家の基本的な方針としては、
敵武将でも。

降参して毛利の力になってくれる武将は、
積極的に登用する傾向はありました。

しかし、こと鹿之助に関しては、
元春の判断で、こりゃ無理だわ、
絶対、毛利に仇をなすわ、
って考えたみたいですね。

なので、結局。
鹿之助は、捕虜として護送される途中で、
謀殺されています。

なんか、船に乗る途中で、
後ろから斬られたとか。

まぁ、それほど、
尼子家再興への、強い意志が
あったように、見えたのでしょう。

殺されてでも、主家への忠誠を貫く。
これはこれで、男らしい生き方だなぁと。

そういう面が、今でも、
山中鹿之助を有名にしてるんでしょうね。

私も、そういう、バカ正直な面、
嫌いじゃないです。

山中鹿之助が活躍を始めた時代が、
戦国時代でも少し遅かったため、
尼子家の滅亡は止められませんでした。

あと20年ほど、
鹿之助が早く生まれていたら、
尼子家の滅亡も無かったかも!?
と考えるほど、魅力的な武将です。

ちなみに、私は。

七難八苦より、
七易八楽(今創った言葉)のほうが
断然いいです。

願わくば、
我に七易八楽を与えたまえ~ 

うひょ~✨✨


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