見出し画像

『日本人の心と社会の成り立ち 〜「甘えの構造」から見えること〜』【#2】

前回までの内容

第一回目はやすのさんからのエントリーで、土居健郎の著書「甘えの構造」の第一章「甘え」の着想から第二章「甘え」の世界までの内容を踏まながら、アニメ「鬼滅の刃」の社会的大ブームを解き明かしてくださいました。なぜ日本では、アベンジャーズよりも鬼滅の刃」が社会的な大ブームを起こしたのか?やすのさんの記事を読むと、ハリウッドのアベンジャーズに比べると「鬼滅の刃」には、日本人にはお馴染みの感覚である「甘え」に根ざした要素がたくさん散りばめられていることがよくわかります。そこが見えてくると、このアニメが、普段はアニメを見ない方達の心をも掴み、日本国内で社会的大ブームを巻き起こしたのも不思議ではありません。このように、日本のアニメ、漫画、物語には、この「甘えの構造」に根差した物語が他にもあるのだと思います。そこでシリーズ第2回目の今回は「甘えの構造」の第三章の内容に焦点を当てながら、漫画「推しの子」から見える「甘えの構造」を考察してゆきたいと思います。

※「甘えの構造」の概要はやすのさんのエントリーからどうぞ。
※ネタバレも含まれる内容です。ご注意ください。

第三章「甘え」の理論

まずは、簡単に「甘えの構造」の第三章をご紹介します。この章には、甘え」の語源、「甘え」の心理的原型、「甘え」からくる日本的思惟、そして「甘え」と自由、「気」の動態と「心」の動きについて、大きく分けると5つの事が書かれています。そもそも論として、この「甘え」という語源はどこなのか?という問いから始まり、そこから見えてくる「甘え」の心理的原型とそこから生まれる日本的思惟について書かれ、日本的自由や「気」という言葉から日本人の心の健康状態などにも触れています。

「甘え」の語源と心理的原型

本書では、言語が人間の考え方や感じ方を反映しているとし、「甘え」の語源を探っていて、「甘え」の「アマ」が乳児の言葉「ウマウマ」に由来し、また「アマ」が「天」から来ているとの仮説から出発しています。

「甘え」の「アマ」の語源が「ウマウマ」とつながるという仮説から、これは母乳を求める乳児の言葉であるとしています。興味深いことに、またこれは私の友人の話ではありますが、台湾でも同様の意味を持つ言葉が使われているのです。台湾語で「甘え」は「司奶(サイナイ)」という漢字が当てはめられ、これは「乳がないと寂しい気持ち」を意味すると言います。土居氏は、この「甘え」の心理的原型が、母子関係にあることを示唆していると言います。

また「天(アマ)」に関しては、土居氏が参加した座談会で、日本では、「天」は連続するものとして、恵みを与える存在として捉えていたことが話されています。また日本神話の天照大神という女神と「天」についても書かれています。「甘え」から、母子、天、与える、このようなキーワードが見えてきます。

「甘え」の心理的原型:母子一体感への希求と役割

「甘え」の心理的原型は母子の一体感への欲求です。「甘える」という言葉が使われるのは、子どもが母親を別の存在として認識し始めたからです。母と子が離れることへの不安が「甘え」の心理的欲求を強くします。

日本人はこの他者との「甘え」を軸にした関係性の中で自分を捉え、集団の中での自分のポジションを重視します。これは欧米型の個の自立とは異なり、集団の中での自分を先に意識するものです。

「甘え」と個の在り方

日本社会では、自分の権利を自分で獲得するのではなく、他者に求める「甘え」で成り立っていると言えます。このため、自他の境界が曖昧で、相手の空気を読むことで成り立つ関係性が特徴です。もしかしたら日本人が声を上げにくいのは、この「甘え」の構造が影響している可能性もあるのではないかと思いました。

このように、自分よりも最初に気にするのは集団、もしくは他者になるので、自分の軸が自覚しずらい。本書ではそれを、丸山真男氏の言葉を取り上げ「座標軸の欠如」と言っています。土居氏は「座標軸の欠如」がむしろ外国の規範を受け入れる柔軟性をもたらし、それにより日本独自の近代化に寄与したと言うポジティブな面と、マイナスに出ればそれは心の病に繋がることを指摘しています。

