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ジェンダーとメンタルヘルスのこと〜ハンドメイズテイルの考察〜【#6】 

リディア叔母から見えるジェンダーとメンタルヘルス

前回の記事でやすのさんは、ハンドメイズテイル(侍女の物語)に登場する、性的マイノリティであり、ハンドメイドでもあるエミリーに焦点を当てながら、ギリアドの目指す「家族」という枠組みの中で生まれる暴力と、その世界で生きる性的マイノリティについて書いてくださいました。

ハンドメイズテイルには、デストピアで生きる様々なキャラクターが、実に生き生きを描かれています。そんな物語の中のキャラクターに焦点を当てることで、ジェンダーとメンタルヘルスが浮かび上がってきます。

前回、やすのさんからのバトンを受け取った後、私の中に思い浮かんだキャラクターの中で際立ってきたのが、ハンドメイズたちを教育するリディア叔母です。今回は、リディア叔母を通して見える、ジェンダーとメンタルヘルスについて明らかにしてゆきたいと思います。

ギリアド共和国のリディア叔母

まずは、リディア叔母の紹介から。
ギリアド共和国でのリディアは、ハンドメイド(侍女)を教育する「叔母」として、レッドセンターに所属し、日夜ハンドメイドたちの教育に熱心に取り組んでいるキャラクターとして描かれています。彼女のハンドメイド1期生には、この物語の中で主要な人物たち、主人公のジューンはじめ、ジャニーン、(前回の)エミリーやモイラ(ジューンの昔からの友達)がいます。リディアのハンドメイドたちへの教育熱心さは、時に暴力に及ぶほど厳しいものでもあります。

ちなみに前回までの記事でも書いてきたように、ギリアド共和国では、性感染症や環境汚染による異常なまでの出生率の低下があり、その対策に子供を産むことのできる女性たちを、ハンドメイドとして国家の最高幹部たち(コマンダー)の家庭に派遣してゆくシステムがあります。そんな女性たちを教育しているのが、リディア叔母です。

「正しさ」と「暴力」

物語の中のリディアは、”立派な”ハンドメイドたちを育てることに全力を注ぐ女性。その想い入れは深いだろうと感じられる場面もドラマの中で見受けられますが、どこか歪んでいるものでもあります。

それはリディアにとっての「正しさ」の価値観や規範が、ハンドメイドたちの個人的な身体や気持ちよりも、ギリアド国のために立派にお役目を果たすという所に軸が置かれているからです。そのため、正しいことをするためには暴力も辞さない態度で教育という名の「矯正」を女性たちに強いることとなります。想い入れが深いものの、心と身体を傷つける行為となるのです。それはギリアド共和国の奴隷として犠牲になることを意味していますが、その「正しさ」を信じるが故に、リディア叔母には、個人が奴隷となっている事実は見えていません。個人よりも、その個人に課せられている”役割”が大切であり、その”役割”への想い入れなのかもしれません。

全体主義国家では全体の秩序が優先されるので、ハンドメイズが自分の役割を果たす為に、ギリアドのルールに従い、子産み機械として全うすることに価値が置かれる世界です。そのような全体主義的な構造の中では、個人の気持ち、想いなどは尊重されません。むしろ、無いことになってしまいます。従って、ハンドメイドには、その役割に疑問をもつこと、ハンドメイドを辞めたいという選択肢はありません。そのような考え方は、『抵抗や反逆』、『わがままや』『身勝手』だとみなされます。

リディア叔母は、国家のために、またハンドメイドたちの為を想いながら『しつけ』という名の暴力によって、教育(もしくは矯正)してゆくのです。それが、ギリアドの為=ハンドメイドたちの為だと信じている様子がドラマの中であちこちに見受けられます。