日本的思惟から見える「甘え」と美への追求

土居氏は、日本人が「甘え」を通じて一体感を求めることは、それを得られないフラストレーションも同時に生まれると言います。そして、それがあるからこそ、永続的な一体感を禅などの宗教へ求めてゆくこととなり、そこで「わび」「さび」「いき」といった美意識を育んだとしています。

また「わび」「さび」は一人の静寂を愛する感覚であり、その反対に「いき」は人との関わりの中で生まれる美だとしています。「いき」は「甘え」に伴う泥臭さ(すね・ひがみ・ひねくれ)の中で人との適切な対応が求められることで、他者が”はっ”とるような振る舞いが「いき」だとされたようです。ここででは、九鬼周造の「いきの構造」を引用し、昭和初期には「甘え」が異性に対するものとしてのみ表現されていたことを指摘しています。戦前は「甘え」の本質が幼児的なものだという認識は薄かったと書かれていました。

「甘え」と自由、その捉え方

日本と西洋では、自由の考え方が違います。西洋では、自由は人権や尊厳と結びつき、個人の優位性が重要視されます。一方、日本での自由は「わがまま」と捉えられることも多く、これも「甘え」から来ているようです。どこまでいっても他人を必要とし、集団に依存した枠の中の自分。だからこそその集団から個人を出すと「わがまま」になるのかもしれません。

またここで興味深いのは、西洋人は感謝した際に「ありがとう」というのに対して、日本人は「すまない」と謝罪の言葉を使うという指摘です。土居氏は夏目漱石の「坊ちゃん」の例を出して説明しているのですが、そこでは「貸し借り」という捉え方で表現されています。西洋の文脈では、キリスト教が背景にあるのでボランティア精神があります。その視点が、施しを受けること、それはそのまま感謝となるではないかと思いました。しかし日本ではそれが「すまない」になる。なぜなら「貸し借り」だから。このように見るとしっくりきます。その捉え方をすれば、やはり「わがまま」とも見えてくるのかもしれません。

ただ土居氏は、自由については、西洋の長きにわたる動乱とキリスト教の歴史も関係しているとの考察があり、そこから見る西洋における自由の観念は、行き着くところ日本の自由と変わらないのではないかとも言っています。自由をどのように求め、獲得するか、その捉え方や、ベクトルが違うだけで、根底にある人の望みは同じだということだと思います。

「気」の動態と「心」の動き

「気」は現象の働きそのものであり、「気まま」とは、他者との適切な距離を保ちつつ、自分の「甘え」を客観視できる状態を指します。しかし、「気」の問題が生じると、心の病気や「気が違う」状態になり、自分の「甘え」を客観視できなくなると書かれています。健康的な「甘え」の方向性は、自己確立と他者との関係のバランスが重要だそうで、これは西洋の個人主義と共通する部分があるとされています。西洋文化である個人主義、日本文化の集団主義は、自己の自立は、視点や着目点が異なるものの、やはりそこには共通するものがあると言っているので、人間であれば、やはり自己確立と心の健康は関係するのだと思います。

この章で気になること:「甘え」とジェンダー

この章を読んで特に気になったのは、「甘え」の使い方に家父長制とその中のヒエラルキー、ジェンダー役割が影響しているのではないかということです。

第3章で取り上げられる「坊ちゃん」の例では、坊ちゃんは母親的存在の使用人清に借りがあるが、返そうとしません。坊ちゃんは、清が借りを返してほしいとは期待していない(無償の愛)ので、感謝を表すことがかえって失礼だと考えています。土居氏は、坊ちゃんと清の関係を「甘え」と指摘し、彼らは独立していない依存関係にあると言います。依存関係とするのか、ジェンダー役割が影響しているのか?

坊ちゃんが女性だったら同じように考えるのでしょうか。日本では感謝を示すことが「すまない」と頭を下げることになり、そこに「恥」が生じると土居氏は述べています。男性である坊ちゃんが清に甘えることを情けないと感じていないか、また清が使用人であることも影響していないかという疑問が浮かびます。

女性や子どもに対して「甘え」が使われること、その逆に、男性に対しては示唆されていません。もしくは恥とされる傾向があるのではないかと感じます。そこにはジェンダー役割、パワーの差が影響しているのではないでしょうか。

このジェンダーの影響を考えると、日本の「かわいい文化」が、この「甘え」の構造からきているのではないかと仮定することも可能です。そこで今回は、漫画「推しの子」取り上げて、そこかから見える「甘えの構造」を見てゆこうと思います。

漫画「推しの子」と「甘えの構造」

相手に「甘え」える姿が、男性から見る異性である女性に使われ、そして「甘え」の幼児性が加わり、それが「かわいい」に通じているのではないかと仮定すると、現代に続く日本の「かわいい」文化の誕生も、とてもしっくりと理解できます。そんな「かわいい」文化と「甘え」を探るべく、今回は10代から20代の特に女性から人気のある漫画「推しの子」(アニメ化もされています)をご紹介します。

漫画「推しの子」

この作品は、2020年週刊ヤングジャンプで漫画連載が始まり、2023年にアニメ化された人気漫画です。アニメでは、赤坂アカが書き下ろした小説「45510」を原作を元にYoasobiがオープニング曲を担当し、それが世界的大ヒットとなっている現在進行形の作品です。

現在も大ヒット中の漫画「推しの子」は、実に様々な角度から分析できる興味深い作品です。今回は「甘えの構造」の第三章から見える「推しの子」に焦点を当て、①「甘え」の心理的原型からくる一体感②日本の「かわいい」文化(日本人の美意識)について考えてみました。

究極のアイドルに見る、一体感への希求と日本の「かわいい」文化

この物語は、母子一体化を、究極の形で描かれていて、そこからの再生物語です。そして物語の背景には、この第三章で書かれている役割を演じ切るアイドルの姿が「いき」の美意識にも通じるのではないかと感じています。またそれが、この漫画の舞台でもある芸能界という世界で繰り広げられているのが面白いです。嘘なのか、本当なのか、究極の「かわいい」芸でファンを魅了し、一体感を作り上げる少女たちの心の中には、表とは真逆の、自己の分離による(自己一致が難しい)葛藤や不安定さを見ることができるのです。

「推しの子」に描かれる一体感

物語の主人公さりなは、12歳で病死してしまのですが、星野アイというアイドルが大好きで、アイを応援することが生前は彼女の支えでした。また、さりなが懐いていて、幼い恋心を抱いていたのは、親身になって病室に訪ねてきてくれていた、産婦人科医だったゴロー。彼はさりなを支えるために、一緒になってアイを応援していました。そんな二人が死後、彼らが推していたアイドル・星野アイの双子(さりな=ルビィとゴロー=アクア)として転生します。まさに”推しの子”となるというファンタシーからスタート。母子一体からの分離物語という壮大な人生の再生物語なのです。

死ぬ前のさりなは、アイみたいになりたくて、彼女を応援しながら自分を重ねていました。ここにも一体化したい願望がすごく表れていて、アイドルとファンというのも、この「甘え」ならではの一体感を求め、また感じられる支援関係性なのかもしれません。

親と子、ファンとアイドル、甘えの一体感を希求する関係性、そういう観点から、この「推しの子」という、芸能界で成長するアイドルの物語は、その物語の背景である芸能界の構造も含め、良くも悪くも日本独特の「甘え」の構造の世界観を表現している作品だと感じます。

日本人の美意識:究極のアイドルという粋な芸

この推しの子は、芸能界で、裏と表を使い分けて生きている”究極のかわいいアイドル”の物語でもあります。それが三章にも書かれている「いき」にもつながっているのではないかと思いました。

この物語は、一見、キラキラしたアイドル要素が前面に出てきてはいますが、それとは裏腹に、物語の中心にはサスペンス要素を据え、日本の社会問題や、芸能界の闇に切り込んでいます。その様子は、さまざまな登場人物を通して、先ほど書いた「甘え」の泥臭さとも言える人間の感情がよく出てきます。この作品から見えてくるのは、日本社会や日本人にある裏と表、そして役割からくる縦の関係の中で生まれる問題や、その構造で結ばれた人間関係のしがらみです。