これは今までの歴史の中でも、全体国家を支える個人としての自由がない時代によく起こる事象です。個人が尊重されないことは、その個人の人命すらも軽視される傾向を生み出します。日本でも、戦時中は、人命が優先されない作戦が取られ、それは戦後にも企業戦士という名前のもとに、経済成長が優先されるような組織構造、「日本的イエ主義」に現れていたのではないかとも思います。そして常に誰かが誰かを見張っており、秩序を乱したものたちは罰せられる世界がギリアドにあるのです。

ドラマの中でリディアは、1期生であるジューンやジャニーンに対して、時にとても厳しい罰を与えます。罰を与えればリディアの中に罪悪感も芽生え、また裏切られたときには、さらなる厳しさを与え支配を強める、そのような歪んだ関係性の中で、リディアの想い入れが、むしろ強まっているようなところもあります。

このようなリディアはどこから来るのでしょうか?その由来は、ギリアド共和国ができる前のリディの人生に隠されていました。

リディアの人生

ギリアド共和国が設立される前の世界でリディア叔母は、もともと敬虔なクリスチャンでししたが、一度の離婚経験の持ち主です。結婚生活でどのようなことがあったかはドラマの中には出てこないので分かりませんが、彼女自身は失敗だったと認めています。また彼女は、もともと家族法の弁護士をしていました。しかし救えない子どもたちがいた為、とても歯痒く、いたたまれない気持ちに耐えかねて、その職務をさり、教師となったのです。

教師となったリディアは、彼女の受け持つクラスの、ある子どもに想いを寄せます。母親がなかなか迎えにこない、シングルマザーの子どもです。弁護士時代に救えなかった子どもが多かったからか、この子どもをどうにか救いたい気持ちが次第に強くなってゆきます。その子どもを気に掛けるうちに、この親子とは個人的な付き合いが始まります。

リディアは、とても忍耐強く、その子どもの母親のことを理解しながら、支える存在となります。夜のバーで仕事をしていた女性は、リディアのアドバイスから昼間の仕事にうつったりと、彼女を子どもにとってより良い母親へとリディアは優しく導いてゆきました。その母親もリディアを慕い、ある年のクリスマスを一緒に過ごします。そのクリスマスでは、その母親からお化粧品をプレゼントされ、メイクアップをしてもらいます。

久しぶりにメイクアップをしたリディア。リディアの中で「女性」であることを久しぶりに感じた瞬間だったのではないでしょうか。彼女の顔色はメイクとともに、無色から明るい表情へと変化してゆきます。

そんな忍耐強く献身的に親子を支援するリディアを見ていた学校の校長は、リディアへ好感を持ち始めます。そしてニューイヤーを一緒に過ごす事に。しかしその夜、リディアの人生が劇的に変わってしまう出来事が起こるのです。

人生の分岐点 〜癒しと傷つきと〜

離婚後のリディアは独り身でした。そんなリディアはどこかで孤独も感じていたのかもしれません。リディアに想いを寄せる校長へ、彼女も急激に惹かれます。また支援していた母親を通して、離婚以来、頑なに閉ざしていた何かが、とけ出していたのかもしれません。

ニューイヤーの夜、校長と二人だけで過ごすのですが、そんなロマンティックな夜に、校長とキスをしたリディアは、彼女のセクシャリティ(本能)が突き動かされ、校長の男性器を触ります。しかし校長は、その流れを止めてしまいます。我に帰ったリディアは、謝るのですが、校長は、謝らなくても良いこと、そして今はまだ早い事を伝えます。そして「また会いたい」と校長はいうのですが、その時点でリディアは、「学校で会いましょう」とそっけない返事をします。それは、彼女自身が心のシャッターを自ら閉じた瞬間でした。

この時リディアは、深い恥を感じたのだと思います。校長に向かって謝罪し、許してほしと言いながら、彼女自身が自分を許していない様子が見られます。そしてこの出来事により、彼女の内在化されていた聖母/売春婦コンプレックスに火をつけたのではないでしょうか。

聖母/娼婦コンプレックスとは何か

簡単に説明すると、男性の中にある女性に対するスプリット(分離)です。聖なる愛(尊敬し賞賛できる、性的存在ではない聖母のような女性)と、セクシャリティ(性的魅力を感じる娼婦のような女性)のスプリット(分離)を指します。このようなコンプレックスを抱いている男性は、一人の女性の中に聖母の部分(賞賛や尊敬を抱く気持ち)と娼婦の部分(性的魅力)の両者が存在することを、受け入れることができません。その現れは、家父長制の社会構造にも見る事ができます。家庭の中の聖母(妻・母親)と外の娼婦(愛人、浮気)という構造が、長い歴史の中で成り立っていました。

そのような社会構造の中で女性の場合、男性の持つコンプレクスを内在化し、自分の中にある聖母の部分と娼婦の部分を統合することが難しくなります。結果的に、男性に望まれる聖母になるには(受け入れられる存在)娼婦の部分はタブー、排除すべき「悪」となります。従って、娼婦は恥ずべき存在となります。

このコンプレックスは、現代もよく見受けられます。例えば、女性に処女性を求めたりすること(処女に神聖さを見出したり、価値を置くことも)、また家族になると、妻が母親になるとセックスする気が失せる男性だったり、もしくは母親になった女性はセックスする気が失せるというように、セックスレスになってしまう要因の一つでもあります。

とはいえ愛情と欲望は対極にあるものなので、現代が生み出した”恋愛結婚”と言う枠組みに、その二つが同居するのは、無理があるのではないかと説いているセックス・セラピストも存在します。安定したおだやかな愛情と欲望からくるセクシャリティを、どのように統合してゆけば良いのかは、欧米でも一つのテーマとなっています。

リディアの中の聖母/娼婦コンプレックス

リディアは、過去の離婚や家族法の弁護士時代の体験から、以前にも深く傷ついた経験があるのではないかと思います。学校の教師になり、親子を献身的に支援することによって、もしくは、そこで「良い人間」になることで、過去の傷から少しずつ癒やされ始めていたのではないでしょうか。

特に、支援していた母親を通して、女性として傷ついた彼女の心の鎧は、少しずつ緩んできた様子が見受けられます。メイクをしてみたり、恋心を抱き、男性との楽しい時間、性的欲望の出現。生きている実感。それはリディアの傷の回復でもあり、癒しの一時でした。しかし、その始まりで急激な「ストップ」がかかってしまったのです。

リディアの性的騒動からくる行動は、校長に拒否されたことで瞬時に、「娼婦」にスポットが当てられたのです。すなわち、自分の「悪」を、突きつけれてしまう出来事となってしまったのではないかと思います。そして、そんな自分自身が「恥」だと深く感じたリディアは、校長の声や想いはもう届かないくらい、急激に心を閉ざしたのです。深く傷ついたのです。

リディアが感じた恥は、存在を揺るがすような深い恥の意識です。罪深い存在であるという認識は、恥を深めていきます。それは、リディアが今まで保ってきた「善」の自己が崩壊した瞬間だったのです。その崩壊は、彼女のその後の行動を見る限り、かなりの精神的負担となったことが見受けられます。

抱えきれない自分像 〜善と悪のスプリッティング〜

昔の傷からようやく癒やされ始めた「全体としてのリディアの自己」は、今回の出来事によって、聖母/売春婦コンプレックスが刺激され、内在化された「善悪」というスプリット(二つに分離)が起こりました。そしてリディアは、自分の中の「悪」に耐えられなくなります。その結果、「悪」に根ざした深い恥から自分を守るために、その「悪」を彼女は、他者に向けることになっていったのです(防衛機制のスプリッティング)。