その「甘え」の関係が健康であるなら、個人を支えるものにもなり、不健康なものになると、それは搾取や支配という問題や、それを見て見ぬふりをする構造になってゆくことも、この漫画で繰り広げられる芸能界という舞台を通してよく見えてきます。これはジャニーズ問題にも通じると思います。

このような泥臭い「甘え」の世界を「かわいい」でコーティングしながら表舞台はとても明るい世界。しかし、アイドルたちの心は葛藤でいっぱい・・そんな葛藤をどう乗り越えてゆくのか?この状況を乗り越えてゆくことができると、さらに芸には磨きがかかり、本物の「いき」へと到達するのかもしれません。

その他には、食うか食われるかの激しい競争の中で、成功への階段を登ってゆくアイという人物の、表には出てこない「闇」と「絶対的で強烈なかわいさ」という極端なギャップに、「いき」を極めた究極のアイドルだという事が示されているのかもしれません。

ファンの「甘え」からくる一体感の希求に応える完璧な究極のアイドル。このファンの要望に完璧な形で応えることのできる究極のアイドルそのものが、アイの芸であり、役割でもあるのです。これが「甘え」の構造の中で成り立っているアイドルとファンの関係であり、アイドルという「美」への追求なのかもしれません。そしてアイの「美」は、日本の「甘え」から誕生した「かわいい」文化の象徴とも言えるのではないでしょうか。

一体感から始まるその先・・・

漫画「推しの子」は、ファンとアイドルの究極な一体感という願望を、アイの子どもに生まれることで成し遂げるところが面白いなと思います。さりなの人生は12歳で終わったのではなく、ルビーとしてのその先があったのです。12歳から先のさりなの人生は、アイの子供に生まれることで、どのように進んでゆくのでしょうか。この作品の中に出てくる、ルビーの母親である「アイ」という名前はとても象徴的です。12歳で亡くなったさりなは、実の親には愛されずに育ち、愛を強く求めていました。転生した先は母親のアイ、そこから様々な人たちの愛に支えられ、成長してゆくさりな=ルビーなのです。

またアイが、ルビーとアクアを産んだ土地が宮崎県の高千穂にある病院という設定も面白いなと思いました。ここは日本神話の土地として有名です。この物語には日本神話がたくさん散りばめられていて、例えばルビーが小さい頃に、自分が天照大神だと嘘をつき、アイの所属する芸能プロダクションの社長夫人であるミヤコに啓示を与え騙すシーンがあったりするのです。その他にも、転生する前のさりなとゴローに助けられたカラスが、後に、日本神話に登場する神「ツクヨミ」として登場することろも興味深いです。

この作品は、物語の中にいろんな要素が含まれているので様々な角度から分析することができる作品だと思います。これをさらに深掘りすることができればと思うので、後にシリーズ化にして考察できたらと思っています。

バトンタッチ

今回は、「甘え」の構造の第三章から、「甘え」語源からくる心理的原型である一体感への希求と、そこから見える美への追求をもとに、漫画「推しの子」を読み解いてみました。この漫画「推しの子」は、読んでみると本当に面白い漫画で、私の知る、芸能界系の漫画(「ガラスの仮面」や「まひろ体験」)の物語とは、また違ったものだなと感じています。これは現代という時代背景も影響しているのかもしれません。

また「甘え」の構造の中で、この女性と幼児性が繋がっているところに、日本の家父長制やジェンダーの課題もあるのではないかと感じました。今回はそこを深くは追求していませんが、この「甘え」の構造という世界観が、とても母性的なものでもあるなとあらためて実感し、そこに父性がどのように関わるのかも気になります。また本書を読む進める中で、「甘え」には家父長制も影響しているように感じたので、日本の社会構造と「甘え」について、次は日本の病理という視点から、やすのさんに聞いてみたいと思います!

参照:
甘えの構造 土居健郎 
東洋経済:https://toyokeizai.net/articles/-/697073?page=4

表紙素材:https://imgur.com/o28q6xh



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?