ちなみに、全体の自己は、自分自身のみたくない部分を見る力、受け止める力(良い自分、悪い自分も受け入れられる感覚)が、十分に成熟している場合は、さほど脅かされません。相手の拒否に傷つきはするものの、回復力も備わっています。思春期から青年期に、このような心の激しい揺れ動き(白黒はっきり)が成長段階ではあります。リディアに、安定した自己統合がすでにあったのなら、このドラマの展開は変わっていたはずです。自分の失態を許す事、受け入れる事ができるので、校長の言葉から、自分を嫌いになったのではない、完全拒否ではないとの認識もできるからです。

「悪」の投影

リディアは、彼女が受け入れたくない「悪」を、今まで親身になってきた母親へ向けました。自分の中にあるものを他者の中に見ることは「投影」と言います。もともとこの母親は、確かに様々な課題を抱えていました。特に男性関係が乱れていたこともあり、時々子供を、長い時間学校に待たせてしまうという事もありました。

この出来事があるまでリディアは暖かい目で親子をサポートしていました。しかし校長との一件から彼女は、その自由に性を謳歌しているだろう母親にの中に、自分が見たくない、排除したい「娼婦」という「悪」を見たのだと思います。その為、今までの態度とは違い、その家族を児童相談所に通告します。リディアにとってその行動は、「娼婦」という「悪」から子供を守らなければ、という気持ちにすり変わった瞬間です。子供を”悪い”母親から離すために、児童相談所へ通告したのです。彼女のロジックがこのように変わりました。

そしてこれは、自分の中にみた「悪」を母親に見出した後、自分を罰する代わりに、母親を罰することで、自分が抱いた強い「恥」の意識を解消する作用があります。「善」だけを感じていたいリディアの精神は、これで保たれたのです。

人は、自分を維持するために、自分の見たくない部分を無意識的に排除します。リディアは「悪」を排除したかったのです。恥が根深いほど、結果的にその反動で「善」へ自分を重ねる衝動が強くなります。リディアの防衛機制は、その傷つき(もしくは衝撃、ショック)が強い分、さらに強まってしまい、その排除された部分を「投影」という形で解消していったのではないでしょうか。

その延長線上に、ハンドメイドを教育する叔母役のリディアが、ギリアドには存在する、ということなのです。

社会の善/悪、マドンナ/娼婦という分離

このような分離は、世界だけではなく、日本の国でも歴史の中で、また現代社会でも構造の中に、また人々の意識にも見ることができます。
過去の話でいえば姦通罪。家父長制の構造の中で存在した法律です。

姦通罪(かんつうざい、英: adultery, criminal conversation)とは、婚姻して配偶者のある者が、他の者と姦通することにより成立する犯罪。
日本においては伝統的に、姦通(あるいは不義密通、不倫)は重罪とされ、公事方御定書でも両者死罪の重罪とされ、協力者もまた中追放か死罪であった。また夫は現行犯の場合には姦男と妻を殺害しても罪には問われることがなかった

Wikipedia

現在、姦通罪はありませんが、ただ現代でもまだまだ人々に意識に浸透しているのか、現代日本社会で不倫をした有名人の場合、男性よりも女性の方がバッシングを受けたり、またイメージが落ちて、その後仕事がなくなったりすること(罰)が多くあると思います。

家父長制で成り立つ社会は、女性の性的奔放さは許されません。性的に奔放になれば「娼婦」というラベルを付けられ、下げずまされます。そのような価値観は、ルールになり法律に入り込めば、それが人の道徳心の基礎を作ってゆきます。そこには、個人への精神的な影響もあり、この場合は女性の中のセクシャリティへの「恥」を深める事になります。そうすると、性的欲求を本当は持っているのにもかかわらず、それを許すことができない場合、他者をも許せない、厳しいバッシングにもなりますし、その許せなさが自分に向かえば、自己嫌悪が強まり、うつ的な傾向、消えたい衝動にも繋がるのです。また、他者と自分という境界線も曖昧になり、同調圧力もそこで生まれるのかもしれません。

その歪みやタブーは、世間の明るい場所に出ることができないために(罪だから)、それは裏の世界に落ちてゆきます。極端な例で言えば、表向きはセクシャリティを排除した”家族”を保ち、裏では不倫、また活発な性活動となります。社会そのものが、分離した環境を生み出すことを促し、その間に生きる人々の様々な心模様も含めて、その社会独特の文化となってゆくのかもしれません。

その様子はギリアドの国でも見られ、とても興味深いです。卵が先(個人)か、鶏が先(社会構造)かはわかりませんが、社会構造が善・悪という視点から秩序を作るような構造であれば、個人の心の分離を後押しします。またこれは、全体主義的な構造にはよくある思考パターンでもあります。シンプルかつ、単純に白黒で判断され人が管理される世界。個人の違い、多様性、グレーも許されない画一的な社会。そしてそれは、多くの人の心に大きな負担を強いることになるために、様々な身体的また精神的な症状や家族問題、人間関係の問題として表に現れてゆくのです。

聖母/娼婦コンプレックスとギリアド

リディア叔母の聖母/娼婦コンプレックスの内在化と恥の意識は、ギリアドの信仰するキリスト教原理主義的な社会においては、「正義」という名の下に行われるハンドメイドへの教育・矯正する役割との親和性があります。彼女の過去からの傷の痛みは、ギリアドの目指す社会とピッタリと合わさったのでしょう。

ハンドメイドたちは「聖母」なのか?「娼婦」なのか?

リディアは、ハンドメイドの中に何を見出しているのでしょうか?子どもを産むという使命を持たされたハンドメイドたちの役割は、リディアにとって大切な聖母なのかもしれません。彼女たちを立派な「聖母」にするためならば、どんなことでもするリディア。そのような想いが激しくなれば、なるほど・・すなわち「正さし」を追求すればする程に、時に「暴力」となる。このように「正義」と「暴力」は地続きの同じ線上にあることが見えます。

「正義」であれば「罰」=暴力も許されてしまうギリアド。この歪んだ「正義」「正しさ」は、彼女の、またギリアドに存在する、誰もが持つセクシャリティ、すなわち「娼婦(穢れ)」への全否定となって現れています。

リディアはいつか、その「穢れ」を許し、受け入れる日はくるのでしょうか。また身体機能を重視された性の役割ではなく、人間という全体としての「個と性」が受け入れられる社会とは?「正義」とは何か。リディアという人物を通して、様々な問いが浮かんできます。

注:このnoteで書いた「キリスト教」について
キリスト教といっても様々な宗派があります。全てのキリスト教には当てはまりませんし、キリスト教信仰を一般化しているわけではありませんので、ご了承ください。

バトンタッチ

今回は、ハンドメイズテイルに出てくる叔母リディアという人物に焦点を当て、物語を見てゆきました。リディアを見ると、聖母/娼婦コンプレックスや、正義、恥と暴力の関係性について様々なことが見えてきました。それが見えてくると、歴史の中で繰り返された家父長制的な構造からくる問題だけではなく、今もなお続く関連した事象が、私たちの生きる現代社会や個人にも見ることもできます。
またこの物語には、様々なキャラクターが実に生き生きと描かれています。そんなキャラクターを通して、自分の心の動きを感じ、様々な気づきもあるのではないでしょうか。

やすのさんは、他にどんなキャラクターが気になっているのでしょうか?もっとハンドメイドテイルのキャラクターを掘り下げてみたい、キャラを通して個人と社会を見つめてみたい、そんな思いを残しつつ・・・やすのさん、よろしくお願いします!

参考:
・Hulu Japan ハンドメイズテイル 〜侍女の物語〜
 シーズン3・エピソード8
セックスの喜びを取り戻して「生」の実感を Mashing Up 
聖母/娼婦コンプレックス(英語)
防衛機制としてのスプリッティング
防衛機制(投影
姦通罪
Image by Thanh Thu Thai from Pixabay


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